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第5章 宇都宮の陰謀 編

第55話 宇都宮城の釣り天井

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福は甲斐姫の要請を受けて、老中・井上正就いのうえまさなりを伴って宇都宮城へとやって来た。
勿論、その場には天秀と甲斐姫らも同席する。

「これは正就殿もお越しとは、物々しゅうございますな」
「宇都宮城に不審な点があると加納御前かのうごぜんさまから報せがありましてな。その検分に参ったのですよ」

加納御前とは、家康の長女・亀姫かめひめのことで、前宇都宮藩主・奥平家昌おくだいらいえまさの母親という人物であった。
但し、愛息の急死に伴い、家昌の子、忠昌ただまさが後を継ぐのだが、まだ幼いという理由で、宇都宮藩主の座を正純に奪われている。

今回、幕府の重鎮の城を検分するという大それたことを実施するためには、甲斐姫の要請では人を動かすことはできない。
そこで、福は正純に恨みを持つ徳川の大物に事情を説明し、助力をお願いしたのだ。

「これは、まだ心外な話。しかし、身の潔白を示すには、心行くまで見ていただくのが一番でしょうな」

この検分は、事前予告なく完全な抜き打ちである。それにも関わらず、この正純の余裕の表情が天秀は気になった。
しかし、瓢太が持ってきてくれた普請絵図を見せれば、抗弁はできなくなるはず。

「では、まずこちらの絵図を見ていただきましょうか」
早速、正就が手に入れた普請絵図を見せる。明らかに幕府に提出した設計図とは異なっているのだ。

「こ、これは・・・」
「この絵では予定を変更して釣り天井となっているようですが、いささかこの鎖では、太さが足りないのではないでしょうか?」

動揺する正純に畳みかけるように正就が問い詰める。だが、すぐにニヤリと正純は笑った。
何とも嫌な笑顔だと天秀は思う。

「この図面、どこで手に入れたか知りませぬが、古い図面ですな。おっしゃる通り、安全面に問題があったので、現場では直させております」
「なっ。それは真でございましょうな?」
「現地を見ていただいた方が納得しやすいでしょう。ご案内します」

正純は余裕の表情で、内部検分させると言い切った。この前、酒井忠利や松平信綱が訪れた時は、まったく見せる気配がなかったのに、どういう心境の変化だろうか?
当初、聞いていた状況と異なるため、逆に正就の方が動揺する。

「福殿。話が大分、違うようだが、大丈夫なんでしょうな?」
「まぁ、実際、見てみれば分かります」

正純に案内されるまま、問題の寝室へと移動した。そこには、まだ、作業中の大工たちが働いている。
その中の一人に甲斐姫は、鋭い視線を送った。それは以前、蕎麦屋で揉めた大工の姿があったからである。
確か応募から選外になったと嘆いていたはずだが・・・

「瓢太、与五郎はどこにおる?」
「それが探してるんだけど、見当たらないんだよ」

その言葉を聞いたとき、甲斐姫の中にある考えが浮かんだ。

『もしや秘密を知る大工を入れ替えおったな』

正純が証拠隠ぺいのために、ここまで手の込んだことをするのは想定外である。
加納御前や井上正就との調整など含め、福に連絡してから十日ほどの時間を要していた。

その間に正純は詰問されることを想定した対策を打っていたとしたら、敵ながら、あっぱれと言うしかない。
そして、その甲斐姫の考えは的中するのだ。

「ええと、確か釣り天井でしたか。・・・こちらから天井部が見えると思いますが、いかがです」
正純が指さした天井は、まったく吊っている様子などなく、複数の柱でしっかりと固定されている。
幕府に申請している絵図とも異なるが、釣り天井と呼ぶような代物ではなかった。

「確かに当初の申請とは、多少、異なりましたが、あいにく材木が思うように届かず、安全面を考慮すると、このような形となってしまいました」
「ううむ。・・・なるほどですなぁ」

これでは、釣り天井の危険性を訴えて、正純を追い詰めることができない。正就は言葉を詰まらせた。
図面と多少、異なる点を攻めようと思えば攻めることはできるが、将軍が泊まる場所だけに安全優先と言われれば、そこで終わってしまうだろう。

「どうなさるのか?」

小声で確認をとるが、肝心の福は天井を見て、黙り込んでしまった。
意気揚々と乗り込んだ手前、これでは正就の面目が丸潰れとなる。
完全に優位な立場にいると自覚している正純は、福ににじり寄るのだった。

「さて、正面からこの正純を愚弄した始末、どうおつけになるつもりかな?」
更に、その言は天秀や甲斐姫にまで及ぶ。

「おそらく、下賤な者の妄言に踊らされてしまったのでしょう。悪いのはこやつらとして、この場で討っても構いませんね?」

正就に天秀たちを庇う義理はなく、肝心の福も先ほどから黙ったままであった。
下賤の者と名指しされた天秀は、下に頭を垂れて、肩を震わせる。

『儂に逆らったのだ。今さら、怯えても遅いわ』

勝ち誇った正純が、部下に命じて天秀、甲斐姫らを捕らえさせようとした時、天秀が顔を上げた。
そこには満面の笑顔がある。

「な、何だ。気でも触れたか?」
「いいえ、本多さまのお話が以上で終わりでしたら、次は私から申し上げてもよいでしょうか?」

突然、思いもよらぬ反攻に正純は、一瞬、動きが止まる。
この小娘は、何を言い出そうというのか?
そこに、ようやく福が口を出した。

「早くなさい。私は、それを待っていたのですよ」
「承知いたしました」

天秀が、一歩踏み込むと正純は、一歩下がる。

『ずんと飛んで、躊躇しない。ずんと、飛んで・・・』

沢庵禅師からの教えを心の中で繰り返すと、その言葉を体現するように、天秀の気迫が正純を追い込む。
天下の徳川の重鎮が十四歳の娘が放つ覇気のようなものに気おされる光景を周囲の者は、驚きの目で見るのだった。
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