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第二話「私と彼」

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 耳からあごまでしっかりと続くモジャモジャのひげを上下させながら、黒板の前で磯谷いそや教授が喉にからむようなドイツ語の発音を繰り返していた。
 私の隣ではペアになっている斉藤さいとうさんが教科書と先生を交互ににらめっこしながら、同じように小さく発音を繰り返している。その私の視線に気づくと恥ずかしそうに笑うのだけれど、今日誕生日なんだと言われて年齢を聞くと実は一つ歳上だったという事実が判明して、なんだかバツが悪い。

「ドイツに限らないけどね、語学を学ぶというのは法則や発音、単語を知るということではなくて、文化を知るってことなんだ。ほら、最近は日本に来る外国の人も増えてるけど、ただ観光したいだけでなくて文化を知りたいんだって言ってわざわざ日本語を覚えて訪ねてくれたりする」

 周囲の生徒は「また始まったよ」といった感じでスマートフォンを教科書で隠して見始めたりしていたが、彼女は目を輝かせて先生の話を聞いている。大きな眼鏡に真っ黒でしっかりした髪を耳の後ろで括っていて、斉藤さんが頷く度にそれが上下して揺れるのが二つの耳みたいに思えてちょっとだけ愛らしく感じる。
 そんな彼女が浪人生とは思わなかったから、「なに?」という悪意のない顔で私を見られるとどう答えていいものか分からなくなる。

「知りたいならまず学ぶことだ。知らないなら、分からないなら、本を開くか、あるいは知っている誰かに尋ねることだ。タテン・シュタット・ヴォルテ。言葉よりも行動をだよ」

 先生は黒板に力強く文字を書くと、そう言って教科書の続きに戻った。

 宿題のプリントを鞄に仕舞い、席を立つ。今日の授業はこれで終わりだった。
 私は人が一気に減った教室で、思い切り両腕を持ち上げて伸びをする。金曜はサークルの集会があるけれど、バイトもあるし、それに昨日のあの宮内翔太郎みやうちしょうたろうとかいう男性のことも気になる。

「あの」

 鞄を手に部屋を出て行こうとした私の手を、斉藤さんがつかんだ。

「何ですか?」
「この後授業入ってますか?」

 それはいつも彼女が先生を見る時にしているのと同じ眼差しだった。
 左右に首を振った私に嬉しそうにすると、彼女は「少しだけ、付き合ってもらってもいいですか?」と断ってから、一緒に教室を出た。
 背中にカーキ色のリュックを背負った短い二つ絞りの髪型の斉藤さんは、鈍い群青色のロングスカートを揺らしながら勢いよく歩いていく。私はそれについていくのがやっとで、途中何度か声を掛けられたのだけれど、とても話に答えられるような状況じゃなくて、「うん」とか「ええ」とか相槌あいづちを返すので精一杯だった。
 誕生日という免罪符があるからなのか、いつもは授業が終わってすぐ別れるだけの存在だった彼女が、違う姿を見せていた。

「岩根さんはさ、その、大学で友だちとかできた?」
「えっと……」

 そう言われて浮かんだのは幸子の顔くらいだった。

「まあサークルの知り合いくらいなら」
「そうだよね。わたしってさ、浪人してるからか、その、まだ友だちとかここでいなくて」

 やっと右隣に追いついた私にそう言いながら苦笑を向ける。その化粧気の全くない表情は歳上という感じはない。むしろ一年生、下手をするとオープンキャンパスにやってきた高校生と言っても通用しそうだ。

「別にいなくても何てことはないんだけど、でも時々困ることもあるんだよね」

 それが何だと思う? という顔を私に見せてから、彼女は横断歩道の向こう側にあるラーメン屋の看板を指差した。

「え……」
「ほら。何て言うか、一人で食べても大丈夫なものと、そうじゃなくて一人で食べると美味しくないものってあるじゃない?」
「それがラーメン?」

 斉藤さんは小さく頷くと、信号が変わった道路の上の白線を踏みしめて歩き出す。
 全然自分とは感性が違う他人がそこにいるのを感じつつ、私は諦めたように彼女に続いた。


 今月頭に開店したというラーメン店は三時過ぎという中途半端な時間帯にも関わらず、私と斉藤さんの二人分の席が用意できるまでに五分ほど待たされた。
 それでも彼女は嫌な顔も失望したような素振りも見せず、それどころか席が空くまでの時間まで楽しいといった雰囲気を私に見せていた。
 その五分程度で斉藤さんが私とは違い、ちゃんと目的や動機を持ってこの大学に入ったことを知った。

「茨城からこっちって飛行機ですよね? 夏休みは帰ったりするんですか?」

 カウンターの隅の方の席、横並びに掛けながら私は尋ねる。

「一年に一度だけって決めてるんで、今年はお盆もこっちで過ごすつもり。岩根さんは地元なんですよね?」

 鞄を足元の籠に入れながら“地元”という響きにとても居心地の悪さを感じて、私は曖昧に頷きを返す。

「だから岩根さんて色白なのかな。冬はスキーとかスノボとかやられたり?」

 彼女が私にどんなイメージを抱いているのかよく分からない。たぶん悪意はないのだ。けれど私とはまた違った風に人との距離感が分からないのだろう。
 結局斉藤さんも私も一番の売れ筋だという豚骨醤油ラーメンを注文して、やってきた黒い丼の中身を見て顔を見合わせた。

「ちょっと量多そうだね」
「斉藤さんは大丈夫ですか?」
「夕食にしちゃえば何とか……なるかな」

 たっぷりと汁に浮いた縮れ麺の上に山盛りのモヤシと大きなチャーシューが二枚、他にも海苔にメンマにカマボコが、食べてみろとばかりに汁に浸っていた。

「麺の量、少なくしてもらえばよかったですね」
「大丈夫。一人じゃないから」

 そう言って笑顔で蓮華れんげに入れたスープをすする斉藤さんは何とも満足そうだ。私は湯気を上げる麺をすくい上げて、熱さを我慢しながらあぶらごと喉に流し込む。美味しいけれどやっぱり最後までは食べるのは大変そうだな、という味が胃袋へと落ちていった。


「ふぅ……」
「はぁ……もう無理」

 何とか最後の麺を胃袋まで押し込んで、私は斉藤さんと顔を見合わせる。互いにひたいを汗ばませたままほっこりと表情が緩むと、小さな声で笑った。

「岩根さんは、その、いるの?」

 何がだろうか? と彼女の顔を覗き込むと目線を泳がせてから照れたようにうつむいた。

「彼氏とか、そういうの」

 幸子に冗談で訊かれたりしたことはあったが、こんな直球は大学に来て初めてかも知れない。全然知らなかっただけで、斉藤さんはごくごく普通の感性を持った女子なのだ。好きな男性の話なんかをしてちょっと頬が染まるような、そういう可愛らしいところを持った女性なのだ。

「いませんよ。昔からそういうの、全然縁がないんです」
「そうなの? 岩根さんはわたしと違ってちゃんと人付き合いしてるし、他の人たちみたいに化粧バリバリで恐い感じじゃないし、なんて言うかとても自然体で話し掛けやすいから、勝手にそういう人いるんだとか想像してて……ごめんなさい」

 丼を下げてもらって、二人とも自分の前にある水の残ったコップを両手で掴んでいる。彼女の視線が落ちる水面には、ちょっとした後悔とかまたやっちゃったなとか、そういう溜息が映り込んでいるのだろう。

「私も人付き合いは苦手です」
「え?」
「仕方なくでやっているだけで、しなくていいなら一人でいる方がずっと気楽ですから」

 分かる。という目で彼女は頷く。

「誰かと一緒にいる。それも気心の知れない誰かと一緒に暮らすというのは私にとって、幽霊に怯えながら暮らすみたいなものなんです。だからとても彼氏とかそんなのは……ひぇっ!」

 突然斉藤さんの手が私を掴んで妙な声を出してしまう。

「ごめんね岩根さん。誘った時に拒否することなく付いてきてくれたから勝手に大丈夫な人なんだわたしに心を許してくれているんだって、そんな風に思い込んじゃって。ほんとはラーメンなんか食べたくなかったんでしょ? それも語学の授業でペアになっただけのうっすい関係性のわたしなんかと二人きりでなんて、美味しいラーメンの味も不味くなっちゃったよね?」

 今にもカウンターに突っ伏して泣き出すのかと思うような勢いだ。
 私は「そんなことないですよ。美味しかったですから」と店内の他のお客さんや二の腕逞しい店員さんたちを見やりながらそう言うと、早く会計を済ませようと席を立った。
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