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第五十四話陰武者の言い分『氷雨』
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「お前は一体何をやっているんだ?」
自室の応接間のソファーに、黒装束を身に纏った兄ゼノアが座っていました。
(嗚呼、ついに来るべき時がきてしまったのだ)
私はその場にへたり込みたい衝動に駆られました。
「父上からの親書を預かってきた。
そこにお前の身の処し方が書かれている」
私は無言のままにうなだれました。
「まさかとは思うが、お前、ミシェルの契りを身体に刻んだのか?」
ゼノアの眼差しには、実の兄ながらゾクッとするほどの殺気が滲んでいます。
腰に凪いだ日本刀の鞘に手をかけたかと思うと、
一瞬の閃光とともに私の着ていたネグリジェと胸に巻いていたサラシがその場に落ちました。
そして少し目を細めて、背中から腰のあたりに視線を這わせます。
「よし、契りの紋章は浮かんでいないな」
そういってゼノアは私にバスローブを着せ掛けました。
「くれぐれも言っておくが、変な気は起こすなよ。
お前がミシェルの契りを身体に刻めば、俺はミシェルを殺すぞ?」
私はその場に力なくへたり込みました。
「お前の夫となる男はミシェルではなく、
別にある」
覚悟はしていたとはいえ、
兄ゼノアから言葉の刃を胸に突き刺された瞬間でした。
この胸に抱いていた淡い初恋が、
ミシェル様から頂いた優しい日々の温もりが、
私の中で死んでいくのを感じました。
「勘違いするな。
我がサイファリアは決してライネル公国の属国ではない。
ゆえに王族であるお前がミシェルに辱められることがあってはならないのだ」
ミシェル様と出会ってから、私はよく泣くようになりました。
しかし今はこの心とは裏腹に、涙が全く出ませんでした。
髪を切り男の服を着て、
この国の人質となることを強要されたあの日々に戻るだけでした。
私は感情を殺した、ただの人形なのです。
「アレック王配陛下にこの親書をお渡しし、
お前はこの東宮殿から王都にある我が一族が所有する屋敷に移す。
荷物をまとめて用意をしておけ」
ゼノアはそういい捨てると、部屋を出ていきました。
私はノロノロと身体を起こして、ベッドの上に身を横たえました。
この国に来て、ミシェル様と出会って三ヶ月が経とうとしています。
ミシェル様は少し変わった王太子でしたが、
その温かな人柄に随分と救われた気がします。
人生初の失恋は、いきなりやってきましたが、
いつかこの苦しくて死にそうなこの気持ちも
いい思い出として昇華していくものなのでしょうか。
この初恋の行きつく先が、こういうものだということは
私は重々承知していたはずなのに、
気が付くとふわりとした甘やかな夢を見てしまっていた自分が
ひどく愚かに思えて、現実の冷たさがこの身体を凍えさせます。
「もう二度と私は誰かを好きになんてならない」
私はベッドの中でそう呟きました。
心を凍らせて、感情を殺して、
そうしなければ私は生きることができないのですから。
この日、私の心は死にました。
◇◇◇
翌日私は兄のゼノアに付き添われて東宮殿を出ることになりました。
兄は請けの衣装を身に纏い、その顔は領巾で覆っています。
世の中は華やいだクリスマスの時をむかえようとしているのに、
あいにく鉛色の空から降ってくるのは雪ではなくて、氷雨でした。
兄の用意した車に乗り込む直前に、
アレックから事情を聞いたであろうミシェル様が、血相を変えて走って来ました。
「ゼノアっ!」
怒りを孕んだその声色に、この胸が張り裂けそうです。
願わくば最後は笑顔で別れたいものです。
「この私を置いてお前は一体どこへ行くつもりだ?」
ミシェル様のダークアッシュの瞳が、真っすぐに私を映しています。
少しでも気を緩めれば、その場に泣き崩れてしまいそうな自分を
私は必死で叱咤していました。
「ミシェル様、短い間でしたがお世話になりました」
そういって私はその場に片膝をついて、ミシェル様に臣下の礼を取りました。
そんな私を兄のゼノアが剣呑な目つきで眺めています。
ミシェル様との別れをすでに受け入れた私を見て、ミシェル様がキレました。
「勝手に完結するなっ!
言っておくがお前が私のファーストキスを奪い、
私のはじめてを奪ったんだ。
それをすべて途中で投げ出すのかっ! この腰抜けがっ!」
ミシェル様の言葉に兄のゼノアが顔色を変えて、その腰から剣を抜きました。
「黙れっ! 勘違いするな。
我がサイファリアはあくまで貴国とは対等の同盟国だ。
貴殿に罵倒されるいわれはない」
兄ゼノアの瞳には、怒りの焔が揺れています。
私は兄とミシェル様の前に立ちました。
そして剣を構えて兄のゼノアの前に立ちました。
「どけっ!」
冷酷に兄のゼノアが言い放ちました。
「どきません」
私は真っすぐに兄ゼノアを見据えました。
ゼノアの繰り出す一瞬の閃光が煌めく前に、
私は剣をゼノアに繰り出しました。
「お前っ……」
ゼノアの瞳が驚きに見開かれました。
その腕に鮮血が滴っています。
「ミシェル様に危害を加えることは、
たとえあなたであっても許さない」
私はなおもゼノアに剣を構えたまま、微動だにしませんでした。
「そうか、ならば覚悟しろっ! こちらも全力でいく」
私たちの間を冷たい雨が、音もなく別ちました。
自室の応接間のソファーに、黒装束を身に纏った兄ゼノアが座っていました。
(嗚呼、ついに来るべき時がきてしまったのだ)
私はその場にへたり込みたい衝動に駆られました。
「父上からの親書を預かってきた。
そこにお前の身の処し方が書かれている」
私は無言のままにうなだれました。
「まさかとは思うが、お前、ミシェルの契りを身体に刻んだのか?」
ゼノアの眼差しには、実の兄ながらゾクッとするほどの殺気が滲んでいます。
腰に凪いだ日本刀の鞘に手をかけたかと思うと、
一瞬の閃光とともに私の着ていたネグリジェと胸に巻いていたサラシがその場に落ちました。
そして少し目を細めて、背中から腰のあたりに視線を這わせます。
「よし、契りの紋章は浮かんでいないな」
そういってゼノアは私にバスローブを着せ掛けました。
「くれぐれも言っておくが、変な気は起こすなよ。
お前がミシェルの契りを身体に刻めば、俺はミシェルを殺すぞ?」
私はその場に力なくへたり込みました。
「お前の夫となる男はミシェルではなく、
別にある」
覚悟はしていたとはいえ、
兄ゼノアから言葉の刃を胸に突き刺された瞬間でした。
この胸に抱いていた淡い初恋が、
ミシェル様から頂いた優しい日々の温もりが、
私の中で死んでいくのを感じました。
「勘違いするな。
我がサイファリアは決してライネル公国の属国ではない。
ゆえに王族であるお前がミシェルに辱められることがあってはならないのだ」
ミシェル様と出会ってから、私はよく泣くようになりました。
しかし今はこの心とは裏腹に、涙が全く出ませんでした。
髪を切り男の服を着て、
この国の人質となることを強要されたあの日々に戻るだけでした。
私は感情を殺した、ただの人形なのです。
「アレック王配陛下にこの親書をお渡しし、
お前はこの東宮殿から王都にある我が一族が所有する屋敷に移す。
荷物をまとめて用意をしておけ」
ゼノアはそういい捨てると、部屋を出ていきました。
私はノロノロと身体を起こして、ベッドの上に身を横たえました。
この国に来て、ミシェル様と出会って三ヶ月が経とうとしています。
ミシェル様は少し変わった王太子でしたが、
その温かな人柄に随分と救われた気がします。
人生初の失恋は、いきなりやってきましたが、
いつかこの苦しくて死にそうなこの気持ちも
いい思い出として昇華していくものなのでしょうか。
この初恋の行きつく先が、こういうものだということは
私は重々承知していたはずなのに、
気が付くとふわりとした甘やかな夢を見てしまっていた自分が
ひどく愚かに思えて、現実の冷たさがこの身体を凍えさせます。
「もう二度と私は誰かを好きになんてならない」
私はベッドの中でそう呟きました。
心を凍らせて、感情を殺して、
そうしなければ私は生きることができないのですから。
この日、私の心は死にました。
◇◇◇
翌日私は兄のゼノアに付き添われて東宮殿を出ることになりました。
兄は請けの衣装を身に纏い、その顔は領巾で覆っています。
世の中は華やいだクリスマスの時をむかえようとしているのに、
あいにく鉛色の空から降ってくるのは雪ではなくて、氷雨でした。
兄の用意した車に乗り込む直前に、
アレックから事情を聞いたであろうミシェル様が、血相を変えて走って来ました。
「ゼノアっ!」
怒りを孕んだその声色に、この胸が張り裂けそうです。
願わくば最後は笑顔で別れたいものです。
「この私を置いてお前は一体どこへ行くつもりだ?」
ミシェル様のダークアッシュの瞳が、真っすぐに私を映しています。
少しでも気を緩めれば、その場に泣き崩れてしまいそうな自分を
私は必死で叱咤していました。
「ミシェル様、短い間でしたがお世話になりました」
そういって私はその場に片膝をついて、ミシェル様に臣下の礼を取りました。
そんな私を兄のゼノアが剣呑な目つきで眺めています。
ミシェル様との別れをすでに受け入れた私を見て、ミシェル様がキレました。
「勝手に完結するなっ!
言っておくがお前が私のファーストキスを奪い、
私のはじめてを奪ったんだ。
それをすべて途中で投げ出すのかっ! この腰抜けがっ!」
ミシェル様の言葉に兄のゼノアが顔色を変えて、その腰から剣を抜きました。
「黙れっ! 勘違いするな。
我がサイファリアはあくまで貴国とは対等の同盟国だ。
貴殿に罵倒されるいわれはない」
兄ゼノアの瞳には、怒りの焔が揺れています。
私は兄とミシェル様の前に立ちました。
そして剣を構えて兄のゼノアの前に立ちました。
「どけっ!」
冷酷に兄のゼノアが言い放ちました。
「どきません」
私は真っすぐに兄ゼノアを見据えました。
ゼノアの繰り出す一瞬の閃光が煌めく前に、
私は剣をゼノアに繰り出しました。
「お前っ……」
ゼノアの瞳が驚きに見開かれました。
その腕に鮮血が滴っています。
「ミシェル様に危害を加えることは、
たとえあなたであっても許さない」
私はなおもゼノアに剣を構えたまま、微動だにしませんでした。
「そうか、ならば覚悟しろっ! こちらも全力でいく」
私たちの間を冷たい雨が、音もなく別ちました。
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