上 下
120 / 134
第10章 次代の幕あけ 編

第119話 子は宝

しおりを挟む
松倉勝家は、突然、現れた男を驚愕の目で見つめた。

「あ、あなたは、松平殿」
「いかにも松平正綱である」

玉縄藩藩主にして、老中・松平信綱の義父である正綱は、勘定奉行などの要職についており、勝家よりも明らかに格上の存在。
しかし、家臣の手前、勝家は精一杯の虚勢を張った。

それがしにいい加減にせよとは、如何なる理由からでありましょうか?」
「ふーっ。説明せねば分からぬとは、何とも・・・」

正綱は、溜息をつくと、今度は天秀尼の方へ向き直す。
その深い瞳に見つめられ、彼女は吸い込まれるような錯覚を覚えた。これが、家康より、三代、重鎮として徳川に仕える者の格というものかと思わされる。

「天秀殿。土井さまより、一本取ったと聞き、どれほど恐ろしい女性かと思っていたが、何とも優しい目をしていらっしゃる」
「そのようなことは・・・されど、今は」
「うむ。分かっている」

正綱が土井さまと呼ぶのは、大老の土井利勝しかいない。
黙って、正綱と天秀尼の会話を聞いていた勝家は、動揺を隠せなかった。

『この小娘が幕府の最高権力者に、何をしたというのだ?』

完全になめ切っていた尼僧が、一体、何者なのか?
勝家は、完全に疑心暗鬼に陥ったのである。

「松倉殿、我が領内で好き勝手してくれているようだが?」
「いや、それは某が進む行列を横切る者がおりましたゆえ・・・」

強気だった勝家も不気味な天秀尼を気にして、当初の勢いを失くしていた。
しかも、その天秀尼から、「その事実はございません」と、はっきり否定される。

「なっ」
勝家が顔を赤くして、言い返そうとした時、正綱が制した。

「それは、根拠があってのことだろうか?」
「はい。私とともにこちらにいる瓢太さんが、現地の状況を詳しく知っております」

天秀尼が推薦すると、瓢太は正綱の前に進み出る。
そして、あの日あった出来事をありのままに話した。

「ふむ。・・・横切った訳ではないが、松倉殿の進行を乱したのだな?」
「それも言いようでございます。退けろと言われて、すぐに退けており、松倉さまの本隊とは、まだ、距離がありました」

ここまで聞いて、正綱は勝家を顧みる。総合的に判断すると、大名行列にさほど影響を与えていないように思われた。

しかも、捕まえているのが七歳の女児であれば、注意をした後、許してやるのが上に立つ者の度量ではないか。
正綱は、勝家にそう諭した。

幕臣として中枢にいる正綱に、そう言われては勝家も渋々ながらも従うしかない。
捕らえている珠代を返すよう、家臣に指示するのだった。

「それにしても、領民、一人のために大層なことですな」

ここで、負け惜しみともとれる発言をするのだが、その言葉に天秀尼の心に火がつく。
どうしても看過できない一言なのだ。

「恐れながら、申し上げますと、その領民一人一人が、世の中の暮らしを支えているのでございます」
「何を良識ぶった言い方をする。民など、履いて捨てるほどいるではないか」
「それでは、松倉さまが口にするお米は、誰が作った物でしょうか?お召しになっている着物は、誰が織った物でしょうか?皆、日々を懸命に生きているのです。お考え・・・」

話す天秀尼を正綱が途中で止める。正論とはいえ、それ以上の発言は、無礼討ちにすると言われる可能性があった。
いかに正綱といえど、そうなった場合、天秀尼を助けられる保証がない。
その代わり、正綱が天秀尼の耳元で謝罪する。

「生まれながら支配する側にいる場合、そういった当たり前のことに気づかない者が多いのだ。許せ」
「いえ、こちらこそ、申し訳ございません。私たち僧も何も生産しておりません。何もお武家さまに限った話ではございませんから・・・」

間違っていないという自負はあるが、伝え方に工夫が必要だったかもしれない。天秀には、正綱のおかげで冷静さを取り戻すことができた。
勝家の面目を保つため、天秀尼は深い一礼をして謝意を示す。

何にせよ、珠代の奪還には成功したのだ。
ここで、天秀尼が問題を起こせば、本末転倒になってしまう。

程なくすると、本陣の門から、小さな女子が出てきた。
見たところ、ひどい扱いを受けた様子がなく、天秀尼はホッとする。

「怖かったでしょ。もう大丈夫だから」
「ううん。部屋に閉じ込められた時は、ちょっと怖かったけど、ご飯とかちゃんと食べさせてくれたから」

勝家はともかく、家臣の中にはまともな者がいたというのが、せめてもの救いか。
天秀尼は、その者にお礼を言いたくなったが、それは無理な話だろう。
とにかく今は、お絹に無事を伝えるのと、八兵衛の元に返すのが先決だ。

「松平さま、この度は、大変ありがとうございました」
「何、私の領民のことよ。こちらこそ、苦労をかけた」

天秀尼は、深々とお辞儀をして、早速、珠代を連れて帰るのだった。
その後ろ姿を見送る正綱に勝家が質問をする。

「あの尼僧、何者でございましょうか?」
「あの者は豊臣秀頼殿のご息女にして、天樹院さまの養女。春日局殿とも懇意にされている天秀殿だ」

その話を聞いて、勝家はぞっとした。もしや天秀尼と対立し、幕府に訴えられた場合、分が悪かったのは自分かもしれないと思い至ったからである。
これからは鎌倉近くでは、大人しくしていようと思う勝家だった。


「おとう、ただいま」
八兵衛の家に着くなり、珠代は父親に抱きつく。八兵衛も、それに応えるように娘を強く抱きしめるのだった。

「天秀尼さま、今回はありがとうございました」
お絹も家に戻っているようで、涙ながら、天秀尼に感謝を示す。

「今回は全て、松平さまのおかげです。お礼の文を出しますので、お絹さんも一筆、どうですか?」
「・・・いや、私なんかが・・・」
「それじゃあ、私が書く!」

遠慮するお絹を尻目に珠代が手を上げた。大人はみんな心配していたというのに、この元気の良さときたら、どういうことだろうか?
周囲が自然と笑顔になる。

『子は宝』

天秀尼は、本当にそうだと思った。
どんな疲れも吹き飛ばす活力を与えてくれるのだから。

「それじゃあ、字を覚えなきゃ駄目だぞ」
「えーっ」

口を尖らせた珠代を見て、再び、笑いが沸き起こるのであった。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

校長室のソファの染みを知っていますか?

フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。 しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。 座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る

GAME CHANGER 日本帝国1945からの逆襲

俊也
歴史・時代
時は1945年3月、敗色濃厚の日本軍。 今まさに沖縄に侵攻せんとする圧倒的戦力のアメリカ陸海軍を前に、日本の指導者達は若者達による航空機の自爆攻撃…特攻 で事態を打開しようとしていた。 「バカかお前ら、本当に戦争に勝つ気があるのか!?」 その男はただの学徒兵にも関わらず、平然とそう言い放ち特攻出撃を拒否した。 当初は困惑し怒り狂う日本海軍上層部であったが…!? 姉妹作「新訳 零戦戦記」共々宜しくお願い致します。 共に 第8回歴史時代小説参加しました!

剣客居酒屋 草間の陰

松 勇
歴史・時代
酒と肴と剣と闇 江戸情緒を添えて 江戸は本所にある居酒屋『草間』。 美味い肴が食えるということで有名なこの店の主人は、絶世の色男にして、無双の剣客でもある。 自分のことをほとんど話さないこの男、冬吉には実は隠された壮絶な過去があった。 多くの江戸の人々と関わり、その舌を満足させながら、剣の腕でも人々を救う。 その慌し日々の中で、己の過去と江戸の闇に巣食う者たちとの浅からぬ因縁に気付いていく。 店の奉公人や常連客と共に江戸を救う、包丁人にして剣客、冬吉の物語。

小学生最後の夏休みに近所に住む2つ上のお姉さんとお風呂に入った話

矢木羽研
青春
「……もしよかったら先輩もご一緒に、どうですか?」 「あら、いいのかしら」 夕食を作りに来てくれた近所のお姉さんを冗談のつもりでお風呂に誘ったら……? 微笑ましくも甘酸っぱい、ひと夏の思い出。 ※性的なシーンはありませんが裸体描写があるのでR15にしています。 ※小説家になろうでも同内容で投稿しています。 ※2022年8月の「第5回ほっこり・じんわり大賞」にエントリーしていました。

戦国の華と徒花

三田村優希(または南雲天音)
歴史・時代
武田信玄の命令によって、織田信長の妹であるお市の侍女として潜入した忍びの於小夜(おさよ)。 付き従う内にお市に心酔し、武田家を裏切る形となってしまう。 そんな彼女は人並みに恋をし、同じ武田の忍びである小十郎と夫婦になる。 二人を裏切り者と見做し、刺客が送られてくる。小十郎も柴田勝家の足軽頭となっており、刺客に怯えつつも何とか女児を出産し於奈津(おなつ)と命名する。 しかし頭領であり於小夜の叔父でもある新井庄助の命令で、於奈津は母親から引き離され忍びとしての英才教育を受けるために真田家へと送られてしまう。 悲嘆に暮れる於小夜だが、お市と共に悲運へと呑まれていく。 ※拙作「異郷の残菊」と繋がりがありますが、単独で読んでも問題がございません 【他サイト掲載:NOVEL DAYS】

札束艦隊

蒼 飛雲
歴史・時代
 生まれついての勝負師。  あるいは、根っからのギャンブラー。  札田場敏太(さつたば・びんた)はそんな自身の本能に引きずられるようにして魑魅魍魎が跋扈する、世界のマーケットにその身を投じる。  時は流れ、世界はその混沌の度を増していく。  そのような中、敏太は将来の日米関係に危惧を抱くようになる。  亡国を回避すべく、彼は金の力で帝国海軍の強化に乗り出す。  戦艦の高速化、ついでに出来の悪い四姉妹は四一センチ砲搭載戦艦に改装。  マル三計画で「翔鶴」型空母三番艦それに四番艦の追加建造。  マル四計画では戦時急造型空母を三隻新造。  高オクタン価ガソリン製造プラントもまるごと買い取り。  科学技術の低さもそれに工業力の貧弱さも、金さえあればどうにか出来る!

転娘忍法帖

あきらつかさ
歴史・時代
時は江戸、四代将軍家綱の頃。 小国に仕える忍の息子・巽丸(たつみまる)はある時、侵入した曲者を追った先で、老忍者に謎の秘術を受ける。 どうにか生還したものの、目覚めた時には女の体になっていた。 国に渦巻く陰謀と、師となった忍に預けられた書を狙う者との戦いに翻弄される、ひとりの若忍者の運命は――――

渡世人飛脚旅(小説新人賞最終選考落選歴あり、別名義、別作品で)

牛馬走
歴史・時代
(小説新人賞最終選考落選歴あり、別名義、別作品で)水呑百姓の平太は、体の不自由な祖母を養いながら、未来に希望を持てずに生きていた。平太は、賭場で無宿(浪人)を鮮やかに斃す。その折、親分に渡世人飛脚に誘われる。渡世人飛脚とは、あちこちを歩き回る渡世人を利用した闇の運送業のことを云う――

処理中です...