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第三十二話 春霞

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乾いた音があたしの頬で鳴った。

「さくらっ!」

鳥羽さんが驚愕に目を見開いて、
声を荒げた。

さくらのほっぺに、もみじマークって、
洒落にもならない。
頬が痛いというよりも、熱かった。

「平気」

こちらに駆け寄ろうとする鳥羽さんを制して、
あたしは真っすぐにお義母さんを見つめる。

「平気なわけあるかっ! お前唇切れてるぞ!」

なぜだか実の両親より、鳥羽さんがブチ切れている。

「そんなのはすぐに治るし、
なんの問題もないよ。
それよりも、あたしはこれ以上もう誰にも傷ついて欲しくない。
鳥羽さんも、二郎君も、そしてお義母さんも」

視線を先に逸らしたのはお義母さんの方だった。

「ふんっ! 誰が原因でこうなっていると思ってるのよ。
慰謝料の請求なり、刑事訴訟の告発の際にはこちらに電話してちょうだい。
行くわよ」

そう言ってお義母さんは、
一枚の名刺をテーブルに置いてリビングを出て行った。

そして嫌がる二郎くんをSPたちが、無理やりに連行していった。

◇◇◇

「先ほどはどうも!」

鳥羽さんが車に乗り込もうとする、
お義母さんを追いかけて行った。

「慰謝料請求? 刑事告発だぁ? ふざけるな。
あんたの犯した罪は、
んな生易しいもんで解決できるもんじゃねぇんだよ。
俺の女を傷つけた罪は万死に値する。
あんたにゃあ、地獄を見てもらうぜ?
覚悟しときな!」

鳥羽さんが未だかつて見たことが無いほどに、
ブチ切れている。

「そう、鳥羽家と縁を切ったあなたに、一体何ができるというのかしら?
人の忠告も聞かずに、彼女と関わり続けたその代償をきちんと支払っていただくわ。
地獄を見るのはあなたと彼女、そして彼女のご家族ではなくて?」

そう言ってお義母さんは、
意味深な眼差しで『スーパー望月』の看板を見上げた。

呆気にとられるあたしたちの顔を見て、

「では、ごきげんよう」

お義母さんは艶やかな微笑みを浮かべて、
車のウインドウを上げた。

◇◇◇

翌日、その予告通り、
『スーパー望月』は、取引金融機関や仕入先から、
一方的な通知を受けて、事実上の倒産に追い込まれた。

◇◇◇

「今までよくがんばったよね、お父ちゃん」

涙をこらえて、母が父をねぎらうと、
今までお店を支えてくれていた従業員の皆さんが、
一斉にすすり泣いた。

ずっと拳をきつく握りしめて、
下を向いていた鳥羽さんが、

ふいにすっと立ち上がった。

「泣くのは待ってください。
俺が……俺が……なんとかします!」

そう言って今まで着ていた『スーパー望月』の法被を脱いだ。

(ああ、やっぱりこうなってしまうんだ)

鳥羽さんの言葉に、あたしは天を仰いだ。

この空を覆う春霞が

今は死にそうなほどに痛むこの胸の内を、
どうか隠してくれますように。

そう願わずにはいられなかった。

鳥羽さんがバックヤードに引き上げて、
スマホで電話をかけると、

この事態をまるで想定していたかのような
段取りの良さで、黒塗りの高級車が家の前に停まった。

「さくら、行ってくる」

あたしを振り返る鳥羽さんに、
笑顔で頷くのが、あたしの精一杯だった。

(行かないで!)

口を開けばきっと、言葉が零れてしまう。
言葉が零れないように、唇をきつく噛み締めたなら、
きっと涙が零れてしまうから。

鳥羽さんの乗った車が、だんだんと小さくなって、
見えなくなって、それでもあたしはその場から離れられなかった。

「さくらっ! ちょっと、さくらっ!
今、銀行から電話があってね、取引の停止を取り消すってさ。
店を閉めなくて、いいんだって!」

母の声を背後に聞いて、あたしは誰もいないバックヤードに走る。
そしてさっき鳥羽さんが脱いでいった
『スーパー望月』の法被を抱きしめる。

「……っああっ!」

そして小さな悲鳴を上げる。
それは絹を引き裂いたような、ひそやかな声で、
きっと誰にも届きはしない。

「うああああああっ!」

あたしは耐えきれず、声を上げて
その場所に泣き崩れる。

あの人はもうこの場所に戻らない。
あたしの元には戻らない。

すべてを犠牲にして、
あの人はあたしを守ってくれたんだ。

拭っても、拭っても、視界は春霞のように白くぼやけて、
それでもあの人の姿は見えない。

微かに残る、あの人の香水の残り香だけが、
確かにこの場所に、あの人がいたことを証明している。

◇◇◇

「そう、だったらこの書類にサインをしてちょうだい」

そう言って、継母は酷薄な笑みを浮かべて、
書類を放って寄こした。

1、望月さくらとの縁を、今後いっさい断ち切ること。
2、ルイーズ・エクレシアとの縁談を受けること。

(こんなのは、ただの覚書だ)

そう、何度自分に言い聞かせても、
それでもやはり手が震える。

脳裏に様々な望月さくらの表情が過る。

『え? えええええええ????』

傷つけたポルシェの修理代金を支払う代わりに
俺の恋人のふりをしてくれないかと、
彼女に言ったときの、あの素っ頓狂な叫び声ときたら。

『いや、だから実際に恋人になれとは言っていないから。
あくまでフリで構わないんだ』

そう告げたときの、あいつの心底安心した顔が妙に悔しくて、

子供のようにムキになって、関心を引こうとしてた。

ずっと俺の片思いだった。
それでも、それでも……。

ぽたりと落ちた雫が、インクを滲ませてゆく。

「これで、満足ですか?」

そう問うと、継母は艶やかに微笑んで見せた。

「ええ」
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