上 下
25 / 39

第二十五話 俺は今日のこの日を夢に見て、筋トレは完璧だ。

しおりを挟む
キヨさんはそう言って、やるせない風情で小さくため息を吐いた。

「そしてその夜、運がいいのか悪いのか、
二郎坊ちゃんを授かっちまったもんだから
話がややこしい。
一体奥様はどんな気持ちで、それを受け止めたんだろうね。
気丈に振舞っていても、時折目を泣きはらしておられたよ。
それでも総一郎坊ちゃんに心配をかけまいと、
なんとか微笑もうとされるのがかえって痛々しくてね」

キヨさんに告げられた衝撃の事実に、あたしは二の句が継げない。

「これはそんな奥様が、なんとか自分を奮い立たせるためにと、
そして残される総一郎坊ちゃんのことを思って必死に綴ったものなんだ。
あんたに託したい。そして総一郎坊ちゃんのことを、くれぐれも、よろしく頼むよ」

キヨさんの瞳から、涙が零れた。

「こりゃ、だめだねぇ。
年を取ると涙もろくなっていけない」

キヨさんが恥じる様に、涙を拭って席を立ったその時、

不意に呼び鈴が鳴った。

「総一郎……坊ちゃん」

エントランスの扉を開けたキヨさんが、
驚きに目を見開いた。

激しさを増す春の嵐の中に、
鳥羽さんは傘もささずにそこに佇んでいた。

「まずは中へお入りください。
すぐに入浴の用意をいたします」

鳥羽さんのいつもきちんとセットされていた髪は、
ずぶ濡れで、前髪からは忙しなく水滴が滴っている。

エントランスに足を踏み入れる鳥羽さんのもとに
あたしはタオルを持って走り寄る。

「あの……鳥羽さん?」

そう問いかけるあたしの唇が、
情けないほどに震えている。

この人は、自分の価値をきちんと理解している人で、
決してブレない。

実力に見合うだけの華やかな傲慢さを身に纏い、
見る人すべてを惹きつける、強烈な光を持った人だ。

その人を、ここまで落ち込ませるほどの、
何かが起こったのだ。

「ふんっ! 何を見とれている?
水も滴るいい男ってか」

鳥羽さんはそんな感じで軽口を叩くが、
明らかに異様な光景である。

「とにかくまず、これで拭いて。
春とはいえそんなに濡れちゃったら、
風邪を引いてしまうわ。
ひどく身体が冷えてしまったんじゃない?」

そういってタオルを差し出すと、
鳥羽さんは無言のままにあたしを抱きしめた。

「すっげぇ寒い。
骨の髄まで冷えちまったわ」

そういってクスリと笑いを漏らした。

「はあ? 笑い事じゃないでしょ? 
何をヘラヘラ笑っているのよ!」

なんか、頭に血が上ってしまった。
言葉にならない感情のうねりが全身を駆け抜けて、

ただ想いだけが、あたしの中から溢れてしまう。

「なんで、お前が泣くの?」

鳥羽さんが低い声色で、そうあたしに問う。

「そんなのなんでか、あたしにもわかんないわよっ!
だけど鳥羽さんの笑いはいつだって、哀し過ぎるのよ! 
やせ我慢なんてしている場合じゃないでしょ!」

何を言っているんだ、あたしは。
あたしって、本当にバカだなって改めて認識した。
こういうときに、かける言葉が見当たらない己の語彙力が
恨めしい。

っていうか、相手が落ち込んでるのは明白なんだから、
あたしの感情をぶつけてどうすんのよ。

思考回路が宇宙遊泳している。

「ふ~ん、俺、やせ我慢しなくていいんだ」

妙に抑揚のない声色でそう言ったかと思うと、
鳥羽さんの瞳孔がかっと見開いて、

あたしは壁際に追いやられる。

「じゃあ望月さくら、歯を食いしばれ」

再びあのセリフである。

「はい?」

あたしの腹の底からの疑問形に、
鳥羽さんがぷっと噴き出した。

「あっ、いや、やっぱり食いしばらなくていい。
今からベロチューするから。
特別濃厚なやつな」

冗談なのか本気なのか、判断がつきかねる曖昧さで、
やっぱり鳥羽さんはあたしに微笑んで見せる。

そしてあたしの肩口に頭をもたせかけて、

「あのさあ、俺今すっげぇ寒いんだけど」

そうくぐもった声色で耳元に囁く。

「だから、すぐにお風呂の用意を……」

焦って入浴の準備に駆けだそうとするあたしを、
鳥羽さんがその手に力を入れて制する。

「違う、そうじゃなくて……。
お前が俺を温めてくんねぇかな?」

いつも飄々としている鳥羽さんが、
時折見せる切羽詰まったような、
切ない眼差しをあたしに向けると、

あたしは、そのまま動けない。

◇◇◇

はい? それでどうしてこの状況???

あたしは高速で目を瞬かせる。

カッポーンという甲高い擬音語と湯煙。
そしてその向こうには、超絶美形の鳥羽家の御曹司が、
一糸まとわぬ姿で湯につかっている。

そしてあたしは……やっぱり一糸まとわぬ姿で、
御曹司に相対して湯舟につかっている。

(ぬあああああ! 『俺すっげぇ寒いんだけど』とか言われて、
そのままなんか、雰囲気に流されて……それでなんでか理解できないんだけど、
なんか、なんか……あたし、今、鳥羽さんと混浴してるんですけどっーーーー!!!)

一見無表情を装うあたしの魂が、絶叫している。

お屋敷のお風呂は、大きい。
ガラス張りのシャワー室の横に、

大人四人はゆうには入れるくらいのジャグジーが
中央に鎮座し、

そこに帝王と相対するあたしは、できるかぎり端っこに齧りついて
小さくなるしかない。

「あの……望月さくらさん……距離が遠いんですけど」

帝王様……不満爆発の声色でそう言われましても、
あたしとしてはこれが精いっぱいでして……。

あたしは視線を泳がせて、
軽く涙目になる。

「ああ、寒いなぁ、これじゃあ温まりようがないなぁ」

帝王様の中から、
毎度おなじみの妖怪ウザガラミが現れやがりましたよ。

(んなわけねぇだろ!
湯舟につかってりゃ、自動的に温まるだろうがよ!)

そんな素朴なツッコミを飲み込んで、
あたしは無言のままに下を向く。

「はっ……恥ずかしいんですけど」

そう呟くのが、今のあたしの精一杯だ。

「ふ~ん、そうなんだぁ~」

(これまた微妙に腹立つニュアンスの相槌でございますね)

あたしは心の中で白目をむく。

っていうか、そう言いながら鳥羽さんのほうから
じりじりと距離を詰めてきやがるのだが……。

「望月さくらは~、恥ずかしいんだ~」

(やめて、やめて、やめてぇぇぇ!!!
状況を客観的に言葉にするの)

あたしは鳥羽さんの羞恥プレーに、
思わず耳を塞ぎたくなった。

更に脳が状況を認識してしまって、
恥ずかしさが倍増してしまうんですけど。

「とっとととと鳥羽さんは、
この状況が恥ずかしくないんですかっ!」

声が裏返って、思いっきりどもってしまった。
ああ、心臓がバクバク言ってる。

「俺か? 俺は今日のこの日を夢に見て、筋トレは完璧だからな。
俺の肉体は最高の仕上がりになっているぞ。
特にこの上腕二頭筋の仕上がり具合は、自分でも気に入っているし、
どうだ? なんなら触ってみるか?」

(真顔で聞かないでください)

やっぱりあたしは、涙目になるしかない。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

やさしいキスの見つけ方

神室さち
恋愛
 諸々の事情から、天涯孤独の高校一年生、完璧な優等生である渡辺夏清(わたなべかすみ)は日々の糧を得るために年齢を偽って某所風俗店でバイトをしながら暮らしていた。  そこへ、現れたのは、天敵に近い存在の数学教師にしてクラス担任、井名里礼良(いなりあきら)。  辞めろ辞めないの押し問答の末に、井名里が持ち出した賭けとは?果たして夏清は平穏な日常を取り戻すことができるのか!?  何て言ってても、どこかにある幸せの結末を求めて突っ走ります。  こちらは2001年初出の自サイトに掲載していた小説です。完結済み。サイト閉鎖に伴い移行。若干の加筆修正は入りますがほぼそのままにしようと思っています。20年近く前に書いた作品なのでいろいろ文明の利器が古かったり常識が若干、今と異なったりしています。 20年くらい前の女子高生はこんな感じだったのかー くらいの視点で見ていただければ幸いです。今はこんなの通用しない! と思われる点も多々あるとは思いますが、大筋の変更はしない予定です。 フィクションなので。 多少不愉快な表現等ありますが、ネタバレになる事前の注意は行いません。この表現ついていけない…と思ったらそっとタグを閉じていただけると幸いです。 当時、だいぶ未来の話として書いていた部分がすでに現代なんで…そのあたりはもしかしたら現代に即した感じになるかもしれない。

ウブな政略妻は、ケダモノ御曹司の執愛に堕とされる

Adria
恋愛
旧題:紳士だと思っていた初恋の人は私への恋心を拗らせた執着系ドSなケダモノでした ある日、父から持ちかけられた政略結婚の相手は、学生時代からずっと好きだった初恋の人だった。 でも彼は来る縁談の全てを断っている。初恋を実らせたい私は副社長である彼の秘書として働くことを決めた。けれど、何の進展もない日々が過ぎていく。だが、ある日会社に忘れ物をして、それを取りに会社に戻ったことから私たちの関係は急速に変わっていった。 彼を知れば知るほどに、彼が私への恋心を拗らせていることを知って戸惑う反面嬉しさもあり、私への執着を隠さない彼のペースに翻弄されていく……。

雨上がりに僕らは駆けていく Part1

平木明日香
恋愛
「隕石衝突の日(ジャイアント・インパクト)」 そう呼ばれた日から、世界は雲に覆われた。 明日は来る 誰もが、そう思っていた。 ごくありふれた日常の真後ろで、穏やかな陽に照らされた世界の輪郭を見るように。 風は時の流れに身を任せていた。 時は風の音の中に流れていた。 空は青く、どこまでも広かった。 それはまるで、雨の降る予感さえ、消し去るようで 世界が滅ぶのは、運命だった。 それは、偶然の産物に等しいものだったが、逃れられない「時間」でもあった。 未来。 ——数えきれないほどの膨大な「明日」が、世界にはあった。 けれども、その「時間」は来なかった。 秒速12kmという隕石の落下が、成層圏を越え、地上へと降ってきた。 明日へと流れる「空」を、越えて。 あの日から、決して止むことがない雨が降った。 隕石衝突で大気中に巻き上げられた塵や煤が、巨大な雲になったからだ。 その雲は空を覆い、世界を暗闇に包んだ。 明けることのない夜を、もたらしたのだ。 もう、空を飛ぶ鳥はいない。 翼を広げられる場所はない。 「未来」は、手の届かないところまで消え去った。 ずっと遠く、光さえも追いつけない、距離の果てに。 …けれども「今日」は、まだ残されていた。 それは「明日」に届き得るものではなかったが、“そうなれるかもしれない可能性“を秘めていた。 1995年、——1月。 世界の運命が揺らいだ、あの場所で。

【完結】うっかり異世界召喚されましたが騎士様が過保護すぎます!

雨宮羽那
恋愛
 いきなり神子様と呼ばれるようになってしまった女子高生×過保護気味な騎士のラブストーリー。 ◇◇◇◇  私、立花葵(たちばなあおい)は普通の高校二年生。  元気よく始業式に向かっていたはずなのに、うっかり神様とぶつかってしまったらしく、異世界へ飛ばされてしまいました!  気がつくと神殿にいた私を『神子様』と呼んで出迎えてくれたのは、爽やかなイケメン騎士様!?  元の世界に戻れるまで騎士様が守ってくれることになったけど……。この騎士様、過保護すぎます!  だけどこの騎士様、何やら秘密があるようで――。 ◇◇◇◇ ※過去に同名タイトルで途中まで連載していましたが、連載再開にあたり設定に大幅変更があったため、加筆どころか書き直してます。 ※アルファポリス先行公開。 ※表紙はAIにより作成したものです。

転生したらただの女子生徒Aでしたが、何故か攻略対象の王子様から溺愛されています

平山和人
恋愛
平凡なOLの私はある日、事故にあって死んでしまいました。目が覚めるとそこは知らない天井、どうやら私は転生したみたいです。 生前そういう小説を読みまくっていたので、悪役令嬢に転生したと思いましたが、実際はストーリーに関わらないただの女子生徒Aでした。 絶望した私は地味に生きることを決意しましたが、なぜか攻略対象の王子様や悪役令嬢、更にヒロインにまで溺愛される羽目に。 しかも、私が聖女であることも判明し、国を揺るがす一大事に。果たして、私はモブらしく地味に生きていけるのでしょうか!?

逃げて、追われて、捕まって

あみにあ
恋愛
平民に生まれた私には、なぜか生まれる前の記憶があった。 この世界で王妃として生きてきた記憶。 過去の私は貴族社会の頂点に立ち、さながら悪役令嬢のような存在だった。 人を蹴落とし、気に食わない女を断罪し、今思えばひどい令嬢だったと思うわ。 だから今度は平民としての幸せをつかみたい、そう願っていたはずなのに、一体全体どうしてこんな事になってしまたのかしら……。 2020年1月5日より 番外編:続編随時アップ 2020年1月28日より 続編となります第二章スタートです。 **********お知らせ*********** 2020年 1月末 レジーナブックス 様より書籍化します。 それに伴い短編で掲載している以外の話をレンタルと致します。 ご理解ご了承の程、宜しくお願い致します。

紫の桜

れぐまき
恋愛
紫の源氏物語の世界に紫の上として転移した大学講師の前世はやっぱり紫の上…? 前世に戻ってきた彼女はいったいどんな道を歩むのか 物語と前世に悩みながらも今世こそは幸せになろうともがく女性の物語 注)昔個人サイトに掲載していました 番外編も別に投稿してるので良ければそちらもどうぞ

悪役令嬢になりたくないので、攻略対象をヒロインに捧げます

久乃り
恋愛
乙女ゲームの世界に転生していた。 その記憶は突然降りてきて、記憶と現実のすり合わせに毎日苦労する羽目になる元日本の女子高校生佐藤美和。 1周回ったばかりで、2週目のターゲットを考えていたところだったため、乙女ゲームの世界に入り込んで嬉しい!とは思ったものの、自分はヒロインではなく、ライバルキャラ。ルート次第では悪役令嬢にもなってしまう公爵令嬢アンネローゼだった。 しかも、もう学校に通っているので、ゲームは進行中!ヒロインがどのルートに進んでいるのか確認しなくては、自分の立ち位置が分からない。いわゆる破滅エンドを回避するべきか?それとも、、勝手に動いて自分がヒロインになってしまうか? 自分の死に方からいって、他にも転生者がいる気がする。そのひとを探し出さないと! 自分の運命は、悪役令嬢か?破滅エンドか?ヒロインか?それともモブ? ゲーム修正が入らないことを祈りつつ、転生仲間を探し出し、この乙女ゲームの世界を生き抜くのだ! 他サイトにて別名義で掲載していた作品です。

処理中です...