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第10章 次代の幕あけ 編
第119話 子は宝
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松倉勝家は、突然、現れた男を驚愕の目で見つめた。
「あ、あなたは、松平殿」
「いかにも松平正綱である」
玉縄藩藩主にして、老中・松平信綱の義父である正綱は、勘定奉行などの要職についており、勝家よりも明らかに格上の存在。
しかし、家臣の手前、勝家は精一杯の虚勢を張った。
「某にいい加減にせよとは、如何なる理由からでありましょうか?」
「ふーっ。説明せねば分からぬとは、何とも・・・」
正綱は、溜息をつくと、今度は天秀尼の方へ向き直す。
その深い瞳に見つめられ、彼女は吸い込まれるような錯覚を覚えた。これが、家康より、三代、重鎮として徳川に仕える者の格というものかと思わされる。
「天秀殿。土井さまより、一本取ったと聞き、どれほど恐ろしい女性かと思っていたが、何とも優しい目をしていらっしゃる」
「そのようなことは・・・されど、今は」
「うむ。分かっている」
正綱が土井さまと呼ぶのは、大老の土井利勝しかいない。
黙って、正綱と天秀尼の会話を聞いていた勝家は、動揺を隠せなかった。
『この小娘が幕府の最高権力者に、何をしたというのだ?』
完全になめ切っていた尼僧が、一体、何者なのか?
勝家は、完全に疑心暗鬼に陥ったのである。
「松倉殿、我が領内で好き勝手してくれているようだが?」
「いや、それは某が進む行列を横切る者がおりましたゆえ・・・」
強気だった勝家も不気味な天秀尼を気にして、当初の勢いを失くしていた。
しかも、その天秀尼から、「その事実はございません」と、はっきり否定される。
「なっ」
勝家が顔を赤くして、言い返そうとした時、正綱が制した。
「それは、根拠があってのことだろうか?」
「はい。私とともにこちらにいる瓢太さんが、現地の状況を詳しく知っております」
天秀尼が推薦すると、瓢太は正綱の前に進み出る。
そして、あの日あった出来事をありのままに話した。
「ふむ。・・・横切った訳ではないが、松倉殿の進行を乱したのだな?」
「それも言いようでございます。退けろと言われて、すぐに退けており、松倉さまの本隊とは、まだ、距離がありました」
ここまで聞いて、正綱は勝家を顧みる。総合的に判断すると、大名行列にさほど影響を与えていないように思われた。
しかも、捕まえているのが七歳の女児であれば、注意をした後、許してやるのが上に立つ者の度量ではないか。
正綱は、勝家にそう諭した。
幕臣として中枢にいる正綱に、そう言われては勝家も渋々ながらも従うしかない。
捕らえている珠代を返すよう、家臣に指示するのだった。
「それにしても、領民、一人のために大層なことですな」
ここで、負け惜しみともとれる発言をするのだが、その言葉に天秀尼の心に火がつく。
どうしても看過できない一言なのだ。
「恐れながら、申し上げますと、その領民一人一人が、世の中の暮らしを支えているのでございます」
「何を良識ぶった言い方をする。民など、履いて捨てるほどいるではないか」
「それでは、松倉さまが口にするお米は、誰が作った物でしょうか?お召しになっている着物は、誰が織った物でしょうか?皆、日々を懸命に生きているのです。お考え・・・」
話す天秀尼を正綱が途中で止める。正論とはいえ、それ以上の発言は、無礼討ちにすると言われる可能性があった。
いかに正綱といえど、そうなった場合、天秀尼を助けられる保証がない。
その代わり、正綱が天秀尼の耳元で謝罪する。
「生まれながら支配する側にいる場合、そういった当たり前のことに気づかない者が多いのだ。許せ」
「いえ、こちらこそ、申し訳ございません。私たち僧も何も生産しておりません。何もお武家さまに限った話ではございませんから・・・」
間違っていないという自負はあるが、伝え方に工夫が必要だったかもしれない。天秀には、正綱のおかげで冷静さを取り戻すことができた。
勝家の面目を保つため、天秀尼は深い一礼をして謝意を示す。
何にせよ、珠代の奪還には成功したのだ。
ここで、天秀尼が問題を起こせば、本末転倒になってしまう。
程なくすると、本陣の門から、小さな女子が出てきた。
見たところ、ひどい扱いを受けた様子がなく、天秀尼はホッとする。
「怖かったでしょ。もう大丈夫だから」
「ううん。部屋に閉じ込められた時は、ちょっと怖かったけど、ご飯とかちゃんと食べさせてくれたから」
勝家はともかく、家臣の中にはまともな者がいたというのが、せめてもの救いか。
天秀尼は、その者にお礼を言いたくなったが、それは無理な話だろう。
とにかく今は、お絹に無事を伝えるのと、八兵衛の元に返すのが先決だ。
「松平さま、この度は、大変ありがとうございました」
「何、私の領民のことよ。こちらこそ、苦労をかけた」
天秀尼は、深々とお辞儀をして、早速、珠代を連れて帰るのだった。
その後ろ姿を見送る正綱に勝家が質問をする。
「あの尼僧、何者でございましょうか?」
「あの者は豊臣秀頼殿のご息女にして、天樹院さまの養女。春日局殿とも懇意にされている天秀殿だ」
その話を聞いて、勝家はぞっとした。もしや天秀尼と対立し、幕府に訴えられた場合、分が悪かったのは自分かもしれないと思い至ったからである。
これからは鎌倉近くでは、大人しくしていようと思う勝家だった。
「おとう、ただいま」
八兵衛の家に着くなり、珠代は父親に抱きつく。八兵衛も、それに応えるように娘を強く抱きしめるのだった。
「天秀尼さま、今回はありがとうございました」
お絹も家に戻っているようで、涙ながら、天秀尼に感謝を示す。
「今回は全て、松平さまのおかげです。お礼の文を出しますので、お絹さんも一筆、どうですか?」
「・・・いや、私なんかが・・・」
「それじゃあ、私が書く!」
遠慮するお絹を尻目に珠代が手を上げた。大人はみんな心配していたというのに、この元気の良さときたら、どういうことだろうか?
周囲が自然と笑顔になる。
『子は宝』
天秀尼は、本当にそうだと思った。
どんな疲れも吹き飛ばす活力を与えてくれるのだから。
「それじゃあ、字を覚えなきゃ駄目だぞ」
「えーっ」
口を尖らせた珠代を見て、再び、笑いが沸き起こるのであった。
「あ、あなたは、松平殿」
「いかにも松平正綱である」
玉縄藩藩主にして、老中・松平信綱の義父である正綱は、勘定奉行などの要職についており、勝家よりも明らかに格上の存在。
しかし、家臣の手前、勝家は精一杯の虚勢を張った。
「某にいい加減にせよとは、如何なる理由からでありましょうか?」
「ふーっ。説明せねば分からぬとは、何とも・・・」
正綱は、溜息をつくと、今度は天秀尼の方へ向き直す。
その深い瞳に見つめられ、彼女は吸い込まれるような錯覚を覚えた。これが、家康より、三代、重鎮として徳川に仕える者の格というものかと思わされる。
「天秀殿。土井さまより、一本取ったと聞き、どれほど恐ろしい女性かと思っていたが、何とも優しい目をしていらっしゃる」
「そのようなことは・・・されど、今は」
「うむ。分かっている」
正綱が土井さまと呼ぶのは、大老の土井利勝しかいない。
黙って、正綱と天秀尼の会話を聞いていた勝家は、動揺を隠せなかった。
『この小娘が幕府の最高権力者に、何をしたというのだ?』
完全になめ切っていた尼僧が、一体、何者なのか?
勝家は、完全に疑心暗鬼に陥ったのである。
「松倉殿、我が領内で好き勝手してくれているようだが?」
「いや、それは某が進む行列を横切る者がおりましたゆえ・・・」
強気だった勝家も不気味な天秀尼を気にして、当初の勢いを失くしていた。
しかも、その天秀尼から、「その事実はございません」と、はっきり否定される。
「なっ」
勝家が顔を赤くして、言い返そうとした時、正綱が制した。
「それは、根拠があってのことだろうか?」
「はい。私とともにこちらにいる瓢太さんが、現地の状況を詳しく知っております」
天秀尼が推薦すると、瓢太は正綱の前に進み出る。
そして、あの日あった出来事をありのままに話した。
「ふむ。・・・横切った訳ではないが、松倉殿の進行を乱したのだな?」
「それも言いようでございます。退けろと言われて、すぐに退けており、松倉さまの本隊とは、まだ、距離がありました」
ここまで聞いて、正綱は勝家を顧みる。総合的に判断すると、大名行列にさほど影響を与えていないように思われた。
しかも、捕まえているのが七歳の女児であれば、注意をした後、許してやるのが上に立つ者の度量ではないか。
正綱は、勝家にそう諭した。
幕臣として中枢にいる正綱に、そう言われては勝家も渋々ながらも従うしかない。
捕らえている珠代を返すよう、家臣に指示するのだった。
「それにしても、領民、一人のために大層なことですな」
ここで、負け惜しみともとれる発言をするのだが、その言葉に天秀尼の心に火がつく。
どうしても看過できない一言なのだ。
「恐れながら、申し上げますと、その領民一人一人が、世の中の暮らしを支えているのでございます」
「何を良識ぶった言い方をする。民など、履いて捨てるほどいるではないか」
「それでは、松倉さまが口にするお米は、誰が作った物でしょうか?お召しになっている着物は、誰が織った物でしょうか?皆、日々を懸命に生きているのです。お考え・・・」
話す天秀尼を正綱が途中で止める。正論とはいえ、それ以上の発言は、無礼討ちにすると言われる可能性があった。
いかに正綱といえど、そうなった場合、天秀尼を助けられる保証がない。
その代わり、正綱が天秀尼の耳元で謝罪する。
「生まれながら支配する側にいる場合、そういった当たり前のことに気づかない者が多いのだ。許せ」
「いえ、こちらこそ、申し訳ございません。私たち僧も何も生産しておりません。何もお武家さまに限った話ではございませんから・・・」
間違っていないという自負はあるが、伝え方に工夫が必要だったかもしれない。天秀には、正綱のおかげで冷静さを取り戻すことができた。
勝家の面目を保つため、天秀尼は深い一礼をして謝意を示す。
何にせよ、珠代の奪還には成功したのだ。
ここで、天秀尼が問題を起こせば、本末転倒になってしまう。
程なくすると、本陣の門から、小さな女子が出てきた。
見たところ、ひどい扱いを受けた様子がなく、天秀尼はホッとする。
「怖かったでしょ。もう大丈夫だから」
「ううん。部屋に閉じ込められた時は、ちょっと怖かったけど、ご飯とかちゃんと食べさせてくれたから」
勝家はともかく、家臣の中にはまともな者がいたというのが、せめてもの救いか。
天秀尼は、その者にお礼を言いたくなったが、それは無理な話だろう。
とにかく今は、お絹に無事を伝えるのと、八兵衛の元に返すのが先決だ。
「松平さま、この度は、大変ありがとうございました」
「何、私の領民のことよ。こちらこそ、苦労をかけた」
天秀尼は、深々とお辞儀をして、早速、珠代を連れて帰るのだった。
その後ろ姿を見送る正綱に勝家が質問をする。
「あの尼僧、何者でございましょうか?」
「あの者は豊臣秀頼殿のご息女にして、天樹院さまの養女。春日局殿とも懇意にされている天秀殿だ」
その話を聞いて、勝家はぞっとした。もしや天秀尼と対立し、幕府に訴えられた場合、分が悪かったのは自分かもしれないと思い至ったからである。
これからは鎌倉近くでは、大人しくしていようと思う勝家だった。
「おとう、ただいま」
八兵衛の家に着くなり、珠代は父親に抱きつく。八兵衛も、それに応えるように娘を強く抱きしめるのだった。
「天秀尼さま、今回はありがとうございました」
お絹も家に戻っているようで、涙ながら、天秀尼に感謝を示す。
「今回は全て、松平さまのおかげです。お礼の文を出しますので、お絹さんも一筆、どうですか?」
「・・・いや、私なんかが・・・」
「それじゃあ、私が書く!」
遠慮するお絹を尻目に珠代が手を上げた。大人はみんな心配していたというのに、この元気の良さときたら、どういうことだろうか?
周囲が自然と笑顔になる。
『子は宝』
天秀尼は、本当にそうだと思った。
どんな疲れも吹き飛ばす活力を与えてくれるのだから。
「それじゃあ、字を覚えなきゃ駄目だぞ」
「えーっ」
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