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第5話 王座の行方
67、別離
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ラズが朝起きたとき、ブレスレットが外れて枕元にあった。
寝ている間に壊れて外れたのかと思い、くるくると壊れた留め金を確認をしようとするが、その箇所がわからない。
どこも欠けてもいなかった。
ラズは訝しく思いながら、手の平をすぼめて輪に通して元の手首に、あるべき場所に納めようとする。
それは、シディがラズに嵌めたブレスレットだからだ。
だが、親指の付根と小指の付根がつっかえてそれ以上押し込めない。ベッドでしばらく格闘する。
これは両手でないとはめられない留め金なので、ようやく寝ている間に誰かが手首から外してまた閉じて、そして枕元に置いたのだと気がついた。
誰かとはそれはシディしかいなかった。
ラズにはわかる。
夜中にシディが訪れて、シディの愛人の印を外して、それだけして出ていったのだ。
あれから一度もラズはシディと会っていない。
ラズの体を傷つけたことへの言い訳も謝罪も聞いていない。
むしろ、不貞行為を匂わせシディを追い詰めた王にそこはかとない怒りを感じるのだ。
シディがラズに対する無茶な行いを反省し憔悴しているという話はテーゼから聞いていた。
ラズは、目覚めて己の酷い体の状態を知ってもシディへの気持ちは不思議と変わらない。
ラズにしたことに対して思い悩んでいるならば、会えば気にしないでと伝えたかった。ラズの愛は変わっていない。
それなのに、寝ている間に夜中にこっそりと訪れて、ひとりで納得し結論を出し、己の印だけ外して帰る。
ふたりの関係が変わる分水界だった。
シディは囲うのではなくて、手放すことを決意したのだ。
ラズの心がじわりと冷えていく。
かといって、一生囲われた方がいいかというと、ただひたすらシディを待つそんな退屈な人生も考えられなかった。
このまま、シディと一度も顔をあわさないまま別れることもありえそうであった。
シディが会わないつもりなら。
勝手に別れを済ませた気持ちになっているのなら。
ラズは手早く顔を洗って身支度を整える。
朝食の時間、シディも食堂で食べているだろうか?
午前の鍛練に参加するだろうか?
午後からは王の会議や、盗賊征伐の後始末は全て済んだのだろうか。
次の問題の着手にかかったりしているのだろうか?
ラズは扉を開く。
鍵がかかっている訳ではない。
一歩でるとそこに佩刀した男がいるだけだ。椅子に座っていたり、壁にもたれていたり、三名ほどが交代で扉の外にいる。
「食堂に行きたいのだけど、、、」
今朝の男はがっつりした体躯の若い男だった。略装の騎士である。クリスと話をしている姿が重なる。
ラズの顔を見ると眩しそうに瞬いた。
「食事ならもう少しお待ちください。まだ運ばれてきておりません」
「僕は、自分で食べたいものを選びたいんだけど」
「申し訳ありません。お好きなものがありましたらおっしゃってください。わたしが伝えておきます」
申し訳なさそうに彼はいい、扉を閉めようとする。
ラズは手を伸ばしてその胸に手を置いた。
若者の動きがぎくりと止まる。
ただ、胸に触れただけなのだが。
その反応を見てラズの決意が固まる。
「クリスは元気にしている?クリスの友人でしょう?あなたをなんて呼べばいいの?」
「はっ?わたしはバッジオと申します。クリスは復帰しておりますが、意気消沈してまして、、、。」
「バッジオ。クリスがどうして意気消沈を、、、?」
胸にさりげなく置かれたしなやかそうな手がバッジオの胸を撫で降ろす。
「それは、、、」
バッジオは見上げるラズの煌めく目をみて、心臓が跳ねあがった。
普段が大人しく問題行動がない囚われ人だったことが、バッジオを油断させてしまった。
なぜに彼の部屋を24時間護衛が扉を守るのか。
ラズを間近で見ればオブシディアン王子やオーガイト王を虜にするのも納得できる、どこか色気を感じさせる、美貌の若者である。
彼の人生は波乱に満ちたものに違いないとバッジオは思った。
さらにその手は物欲しげに下腹から腰へ滑る。
ジャン。
金属が擦れる音。
バッジオが何事かと理解する前に鈍色の鋼が喉仏に突きつけられていた。
ラズの手にはバッジオの剣が抜かれていた。
ラズは先ほどと打って変わって必死な形相である。
「オブシディアン王子に会いたいんだ。死にたくないのなら、彼の元に案内して?」
やられた。
バッジオは色仕掛にはまった。
己の馬鹿さ加減に笑えそうなほど、王子の愛人にとってちょろい相手だろう。
だが、剣を持つ指の間接は白く浮き出し、白刃が微かに揺れていた。
ただの脅しだった。
バッジオはこの美貌の若者の、決死の決意を尊重することにした。
「わかりました。王子は上の階です。最近は部屋で食事をとられていますよ。今からご案内いたします。さあこちらへ」
バッジオはスタスタと歩く。
ラズは唖然とするが、置いていかれないように必死でついていく。
何人かとすれ違うが、バッジオが平然と歩いているために、彼の後ろに抜き身の剣を持つ金の髪の若者がいるのを咎めるものはいなかった。
バッジオは王子の部屋の扉を軽く叩く。
「なんだ?」
テーゼが開ける。部屋の奥が見えて、食事を取る王子の姿が見えた。
テーゼはバッジオの姿に眉を寄せた。
「お前は今朝から当番ではないのか?何か持ち場を離れる理由があるのか?」
「その通りです。ラズさまが、、、」
「ラズさまが、、、?」
テーゼはいう。
ラズの名に部屋のシディが顔を上げた。
ラズはバッジオの大きな体の後ろから飛び出した。一瞬の出来事に反応ができなかったテーゼの横もすり抜けた。
緊急事態に咄嗟にシディは脇に置いていた剣を鞘ごと掴む。
そして、押し入った暴漢に目を丸くする。
「おはよう。シディ。あなたが勝手にひとりで決めようするから会いに来たんだ」
にっこりラズは微笑んだ。
久々にきちんと正面からシディを見たような気がする。
シディは少し痩せていた。
彼がラズにしたことを後悔し、辛い決断をくだしたからか。
「おはよう、ラズ。もう体は大丈夫か?
あなたは大人しく閉じ込められる人ではなかったのだったな。
昔も城からよく抜け出していたのだから、部屋から抜け出すのも簡単だったか?
テーゼ。剣を降ろせ」
テーゼは音もなく抜いた剣を、再び納めた。
シディが止めなければ、この王子を惑わす麗人をこの不測の事態に乗じて王子の暗殺の咎で切り捨てるつもりだった。
今後の憂いを絶てる千載一遇のチャンスを失って舌打ちをしそうになるのをテーゼは飲み込んだ。
「外へ出てくれ」
「ですが殿下、武器を持ち危険です」
「二度も言わせるな」
テーゼはラズを睨み付け、渋々出ていく。
扉が閉められた。
バッジオはその後二人がどんな会話をしたのか聞けなかった。
城を抜け出して、とはどういうことだろう?とバッジオはいつまでも気になったのであった。
王子の部屋は基本的にはラズの部屋と同じ作りである。朝食のプレートが置かれるカフェテーブルに、壁一面が書籍で埋め尽くされている。大きな窓に、ベランダ。部屋の奥には天蓋付きのひとりには大きなベッド。
シディはテーブルを回り、ラズに近づいてくる。
その手は鞘を掴んだままだ。
ラズだとわかったときに浮かべた喜びの顔は、微妙にその色を変えている。
「剣を手にしたあなたは刺客なのか?わたしのしたことを許せなくて、、、?」
「シディを憎いとも思っていない。もう大丈夫だから」
「わたしはわたしが恐ろしい。あなたを再び傷つけるかもしれないと思うと、耐えられない」
その視線はラズの空の左手首をみた。
苦悶の表情が浮かぶ。
「あなたを一生囲うのもできない。そうすれば、自由にこがれるあなたを生きながら殺してしまう。あなたの気持ちを無視して、わたしの欲望を貫いてしまう。あの夜のように。わたしを殺すために来たのだというのなら、それも死に方としては悪くないかもしれない」
「シディ、、、」
あれは王が悪意をもってしかけた罠だ。
ラズは言おうとした。
王の意図した通り、シディの方からラズを手放そうとしている。
そんな王の手の内で踊らされないで。
シディが王の道を歩みつつ、ラズも一緒にいられる方法を探しましょう、とラズは云おうとした。
一生閉じ込めるという剣呑なやり方ではなくて。
僕を手放すなんて言わないで。
僕があなたを殺しに来たはずはないでしょう。
その時、ラズの視界の端が揺らいだ。
部屋の奥にはベッド。
天蓋つきのベッドが軋む。
紗の薄物が気配にゆらぐ。
云おうとした言葉が形になる前にほどけていった。
ラズはその気配の正体を確かめたくなかった。
知ってしまえば、ラズの中で何かが確実に変容しまいそうだった。
だが、意思とは無関係に首が向いていく。
距離は瞬時に詰められていて、その手に握られていたはずの剣は足元に落とされていた。
ラズの色を失った顔をシディは両手で挟み込み、自分の顔に向けさせた。
「わたしはあなたを解放することに決めたのだ。妻も娶り、子も成す。
それはあなたがわたしに望んだことでもあるだろう?」
シディから匂う、甘い花の匂い。
部屋中にも漂っていることにようやく気がついた。
ラズの手から最強の武器が滑り落ちた。
「そう。僕は最後の別れを言いに来た。
シディは昨晩のあれでもう終わりにしたつもりでいるような気がしたから。
バッジオを責めないで欲しい。無理矢理お願いしたんだ」
「、、、そのようだな」
盛大にラズは鼻を啜る。
シディのベッドに誰かがいると思うことが、ひどく凌辱された時よりも辛かった。
その事実にラズは打ちのめされた。
己の中にある激しい独占欲に押し潰されそうだった。
今さら気がついてももう、取り返しがつかなかったが。
「さよなら、、、シディ、、」
ラズはどのようにして部屋に戻ったのかわからない。
部屋のベッドに突っ伏して、ラズは声もなく泣いた。
寝ている間に壊れて外れたのかと思い、くるくると壊れた留め金を確認をしようとするが、その箇所がわからない。
どこも欠けてもいなかった。
ラズは訝しく思いながら、手の平をすぼめて輪に通して元の手首に、あるべき場所に納めようとする。
それは、シディがラズに嵌めたブレスレットだからだ。
だが、親指の付根と小指の付根がつっかえてそれ以上押し込めない。ベッドでしばらく格闘する。
これは両手でないとはめられない留め金なので、ようやく寝ている間に誰かが手首から外してまた閉じて、そして枕元に置いたのだと気がついた。
誰かとはそれはシディしかいなかった。
ラズにはわかる。
夜中にシディが訪れて、シディの愛人の印を外して、それだけして出ていったのだ。
あれから一度もラズはシディと会っていない。
ラズの体を傷つけたことへの言い訳も謝罪も聞いていない。
むしろ、不貞行為を匂わせシディを追い詰めた王にそこはかとない怒りを感じるのだ。
シディがラズに対する無茶な行いを反省し憔悴しているという話はテーゼから聞いていた。
ラズは、目覚めて己の酷い体の状態を知ってもシディへの気持ちは不思議と変わらない。
ラズにしたことに対して思い悩んでいるならば、会えば気にしないでと伝えたかった。ラズの愛は変わっていない。
それなのに、寝ている間に夜中にこっそりと訪れて、ひとりで納得し結論を出し、己の印だけ外して帰る。
ふたりの関係が変わる分水界だった。
シディは囲うのではなくて、手放すことを決意したのだ。
ラズの心がじわりと冷えていく。
かといって、一生囲われた方がいいかというと、ただひたすらシディを待つそんな退屈な人生も考えられなかった。
このまま、シディと一度も顔をあわさないまま別れることもありえそうであった。
シディが会わないつもりなら。
勝手に別れを済ませた気持ちになっているのなら。
ラズは手早く顔を洗って身支度を整える。
朝食の時間、シディも食堂で食べているだろうか?
午前の鍛練に参加するだろうか?
午後からは王の会議や、盗賊征伐の後始末は全て済んだのだろうか。
次の問題の着手にかかったりしているのだろうか?
ラズは扉を開く。
鍵がかかっている訳ではない。
一歩でるとそこに佩刀した男がいるだけだ。椅子に座っていたり、壁にもたれていたり、三名ほどが交代で扉の外にいる。
「食堂に行きたいのだけど、、、」
今朝の男はがっつりした体躯の若い男だった。略装の騎士である。クリスと話をしている姿が重なる。
ラズの顔を見ると眩しそうに瞬いた。
「食事ならもう少しお待ちください。まだ運ばれてきておりません」
「僕は、自分で食べたいものを選びたいんだけど」
「申し訳ありません。お好きなものがありましたらおっしゃってください。わたしが伝えておきます」
申し訳なさそうに彼はいい、扉を閉めようとする。
ラズは手を伸ばしてその胸に手を置いた。
若者の動きがぎくりと止まる。
ただ、胸に触れただけなのだが。
その反応を見てラズの決意が固まる。
「クリスは元気にしている?クリスの友人でしょう?あなたをなんて呼べばいいの?」
「はっ?わたしはバッジオと申します。クリスは復帰しておりますが、意気消沈してまして、、、。」
「バッジオ。クリスがどうして意気消沈を、、、?」
胸にさりげなく置かれたしなやかそうな手がバッジオの胸を撫で降ろす。
「それは、、、」
バッジオは見上げるラズの煌めく目をみて、心臓が跳ねあがった。
普段が大人しく問題行動がない囚われ人だったことが、バッジオを油断させてしまった。
なぜに彼の部屋を24時間護衛が扉を守るのか。
ラズを間近で見ればオブシディアン王子やオーガイト王を虜にするのも納得できる、どこか色気を感じさせる、美貌の若者である。
彼の人生は波乱に満ちたものに違いないとバッジオは思った。
さらにその手は物欲しげに下腹から腰へ滑る。
ジャン。
金属が擦れる音。
バッジオが何事かと理解する前に鈍色の鋼が喉仏に突きつけられていた。
ラズの手にはバッジオの剣が抜かれていた。
ラズは先ほどと打って変わって必死な形相である。
「オブシディアン王子に会いたいんだ。死にたくないのなら、彼の元に案内して?」
やられた。
バッジオは色仕掛にはまった。
己の馬鹿さ加減に笑えそうなほど、王子の愛人にとってちょろい相手だろう。
だが、剣を持つ指の間接は白く浮き出し、白刃が微かに揺れていた。
ただの脅しだった。
バッジオはこの美貌の若者の、決死の決意を尊重することにした。
「わかりました。王子は上の階です。最近は部屋で食事をとられていますよ。今からご案内いたします。さあこちらへ」
バッジオはスタスタと歩く。
ラズは唖然とするが、置いていかれないように必死でついていく。
何人かとすれ違うが、バッジオが平然と歩いているために、彼の後ろに抜き身の剣を持つ金の髪の若者がいるのを咎めるものはいなかった。
バッジオは王子の部屋の扉を軽く叩く。
「なんだ?」
テーゼが開ける。部屋の奥が見えて、食事を取る王子の姿が見えた。
テーゼはバッジオの姿に眉を寄せた。
「お前は今朝から当番ではないのか?何か持ち場を離れる理由があるのか?」
「その通りです。ラズさまが、、、」
「ラズさまが、、、?」
テーゼはいう。
ラズの名に部屋のシディが顔を上げた。
ラズはバッジオの大きな体の後ろから飛び出した。一瞬の出来事に反応ができなかったテーゼの横もすり抜けた。
緊急事態に咄嗟にシディは脇に置いていた剣を鞘ごと掴む。
そして、押し入った暴漢に目を丸くする。
「おはよう。シディ。あなたが勝手にひとりで決めようするから会いに来たんだ」
にっこりラズは微笑んだ。
久々にきちんと正面からシディを見たような気がする。
シディは少し痩せていた。
彼がラズにしたことを後悔し、辛い決断をくだしたからか。
「おはよう、ラズ。もう体は大丈夫か?
あなたは大人しく閉じ込められる人ではなかったのだったな。
昔も城からよく抜け出していたのだから、部屋から抜け出すのも簡単だったか?
テーゼ。剣を降ろせ」
テーゼは音もなく抜いた剣を、再び納めた。
シディが止めなければ、この王子を惑わす麗人をこの不測の事態に乗じて王子の暗殺の咎で切り捨てるつもりだった。
今後の憂いを絶てる千載一遇のチャンスを失って舌打ちをしそうになるのをテーゼは飲み込んだ。
「外へ出てくれ」
「ですが殿下、武器を持ち危険です」
「二度も言わせるな」
テーゼはラズを睨み付け、渋々出ていく。
扉が閉められた。
バッジオはその後二人がどんな会話をしたのか聞けなかった。
城を抜け出して、とはどういうことだろう?とバッジオはいつまでも気になったのであった。
王子の部屋は基本的にはラズの部屋と同じ作りである。朝食のプレートが置かれるカフェテーブルに、壁一面が書籍で埋め尽くされている。大きな窓に、ベランダ。部屋の奥には天蓋付きのひとりには大きなベッド。
シディはテーブルを回り、ラズに近づいてくる。
その手は鞘を掴んだままだ。
ラズだとわかったときに浮かべた喜びの顔は、微妙にその色を変えている。
「剣を手にしたあなたは刺客なのか?わたしのしたことを許せなくて、、、?」
「シディを憎いとも思っていない。もう大丈夫だから」
「わたしはわたしが恐ろしい。あなたを再び傷つけるかもしれないと思うと、耐えられない」
その視線はラズの空の左手首をみた。
苦悶の表情が浮かぶ。
「あなたを一生囲うのもできない。そうすれば、自由にこがれるあなたを生きながら殺してしまう。あなたの気持ちを無視して、わたしの欲望を貫いてしまう。あの夜のように。わたしを殺すために来たのだというのなら、それも死に方としては悪くないかもしれない」
「シディ、、、」
あれは王が悪意をもってしかけた罠だ。
ラズは言おうとした。
王の意図した通り、シディの方からラズを手放そうとしている。
そんな王の手の内で踊らされないで。
シディが王の道を歩みつつ、ラズも一緒にいられる方法を探しましょう、とラズは云おうとした。
一生閉じ込めるという剣呑なやり方ではなくて。
僕を手放すなんて言わないで。
僕があなたを殺しに来たはずはないでしょう。
その時、ラズの視界の端が揺らいだ。
部屋の奥にはベッド。
天蓋つきのベッドが軋む。
紗の薄物が気配にゆらぐ。
云おうとした言葉が形になる前にほどけていった。
ラズはその気配の正体を確かめたくなかった。
知ってしまえば、ラズの中で何かが確実に変容しまいそうだった。
だが、意思とは無関係に首が向いていく。
距離は瞬時に詰められていて、その手に握られていたはずの剣は足元に落とされていた。
ラズの色を失った顔をシディは両手で挟み込み、自分の顔に向けさせた。
「わたしはあなたを解放することに決めたのだ。妻も娶り、子も成す。
それはあなたがわたしに望んだことでもあるだろう?」
シディから匂う、甘い花の匂い。
部屋中にも漂っていることにようやく気がついた。
ラズの手から最強の武器が滑り落ちた。
「そう。僕は最後の別れを言いに来た。
シディは昨晩のあれでもう終わりにしたつもりでいるような気がしたから。
バッジオを責めないで欲しい。無理矢理お願いしたんだ」
「、、、そのようだな」
盛大にラズは鼻を啜る。
シディのベッドに誰かがいると思うことが、ひどく凌辱された時よりも辛かった。
その事実にラズは打ちのめされた。
己の中にある激しい独占欲に押し潰されそうだった。
今さら気がついてももう、取り返しがつかなかったが。
「さよなら、、、シディ、、」
ラズはどのようにして部屋に戻ったのかわからない。
部屋のベッドに突っ伏して、ラズは声もなく泣いた。
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