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ふたつ目の再会
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「負けない」出勤時の時、ハンドルを握りアクセルを踏みながらマコトはつぶやいた。
2023年10月11日 水曜日
マコトは鹿児島大学保健学科を卒業して、看護師の資格を取得後に上京している。マコトの父は鹿児島の人間ではない。父が単身赴任で34年前に東京から鹿児島にやって来て、マコトの母と関係を持ちマコトが生まれた。その後、マコトの父は会社の人事異動を断り続け鹿児島で定年を迎えて鹿児島で死んだ。マコトが20歳の時だ。なぜ東京に戻らなかったのかは答えてくれなかったが、父が鹿児島を愛しマコトの母、マコトを愛していたのは事実だ。母と再婚してはいなかったが、マコトには高橋の姓を名乗らせている。
上京した理由は自分の実力を試したかったからだが、自分のルーツを知りたかったこともある。
しかし野心は上京をした後、打ち砕かれて「負け」とレッテルを貼られて帰郷している。
職場に着いた。戦闘開始だ。
「おはようございます」マコトが脳神経外科のナースステーションに入った時間は日勤開始40分前の7時50分だ。夜勤の看護師がひとり立ちながらパソコンを打ち、もうひとりは部屋を回っているが、白衣を着た高齢の男性医師がパソコンの前に座っていた。ハマサキ先生だ。
元々ハマサキ先生は鹿児島大学の教授だったがマコトが1年生の時に引退しており、この霧島中央医療センターの副院長をしていた。今は更に副院長からも降りて、一般の医師として働いてる。年齢は70を過ぎているが仕事は的確で、動きが速いと聞く。ただ医師でも看護師でも、職員にはとても厳しく恐れられている。
「新しい主任さん…タカハシさんだったね ヒダカさんの側臥位は良い判断だった 昨晩に彼は嘔吐したよ 君が側臥位対応を申し送っていなければ 大変だっただろうね」ハマサキ先生はパソコンをログアウトして立ち上がると、サッと階段室へと消えて行った。
マコトは頭を下げたが、彼は気づいていないだろう。ただ厳しくて恐れられている医師が自分の仕事を認めてくれたのは、マコトには励みとなった。
「分かる人」マコトは読んだ。
マコトは東京で働いていた時代に「脳卒中リハビリテーション看護」の認定資格を持っていた。マコトは「勝ち」の為に自己研鑽は欠かしていない。
ハマサキ先生が扉の向こうへ消えた直後、タイミングを狙っていたかのように、エレベーターの奥からカモ副主任が他の看護師2人を連れてやって来た。マコトと同じ位の年齢の作り笑いをしている職員と、副主任と変わらない年代の厚化粧で太った職員だ。
「子分!?笑わせる」
昨日と今朝、マコトの判断とその評価を見ていたことになるが、何年も居座るだけで得た「副主任」の大きな顔はまだプレッシャーを掛けていた。
しかしマコトは負けずに結果を積み重ね、仲間を作っていくだけだ。先ずは昨晩の夜勤職員に声をかける。
「ヒダカさんの対応 有難うございました」マコトは夜勤の看護師ふたりに近づき、こそっと礼を言った。カワハタさんとニシダさんと言う。ニシダさんは手を振り「気にしないでください」と言った。
脳神経外科の受付事務の職員が入って来ると、フロアの看護師が集まってきた。朝礼がはじまる。
「おはようございます」副主任が偉ぶりながら挨拶をした。職員も頭を下げて挨拶を返す。
「申し送りをお願い致します」副主任が司会進行をする。
夜勤者はタブレットを見ながら、夜間の出来事を話し始めた。ヒダカさんの嘔吐以外は特になにもない。トイレのコールが多かった人が居たらしいが…
受付事務の職員が病院全体の話をすると朝礼は終了した。副院長の回診が14時にあるらしい。
「今日も一日宜しくお願いします」全員が挨拶をする。
「お疲れ様でした~」夜勤者のふたりが退出する時に、カワハタさんが笑顔でマコトに手を振った。ふたりとも感じの良い人達だ。
マコトは昨日の続きである入院患者の病歴閲覧と、それに応じた点滴のチェック、処置セットのチェックをはじめた。
タブレット端末によりカルテの取り回しが楽になった。マコトが学生だった頃はまだ電子カルテは普及しておらず、山積みになったカルテを台車に乗せて右往左往していたものだ。
「再チェックをお願いします」マコトが声を掛けるが、副主任と子分は無言でこちらを見もしない。その時ひとりの若い女性の声が聴こえた。
「私で良いですか?」声の主は1年目のアリムラさんだ。
「宜しく」マコトは笑顔で軽く頭を下げた。新しい主任のいじめを無言で命令するような副主任のプレッシャーの中、決意したように若い看護師が名乗りを上げた。仲間になってくれたのだ。学校で教えられた理想の看護師像が、副主任にも子分たちにもない。この病棟に住み着く良くない空気に染まる前に、マコトが新人を守る必要がある。マコトはアリムラさんの実力を伸ばそうと決めた。
「そういえば副院長の回診があるそうだけど 私は院長先生とハマサキ先生しか知らない 副院長先生の名前も知らないわ どんな方?」
「ヨシノ先生って人で 変わった先生なんです」
「変わった先生ね…」変わり者の医師など珍しくはない。マコトは気にも留めずに復唱しただけだった。
11時20分
「お疲れ様です」階段室のドアが開くと若い男性が顔を出した。リハビリ職員だ。
感じよく挨拶をしていたが、副主任達は無言で仕事をしていた。それが当たり前のように若いリハビリ職員はナースステーションに入ると、「失礼します」と言いパソコンに近づきカルテを開いた。
「ヒダカさんの嘔吐は22時か…絶食中…すいません ハマサキ先生から昼食の許可は貰えてますか?」リハビリ職員が尋ねると
「電カルに指示がなければ 食事は来ないわよ」と、副主任の子分が面倒くさそうに返した。大した仕事もしないのに、自分の業務時間がとても惜しいのだろう。
「STさんですね?」マコトは若いリハビリ職員に声を掛けた。名札に「言語聴覚士」と書いているが、12時前に患者の食事を気にしてナースステーションに来る者は他には居ない。
「ハイ STの主任をしていますナガサワと言います 宜しくお願い致します」とても低姿勢な主任だ。
「ここの主任として入りましたタカハシです 私もリハを少し勉強していますが 色々と教えて下さいね」マコトも丁寧にお辞儀をした。社会人になってから、その前から、礼には礼を尽くす生き方は変えていない。無礼には無礼で返すが…
「確認しましょう 嘔吐をしていたから…明日の朝まで食事は止めてありますよ」
「そうですね そりゃ当然ですね」医師や看護師は安全第一だ。患者を危険な目には決して合わせない。
しかしリハビリの人間は患者がハードルを越えるように導くのが仕事だ。少しだけ無理をさせることもある。
「ではミナトさんの言語訓練をして そのままあの方の昼食に立ち会います」ミナトさんは312号室だ。女性患者で左脳にダメージを受けて右半身が麻痺している。左脳には言語野があり、その後遺症で失語症となっている。また右側の麻痺は口の中、喉にもあり、食べ物の噛み砕きや飲み込みで左右のアンバランスが生じている。STのナガサワさんは左右のアンバランスを考えたうえで、安全に食事ができるように工夫するのだろう。
どうすれば良いか?はマコトの思考でも導くことが出来る。言語訓練も絵カードを使ったり、左手でペンを持ちながら、正しい言葉を出したり耳から言語野へ再刺激を送る等を予測した。
しかしナガサワさんの方法は少し違っていた。マコトがミナトさんの部屋を覗くと、彼は麻痺があるミナトさんの右指を持ち、カードの絵の下に書かれた文字をなぞっていた。マコトははじめて見た。右手は左脳に繋がっているが、脳は損傷するとその部位の周囲を活用させて、失った機能をフォローをする。つまりナガサワさんは損傷した言語野の代わりとして、周辺の部位が働く様に誘導しているのだ。指で文字をなぞらせると目からみた文字、聴く言葉、カードという映像、そして文字を書く自分の手、全てがひとつの言葉として繋がり合う。理屈に適った訓練だ。
「初めて見ました 言語野の可塑性を促進させているんですね」マコトはミナトさんの訓練中に口を挟んでしまった。
「はい 興味があれば後で説明します」ナガサワさんは笑顔で返すと、ミナトさんの方へ顔を戻した。
マコトがナースステーションに戻った頃、副主任たちは昼ごはんの会話をしていた。さっき迄忙しそうにしていたが、社員食の献立をパソコンで開いて楽しそうに話している。マコトには奉仕の心を忘れた愚か者にしか見えなかった。
12時00分
副主任達が昼の休憩に入ったが、マコトは「入院患者の食事観察をする」と言う理由で、食事時間を他の看護職員と交代してずらした。
ミナトさんが右を向きながら食事を摂り、ナガサワさんはミナトさんの頸に聴診器を当てていた。
「横向き嚥下」と「頸部聴診法」という。
患者が麻痺側を向くと喉の麻痺側が狭くなり、反対に健側が広くなる。食べ物が動きの良い側に流れていくようにしているのだ。そして飲み込んだ直後の呼吸音に、雑音が有るか無いかを確認していた。呼吸音に雑音があるということは、気道の近くに食べ物が残留している事になる。
「大丈夫です」ナガサワさんはミナトさんにオーケーリングを見せた。ミナトさんが頷く。
ナガサワさんはミナトさんの食事する動画を、電子カルテに飛ばしてた。この病院の電子化は進んでおり、職員の情報共有、それから先の行動が早い。
13時になりマコトは頼んでいた昼食を手にする。昼食のメニューは豚肉のカレーだ。鹿児島は豚肉を、皆好んで食べる。黒豚、黒酢、黒麹、黒砂糖、黒の文化とも言われている。長年看護師をしているからか、昼食は10分で済ませた。
歯磨きをしたあと、休憩室にあるリクライニングシートで13時50分まで休んだ。
14時00分
副院長のヨシノ先生による回診の時間が来た。医師の回診はフロア職員にとって、緊張する時間だ。マコトは頭の中に入院患者の現状と課題を叩き込み待機していた。しかしヨシノ先生は来ない。
14時20分を過ぎた頃、階段室のドアが開くとやや小柄でメガネを掛けた白衣の男性が入って来た。
「あっ!!」マコトは目の前に来た医師を見て、驚きの声を出した。ヨシノ先生、マコトが学生時代にリハビリテーション医学を教えていた准教授の人だ。
「君は?」
驚くマコトの姿を見て、ヨシノ先生も何かを思い出した。
「ヨシノ先生 お久しぶりです 25期生のタカハシマコトです 覚えていらっしゃいますか?」マコトは頭を下げたままだ。ヨシノ先生は大恩人で、誰よりも尊敬していた先生だったからだ。
「タカハシさんか 懐かしかね 元気やったと?」ヨシノ先生は気さくにマコトとの再会を喜んだ。
実習生時代の頃だ。マコトは実習先の病院で威張っていた医師に意見を言い、その医師を激怒させたという問題を起こした。
「無礼には無礼」という、真っ直ぐ過ぎるマコトならではの生き方で起きた話だ。その時に直ぐ、ヨシノ先生がマコトの実習地に来て謝罪をしてくれた。そこで火事が消えたので、マコトは実習中止や退学にならず看護師の資格を取れた。頭が上がらない存在だ。
「あら~お知り合い?」軽い口調の女性がヨシノ先生の隣から現れた。このフロア、霧島中央医療センターの脳神経外科看護師長のクボヤマ師長だ。「管理業務が忙しいから」と、現場には殆ど来ない他人任せの看護師長だ。医師の回診だから建て前として顔を出したに過ぎない。
「先生 遅いですよ」副主任が迷惑そうに、ヨシノ先生に言い放った。ハマサキ先生が上がって来た時と全く態度が違う。
「外来さんの沢山こりゃっしゃーけん…それでも僕は食べずに来たとですよ」ヨシノ先生は鹿児島弁ではない言葉で謝った。
ヨシノ先生は福岡県の出身だ。学校も筑後医科大学の出身で温泉療法の為に鹿児島に来ており、鹿児島の人と結婚をして家をかまえている。家は奥さんの実家の向かいと聞く。他県から来てそのまま居るという面では、マコトの父と同じだ。
ヨシノ先生はナースステーションには寄らずに、医療用スマホで患者の最新情報を見ながら、ひとりでカサカサと回診を始めた。
普通行われる回診は意味のない「大名行列」を行い、自分の権威を患者や職員にアピールするものだ。しかしヨシノ先生は昔から威張る行為は好きではない。学生にも敬語を使っていた位だ。副院長でありながら、人と対等に向き合う姿勢を続けている。
マコトは尊敬の思いでヨシノ先生を見ていた時、急にSTのナガサワさんが先生に声を掛けた。場所はヒダカさんの前だ。
「VF…」マコトの耳が聴き取った言葉だ。バリウムを混ぜた飲食物を飲み込むところを、X線動画にする検査だ。
「嚥下が可能とか証明する前に 先ずは安全でっしゃろ」ヨシノ先生は筑後の言葉でナガサワさんに返事をした。ナガサワさんは納得したようにお辞儀をした。
マコトはその時に気づいたことがあった。
ヨシノ先生のスマホには患者の最新データだけではなく、事前にリハビリ方針や退院後の方向等も入力されている。
しかしそれは「用意された材料」を目で追う作業でしかない。人の心や体、環境、全体を知るのであれば、意見を述べる者やそれを横で見る者、バラバラな意見をまとめる者の表情等と、全体の動きを見なければならない。
狭い視界の液晶画面だけでは不十分だ。先輩の参加する会議を見学する新人、学生が居れば、その先輩の表情だけでなく、他の参加者の動きも見られる。師匠の技や先輩の背中はカメラの撮影範囲以上に広い。
マコトの目の前をアリムラさんが通った。
「アリムラさん 今から10分だけでもヨシノ先生の回診に付き合ってみたら?仕事は私がやっとくから…」強制はしなかったが、アリムラさんは小走りでヨシノ先生の横で同行していく。
ヨシノ先生は医師であるが、医療オタクと表現しても良いかもしれない。医療に関連するものであればガラクタでも拾う人だ。准教授時代もヨシノ先生の部屋は、何に使うか本人も決めていないものが沢山積まれていた。物だけではない。頭の中には色々な情報が積まれていた。
「拾って来い…」マコトはアリムラさんの後ろ姿を見ながら肩をすくめた。
マコトがアリムラさんのやりかけていた仕事をはじめると、どこに居たのか軽い口調の主が近付いてきた。
「ねえねえ タカハシちゃん ウエストポーチの色はピンクと水色とどっちが良い?」クボヤマ師長は事務手続きでも話せるような、緊急性のない話を持ちかけてきた。
面接の時には見抜けなかったが、人の命が関わる現場では必要ない、お遊び気分を持ち込んで世渡りするタイプの上司だ。人材育成も人間関係のもつれも、この人はそのままスルーしてしまうだろう。マコトは青空が好きだ。「水色でお願いします」と冷淡に答えた。
回診は14時50分まで続いた。ヨシノ先生の人育てが好きな所は昔と変わらない。アリムラさんの分はしっかり働いた。同時に自分の仕事もこなしている。
夜勤者が来て申し送りが終わると、勤務終了が秒読みとなる。
17時30分
副主任と子分達は出て行きフロアをエレベーターで降りていった。そして副主任たちが乗るエレベーターが1Fに着いたとき、もう一台のエレベーターのドアが開いた。入って来た男は「チョット良い男」だった。
「ボールペン あっ!!あなたが持っているでしよ?」男はマコトを指さした。
彼の指さした場所はマコトのポケットだ。確かに彼のボールペンは中に在るが、表には見えていない。
「俺は直ぐ忘れるから…」そう言っていた彼の中に、マコトとの出会いが残っていたのか?
2023年10月11日 水曜日
マコトは鹿児島大学保健学科を卒業して、看護師の資格を取得後に上京している。マコトの父は鹿児島の人間ではない。父が単身赴任で34年前に東京から鹿児島にやって来て、マコトの母と関係を持ちマコトが生まれた。その後、マコトの父は会社の人事異動を断り続け鹿児島で定年を迎えて鹿児島で死んだ。マコトが20歳の時だ。なぜ東京に戻らなかったのかは答えてくれなかったが、父が鹿児島を愛しマコトの母、マコトを愛していたのは事実だ。母と再婚してはいなかったが、マコトには高橋の姓を名乗らせている。
上京した理由は自分の実力を試したかったからだが、自分のルーツを知りたかったこともある。
しかし野心は上京をした後、打ち砕かれて「負け」とレッテルを貼られて帰郷している。
職場に着いた。戦闘開始だ。
「おはようございます」マコトが脳神経外科のナースステーションに入った時間は日勤開始40分前の7時50分だ。夜勤の看護師がひとり立ちながらパソコンを打ち、もうひとりは部屋を回っているが、白衣を着た高齢の男性医師がパソコンの前に座っていた。ハマサキ先生だ。
元々ハマサキ先生は鹿児島大学の教授だったがマコトが1年生の時に引退しており、この霧島中央医療センターの副院長をしていた。今は更に副院長からも降りて、一般の医師として働いてる。年齢は70を過ぎているが仕事は的確で、動きが速いと聞く。ただ医師でも看護師でも、職員にはとても厳しく恐れられている。
「新しい主任さん…タカハシさんだったね ヒダカさんの側臥位は良い判断だった 昨晩に彼は嘔吐したよ 君が側臥位対応を申し送っていなければ 大変だっただろうね」ハマサキ先生はパソコンをログアウトして立ち上がると、サッと階段室へと消えて行った。
マコトは頭を下げたが、彼は気づいていないだろう。ただ厳しくて恐れられている医師が自分の仕事を認めてくれたのは、マコトには励みとなった。
「分かる人」マコトは読んだ。
マコトは東京で働いていた時代に「脳卒中リハビリテーション看護」の認定資格を持っていた。マコトは「勝ち」の為に自己研鑽は欠かしていない。
ハマサキ先生が扉の向こうへ消えた直後、タイミングを狙っていたかのように、エレベーターの奥からカモ副主任が他の看護師2人を連れてやって来た。マコトと同じ位の年齢の作り笑いをしている職員と、副主任と変わらない年代の厚化粧で太った職員だ。
「子分!?笑わせる」
昨日と今朝、マコトの判断とその評価を見ていたことになるが、何年も居座るだけで得た「副主任」の大きな顔はまだプレッシャーを掛けていた。
しかしマコトは負けずに結果を積み重ね、仲間を作っていくだけだ。先ずは昨晩の夜勤職員に声をかける。
「ヒダカさんの対応 有難うございました」マコトは夜勤の看護師ふたりに近づき、こそっと礼を言った。カワハタさんとニシダさんと言う。ニシダさんは手を振り「気にしないでください」と言った。
脳神経外科の受付事務の職員が入って来ると、フロアの看護師が集まってきた。朝礼がはじまる。
「おはようございます」副主任が偉ぶりながら挨拶をした。職員も頭を下げて挨拶を返す。
「申し送りをお願い致します」副主任が司会進行をする。
夜勤者はタブレットを見ながら、夜間の出来事を話し始めた。ヒダカさんの嘔吐以外は特になにもない。トイレのコールが多かった人が居たらしいが…
受付事務の職員が病院全体の話をすると朝礼は終了した。副院長の回診が14時にあるらしい。
「今日も一日宜しくお願いします」全員が挨拶をする。
「お疲れ様でした~」夜勤者のふたりが退出する時に、カワハタさんが笑顔でマコトに手を振った。ふたりとも感じの良い人達だ。
マコトは昨日の続きである入院患者の病歴閲覧と、それに応じた点滴のチェック、処置セットのチェックをはじめた。
タブレット端末によりカルテの取り回しが楽になった。マコトが学生だった頃はまだ電子カルテは普及しておらず、山積みになったカルテを台車に乗せて右往左往していたものだ。
「再チェックをお願いします」マコトが声を掛けるが、副主任と子分は無言でこちらを見もしない。その時ひとりの若い女性の声が聴こえた。
「私で良いですか?」声の主は1年目のアリムラさんだ。
「宜しく」マコトは笑顔で軽く頭を下げた。新しい主任のいじめを無言で命令するような副主任のプレッシャーの中、決意したように若い看護師が名乗りを上げた。仲間になってくれたのだ。学校で教えられた理想の看護師像が、副主任にも子分たちにもない。この病棟に住み着く良くない空気に染まる前に、マコトが新人を守る必要がある。マコトはアリムラさんの実力を伸ばそうと決めた。
「そういえば副院長の回診があるそうだけど 私は院長先生とハマサキ先生しか知らない 副院長先生の名前も知らないわ どんな方?」
「ヨシノ先生って人で 変わった先生なんです」
「変わった先生ね…」変わり者の医師など珍しくはない。マコトは気にも留めずに復唱しただけだった。
11時20分
「お疲れ様です」階段室のドアが開くと若い男性が顔を出した。リハビリ職員だ。
感じよく挨拶をしていたが、副主任達は無言で仕事をしていた。それが当たり前のように若いリハビリ職員はナースステーションに入ると、「失礼します」と言いパソコンに近づきカルテを開いた。
「ヒダカさんの嘔吐は22時か…絶食中…すいません ハマサキ先生から昼食の許可は貰えてますか?」リハビリ職員が尋ねると
「電カルに指示がなければ 食事は来ないわよ」と、副主任の子分が面倒くさそうに返した。大した仕事もしないのに、自分の業務時間がとても惜しいのだろう。
「STさんですね?」マコトは若いリハビリ職員に声を掛けた。名札に「言語聴覚士」と書いているが、12時前に患者の食事を気にしてナースステーションに来る者は他には居ない。
「ハイ STの主任をしていますナガサワと言います 宜しくお願い致します」とても低姿勢な主任だ。
「ここの主任として入りましたタカハシです 私もリハを少し勉強していますが 色々と教えて下さいね」マコトも丁寧にお辞儀をした。社会人になってから、その前から、礼には礼を尽くす生き方は変えていない。無礼には無礼で返すが…
「確認しましょう 嘔吐をしていたから…明日の朝まで食事は止めてありますよ」
「そうですね そりゃ当然ですね」医師や看護師は安全第一だ。患者を危険な目には決して合わせない。
しかしリハビリの人間は患者がハードルを越えるように導くのが仕事だ。少しだけ無理をさせることもある。
「ではミナトさんの言語訓練をして そのままあの方の昼食に立ち会います」ミナトさんは312号室だ。女性患者で左脳にダメージを受けて右半身が麻痺している。左脳には言語野があり、その後遺症で失語症となっている。また右側の麻痺は口の中、喉にもあり、食べ物の噛み砕きや飲み込みで左右のアンバランスが生じている。STのナガサワさんは左右のアンバランスを考えたうえで、安全に食事ができるように工夫するのだろう。
どうすれば良いか?はマコトの思考でも導くことが出来る。言語訓練も絵カードを使ったり、左手でペンを持ちながら、正しい言葉を出したり耳から言語野へ再刺激を送る等を予測した。
しかしナガサワさんの方法は少し違っていた。マコトがミナトさんの部屋を覗くと、彼は麻痺があるミナトさんの右指を持ち、カードの絵の下に書かれた文字をなぞっていた。マコトははじめて見た。右手は左脳に繋がっているが、脳は損傷するとその部位の周囲を活用させて、失った機能をフォローをする。つまりナガサワさんは損傷した言語野の代わりとして、周辺の部位が働く様に誘導しているのだ。指で文字をなぞらせると目からみた文字、聴く言葉、カードという映像、そして文字を書く自分の手、全てがひとつの言葉として繋がり合う。理屈に適った訓練だ。
「初めて見ました 言語野の可塑性を促進させているんですね」マコトはミナトさんの訓練中に口を挟んでしまった。
「はい 興味があれば後で説明します」ナガサワさんは笑顔で返すと、ミナトさんの方へ顔を戻した。
マコトがナースステーションに戻った頃、副主任たちは昼ごはんの会話をしていた。さっき迄忙しそうにしていたが、社員食の献立をパソコンで開いて楽しそうに話している。マコトには奉仕の心を忘れた愚か者にしか見えなかった。
12時00分
副主任達が昼の休憩に入ったが、マコトは「入院患者の食事観察をする」と言う理由で、食事時間を他の看護職員と交代してずらした。
ミナトさんが右を向きながら食事を摂り、ナガサワさんはミナトさんの頸に聴診器を当てていた。
「横向き嚥下」と「頸部聴診法」という。
患者が麻痺側を向くと喉の麻痺側が狭くなり、反対に健側が広くなる。食べ物が動きの良い側に流れていくようにしているのだ。そして飲み込んだ直後の呼吸音に、雑音が有るか無いかを確認していた。呼吸音に雑音があるということは、気道の近くに食べ物が残留している事になる。
「大丈夫です」ナガサワさんはミナトさんにオーケーリングを見せた。ミナトさんが頷く。
ナガサワさんはミナトさんの食事する動画を、電子カルテに飛ばしてた。この病院の電子化は進んでおり、職員の情報共有、それから先の行動が早い。
13時になりマコトは頼んでいた昼食を手にする。昼食のメニューは豚肉のカレーだ。鹿児島は豚肉を、皆好んで食べる。黒豚、黒酢、黒麹、黒砂糖、黒の文化とも言われている。長年看護師をしているからか、昼食は10分で済ませた。
歯磨きをしたあと、休憩室にあるリクライニングシートで13時50分まで休んだ。
14時00分
副院長のヨシノ先生による回診の時間が来た。医師の回診はフロア職員にとって、緊張する時間だ。マコトは頭の中に入院患者の現状と課題を叩き込み待機していた。しかしヨシノ先生は来ない。
14時20分を過ぎた頃、階段室のドアが開くとやや小柄でメガネを掛けた白衣の男性が入って来た。
「あっ!!」マコトは目の前に来た医師を見て、驚きの声を出した。ヨシノ先生、マコトが学生時代にリハビリテーション医学を教えていた准教授の人だ。
「君は?」
驚くマコトの姿を見て、ヨシノ先生も何かを思い出した。
「ヨシノ先生 お久しぶりです 25期生のタカハシマコトです 覚えていらっしゃいますか?」マコトは頭を下げたままだ。ヨシノ先生は大恩人で、誰よりも尊敬していた先生だったからだ。
「タカハシさんか 懐かしかね 元気やったと?」ヨシノ先生は気さくにマコトとの再会を喜んだ。
実習生時代の頃だ。マコトは実習先の病院で威張っていた医師に意見を言い、その医師を激怒させたという問題を起こした。
「無礼には無礼」という、真っ直ぐ過ぎるマコトならではの生き方で起きた話だ。その時に直ぐ、ヨシノ先生がマコトの実習地に来て謝罪をしてくれた。そこで火事が消えたので、マコトは実習中止や退学にならず看護師の資格を取れた。頭が上がらない存在だ。
「あら~お知り合い?」軽い口調の女性がヨシノ先生の隣から現れた。このフロア、霧島中央医療センターの脳神経外科看護師長のクボヤマ師長だ。「管理業務が忙しいから」と、現場には殆ど来ない他人任せの看護師長だ。医師の回診だから建て前として顔を出したに過ぎない。
「先生 遅いですよ」副主任が迷惑そうに、ヨシノ先生に言い放った。ハマサキ先生が上がって来た時と全く態度が違う。
「外来さんの沢山こりゃっしゃーけん…それでも僕は食べずに来たとですよ」ヨシノ先生は鹿児島弁ではない言葉で謝った。
ヨシノ先生は福岡県の出身だ。学校も筑後医科大学の出身で温泉療法の為に鹿児島に来ており、鹿児島の人と結婚をして家をかまえている。家は奥さんの実家の向かいと聞く。他県から来てそのまま居るという面では、マコトの父と同じだ。
ヨシノ先生はナースステーションには寄らずに、医療用スマホで患者の最新情報を見ながら、ひとりでカサカサと回診を始めた。
普通行われる回診は意味のない「大名行列」を行い、自分の権威を患者や職員にアピールするものだ。しかしヨシノ先生は昔から威張る行為は好きではない。学生にも敬語を使っていた位だ。副院長でありながら、人と対等に向き合う姿勢を続けている。
マコトは尊敬の思いでヨシノ先生を見ていた時、急にSTのナガサワさんが先生に声を掛けた。場所はヒダカさんの前だ。
「VF…」マコトの耳が聴き取った言葉だ。バリウムを混ぜた飲食物を飲み込むところを、X線動画にする検査だ。
「嚥下が可能とか証明する前に 先ずは安全でっしゃろ」ヨシノ先生は筑後の言葉でナガサワさんに返事をした。ナガサワさんは納得したようにお辞儀をした。
マコトはその時に気づいたことがあった。
ヨシノ先生のスマホには患者の最新データだけではなく、事前にリハビリ方針や退院後の方向等も入力されている。
しかしそれは「用意された材料」を目で追う作業でしかない。人の心や体、環境、全体を知るのであれば、意見を述べる者やそれを横で見る者、バラバラな意見をまとめる者の表情等と、全体の動きを見なければならない。
狭い視界の液晶画面だけでは不十分だ。先輩の参加する会議を見学する新人、学生が居れば、その先輩の表情だけでなく、他の参加者の動きも見られる。師匠の技や先輩の背中はカメラの撮影範囲以上に広い。
マコトの目の前をアリムラさんが通った。
「アリムラさん 今から10分だけでもヨシノ先生の回診に付き合ってみたら?仕事は私がやっとくから…」強制はしなかったが、アリムラさんは小走りでヨシノ先生の横で同行していく。
ヨシノ先生は医師であるが、医療オタクと表現しても良いかもしれない。医療に関連するものであればガラクタでも拾う人だ。准教授時代もヨシノ先生の部屋は、何に使うか本人も決めていないものが沢山積まれていた。物だけではない。頭の中には色々な情報が積まれていた。
「拾って来い…」マコトはアリムラさんの後ろ姿を見ながら肩をすくめた。
マコトがアリムラさんのやりかけていた仕事をはじめると、どこに居たのか軽い口調の主が近付いてきた。
「ねえねえ タカハシちゃん ウエストポーチの色はピンクと水色とどっちが良い?」クボヤマ師長は事務手続きでも話せるような、緊急性のない話を持ちかけてきた。
面接の時には見抜けなかったが、人の命が関わる現場では必要ない、お遊び気分を持ち込んで世渡りするタイプの上司だ。人材育成も人間関係のもつれも、この人はそのままスルーしてしまうだろう。マコトは青空が好きだ。「水色でお願いします」と冷淡に答えた。
回診は14時50分まで続いた。ヨシノ先生の人育てが好きな所は昔と変わらない。アリムラさんの分はしっかり働いた。同時に自分の仕事もこなしている。
夜勤者が来て申し送りが終わると、勤務終了が秒読みとなる。
17時30分
副主任と子分達は出て行きフロアをエレベーターで降りていった。そして副主任たちが乗るエレベーターが1Fに着いたとき、もう一台のエレベーターのドアが開いた。入って来た男は「チョット良い男」だった。
「ボールペン あっ!!あなたが持っているでしよ?」男はマコトを指さした。
彼の指さした場所はマコトのポケットだ。確かに彼のボールペンは中に在るが、表には見えていない。
「俺は直ぐ忘れるから…」そう言っていた彼の中に、マコトとの出会いが残っていたのか?
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