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兄様がいるからと聞いてエレナは慌てて城の三階のバルコニィに顔を出した。まだ春の穏やかな陽気が差し込み、一瞬眩しさを感じたけれど、ちゃんとそこにはエレナの大切な人が待っていてくれた。
「兄様?」
「美味しそうな林檎だろう? エレナ」
微笑して、金髪の青年が齧り跡のある林檎を彼女に見せる。
「林檎なんかどうでもいいんです。それよりいつ結婚してくれるんですか? 私は来月でもう十八になります。今年もまだ早いと言われてしまうようならいつになれば良いのでしょう」
森を眺めていた細身の彼の腕を取り、その左肩に頭を寄せる。何の香りだろう。いつもとは違う淡く酸味のある香を感じて今一度エレナは彼の横顔を見やった。
侍女たちが羨ましがる長く伸びた睫毛と宝石のように蒼い瞳、着ているものはただの綿編みの上下なのに、兵士たちとは違って気品が漂って見える。
「エレナよ。すまないが、ボクには既に決まっている人がいるんだ」
「誰なんです!?」
「名も顔も知らぬ、遠い国の女性だ。どこかの公国の姫らしい。お父様たちがずっと昔に決めた、許嫁だ」
「そんな話、私は聞いていません。どうしてもその約束は守らねばならないのですか?」
エレナは両親が嫌いだった。いつも自分のことは何も聞いてくれない癖に、自分たちの都合はこうして兄様や彼女に押し付ける。
「遠い、国なのですね」
「ああ」
遠い、とはすぐに会えない、という意味ではない。もう二度と会うことができないかも知れないということだ。
兄様の右胸の少し下に一枚、皺になった小さな白い花びらが張り付いていることに気づき、エレナはそれを無言で取って捨てた。
「どうしていつもあの人たちは勝手なことをなさるのでしょう。私が抗議してきます」
「何を言ったところで覆らないよ。この国ではお父様たちが法なのだから」
諦めたように薄い笑みを作り、視線を遠くの山へと投げる。それは兄の小さい頃からの癖だった。だからエレナはいつか彼にそんな笑顔を強制しない日々をプレゼントしたいと考えていた。
それから十日ほど経った日の夜だった。合鍵を使って兄の寝室に忍び込んだ。昔からエレナのことをよく知る見張りの兵士には彼の好きな葡萄酒を渡しておいた。
窓から差し込む月明かりがその整った顔を仄かに照らす。小さな唇が呼吸を繰り返していて、夕食の後で食べてと渡したあの林檎が上手く彼を眠らせてくれたと分かった。それは城に物売りに来ていた老婆から半信半疑で買ったものだ。見たことのない汚らしい老婆だったが、こんなことならもっと高く買ってやれば良かったとエレナは思った。
「ねえ兄様。覚えてるかしら。中庭でお母様と三人、森のお話を聞かせてもらっていた頃のことを。あの頃は兄様が私を守ってやると言ってくれるのが当たり前なんだと思っていた。だから私も兄様の一番大切な人であろうとマナーの授業もダンスの練習も欠かさずに取り組んだわ。けれどいつまで経っても兄様との結婚は許してもらえず、あろうことか、知らない、遠い国の女と一緒になるだなんて、そんなことは許さない」
何も答えない王子の胸元に頬を寄せ、その心音を聞いた。
小さい頃から怖いことがあると、こうして兄様に抱きついてはこの音に安心を貰った。いつでも好きなだけ自分に笑顔を向けてくれたのに、優しさをくれたのに、何故他の女のものになってしまうのだろう。
エレナは用意していたナイフを取り出すと、その白くて綺麗な喉元に当てた。
それは月光を返して静かに輝いている。
「兄様……」
このままこれを引けば誰もいない二人だけの世界にいけるだろうか。そこなら邪魔されずに二人きりで愛を語り合えるだろうか。
「これが私からの、少し早い誕生日の贈り物です。兄様……」
ドン、という大きな音と共に部屋の木戸が開けられると、数名の兵士が入ってきてエレナの腕を取り押さえた。
「姫様! 何をされているのですか!」
「私は何もしていません。ただ兄様を自由にしてあげたかっただけです」
「兄様?」
「美味しそうな林檎だろう? エレナ」
微笑して、金髪の青年が齧り跡のある林檎を彼女に見せる。
「林檎なんかどうでもいいんです。それよりいつ結婚してくれるんですか? 私は来月でもう十八になります。今年もまだ早いと言われてしまうようならいつになれば良いのでしょう」
森を眺めていた細身の彼の腕を取り、その左肩に頭を寄せる。何の香りだろう。いつもとは違う淡く酸味のある香を感じて今一度エレナは彼の横顔を見やった。
侍女たちが羨ましがる長く伸びた睫毛と宝石のように蒼い瞳、着ているものはただの綿編みの上下なのに、兵士たちとは違って気品が漂って見える。
「エレナよ。すまないが、ボクには既に決まっている人がいるんだ」
「誰なんです!?」
「名も顔も知らぬ、遠い国の女性だ。どこかの公国の姫らしい。お父様たちがずっと昔に決めた、許嫁だ」
「そんな話、私は聞いていません。どうしてもその約束は守らねばならないのですか?」
エレナは両親が嫌いだった。いつも自分のことは何も聞いてくれない癖に、自分たちの都合はこうして兄様や彼女に押し付ける。
「遠い、国なのですね」
「ああ」
遠い、とはすぐに会えない、という意味ではない。もう二度と会うことができないかも知れないということだ。
兄様の右胸の少し下に一枚、皺になった小さな白い花びらが張り付いていることに気づき、エレナはそれを無言で取って捨てた。
「どうしていつもあの人たちは勝手なことをなさるのでしょう。私が抗議してきます」
「何を言ったところで覆らないよ。この国ではお父様たちが法なのだから」
諦めたように薄い笑みを作り、視線を遠くの山へと投げる。それは兄の小さい頃からの癖だった。だからエレナはいつか彼にそんな笑顔を強制しない日々をプレゼントしたいと考えていた。
それから十日ほど経った日の夜だった。合鍵を使って兄の寝室に忍び込んだ。昔からエレナのことをよく知る見張りの兵士には彼の好きな葡萄酒を渡しておいた。
窓から差し込む月明かりがその整った顔を仄かに照らす。小さな唇が呼吸を繰り返していて、夕食の後で食べてと渡したあの林檎が上手く彼を眠らせてくれたと分かった。それは城に物売りに来ていた老婆から半信半疑で買ったものだ。見たことのない汚らしい老婆だったが、こんなことならもっと高く買ってやれば良かったとエレナは思った。
「ねえ兄様。覚えてるかしら。中庭でお母様と三人、森のお話を聞かせてもらっていた頃のことを。あの頃は兄様が私を守ってやると言ってくれるのが当たり前なんだと思っていた。だから私も兄様の一番大切な人であろうとマナーの授業もダンスの練習も欠かさずに取り組んだわ。けれどいつまで経っても兄様との結婚は許してもらえず、あろうことか、知らない、遠い国の女と一緒になるだなんて、そんなことは許さない」
何も答えない王子の胸元に頬を寄せ、その心音を聞いた。
小さい頃から怖いことがあると、こうして兄様に抱きついてはこの音に安心を貰った。いつでも好きなだけ自分に笑顔を向けてくれたのに、優しさをくれたのに、何故他の女のものになってしまうのだろう。
エレナは用意していたナイフを取り出すと、その白くて綺麗な喉元に当てた。
それは月光を返して静かに輝いている。
「兄様……」
このままこれを引けば誰もいない二人だけの世界にいけるだろうか。そこなら邪魔されずに二人きりで愛を語り合えるだろうか。
「これが私からの、少し早い誕生日の贈り物です。兄様……」
ドン、という大きな音と共に部屋の木戸が開けられると、数名の兵士が入ってきてエレナの腕を取り押さえた。
「姫様! 何をされているのですか!」
「私は何もしていません。ただ兄様を自由にしてあげたかっただけです」
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