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第三章 「旅立ち」
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ウッドの家の裏手に出ると、そこは資材やゴミなどが無差別に置かれていた。改めて自分がこんな場所に住んでいたのだと思い出し、ウッドは己の凋落ぶりに踏み出す足にも力が入らなかった。
俺は何をしているんだ。
この歌虫をどうするつもりだ。
またもアルタイ族の恥だと蔑まれる日々を送るのか。
熱を持ち、煙を吐き出す自宅を振り返り、今は次々と浮上してくる自分をなじる己の声を全て噛み潰し、ウッドは走った。
長の家は里の奥になる。
細く、場当たり的に立てられた煉瓦造りの家々のお陰で入り組んでしまっている狭い路地を走り、この里で最も理解ある年寄りの許へ急いだ。
「何も言わんでもよい」
ウッドが傷だらけで里に逃げ帰ってきたあの日、誰もが軽蔑の眼差しを向ける中、ただ長だけがそう言って迎えてくれた。
ウッドが四十五歳で里を出てこの町を訪れた時から何一つ変わらない。長の証だというその地面に着くほど伸ばされた真っ白な顎鬚をくしゃくしゃと弄びながら、綺麗に剃られた頭にちょっと皺を作って彼は笑ってくれた。色々なアルタイ族に出会ってきたがウッドはあれほどに穏やかな者を知らなかった。
――長なら。
そんな思いでウッドは駆け抜ける。
里の誰もが認めている千歳を超える老体はかつて困っていたアルタイ族の者たちの為に、この里を作ったそうだ。
それはウッドが生まれるずっと前にあった戦争で、当時は小さな国がそれぞれ争いを起こしていて、一つ国が潰れる度に多くの若者が路頭に迷った。その頃はまだ若い衆だった長は、何体を集め、岩山をくり貫き、このメノの里を作ったらしい。当時のことを知るのはもう長くらいで、後の者たちは他の町に移住したり、どこかで命を落としたりした、と聞いた。
ウッドが長について知ることと云えばそれくらいだ。見た目の穏やかさに隠れてその懐の深さは全く読めない。本当に自分たちの力になってくれるのだろうか、といった不安も無い訳では無かった。
けれど今はそこしか頼るところが無かったし、何より長のところが駄目だった場合、もうこの里にはウッドの行く場所など無い。ただでさえ里の者たちから白い目で見られている彼が、今はあの歌虫と一緒に居るのだ。受け入れてくれる者などいる筈が無い。それこそ帝国に差し出されて終わりかも知れない。
そういえば昨日のネモを捕まえようとしていた輩は何なのだろう。どう見ても帝国の軍の者では無かった。歌虫の存在を恐れずに捕まえようとする。それはよく考えてみれば普通のアルタイ族からすればおかしな感性だ。そう考え始めるとウッドは胸の中にもやもやとした感覚が広がってきて、戦闘時に感じるような背後から斬りつけられそうな、そんな気持ち悪さを感じていた。
「すみません。ウッドです」
長のシーナはまるで彼が来ることが分かっていたかのように、そっと戸を開けて、ふっと微笑んで「中へ」と迎え入れてくれた。
他の里ではどうなのか知らないが、シーナの家はウッドが住んでいたあの狭い小屋と何ら変わりが無い。眠る場所、食事をする場所、それに多少の空間がある程度で、普段使わないものはおそらく隣に併設されていた納屋にでも入れてあるのだろう。
ここを訪れたことは数度しか無いが、それでもいつも綺麗に片付けられていた。
「綺麗な方が気分が良い」
そんなことを言うアルタイ族は長以外に知らない。それでもその感覚がウッドにはよく分かった。墓に花の種を埋めるそれに、少し似ているかも知れない。
「そこに座るがよい」
ウッドは頭を下げ、シーナの前に腰を下ろす。肩に掛けていた頭陀袋は脇に置いた。
永遠の寿命を持つとはいえ、アルタイ族も千歳を超えればみな体毛は白く変わる。多少は体も小さくなるが、それでも昔のシーナが腕に確かな覚えのある者だったことは、折々に発せられる独特の緊張感から察することが出来た。門番のオッグなど足元にも及ばない。
けれどそんな「強さ」をシーナは決してみんなの前で披露しない。噂ではかつて帝王を目指したこともあるくらいの強者だった、とも云われている。本当のところは分からない。かつての自分だったら一度は手合わせしてもらいたがっただろう。
その抑圧された空気に、ウッドは少し呑み込まれそうになる。
「今日は、その」
「まずはその袋の中のものを出してから、にしないか」
全て見通されているような、そんな居心地の悪さを感じる。ウッドは観念して頭陀袋の口を開けた。
「出てきて、いい」
そう告げると、ネモは最初に頭だけ出しぷぅっと思い切り息を吐き出して、それから驚きの目をシーナに向けた。すぐに顔を引っ込める。
「心配せんでもいい」
シーナはネモを見ても、顔色一つ変えなかった。ネモはその声に恐る恐る再度頭を出し、それから周囲にウッドとシーナ以外の者が居ないことを確認してから、ひょこっと袋から飛び出した。ふわり、と宙に一瞬舞ったが、直ぐにウッドの隣に降り、小さく足を揃えて座った。
「また随分と可愛らしい娘さんだ」
シーナは彼女を見て笑った。それは今までに見せてもらったことのない、何とも温かい香りのする笑顔だった。けれどそれ以上に、ウッドは今しがたシーナが発した言葉の意味を理解出来なかった。
可愛らしい――そんな言葉は大きな都市で読み書きを教える教師が読むような古くて分厚い本の中に出てくる、それこそ随分と古い言葉だったからだ。
「驚かないんですね」
「永く生きてるとそう驚かなくなる」
それはシーナなりの冗談だったのかも知れない。だがとてもウッドにはそれを理解する余裕は無かった。全てに於いて自分の先手をいかれているようで、先ほどから頭の中で警鐘音が続いている。
「その、実は昨日彼女を……」
「拾った、そうだね」
シーナは落ち着いた声で言った。
「はい。どこの里の者か分かりませんが、彼女が捕獲されそうになっていたので助けました」
「その者たちは?」
「一体だけ、逃しました」
「詰めが甘いな」
「申し訳ありません。でも俺は」
咳払いをしてウッドの言葉を断ち切り、それからシーナはゆっくりと言い聞かせるようにして、こう告げた。
「小さな傷は巨岩を砕く」
それはどんな小さな隙も見せてはならないというアルタイ族の格言だった。一度でも傷が入れば、そこから雨水が入り込んで浸食し、やがては巨岩も砕けてしまう。たとえ目の前の者が力なき者、もう殆ど死者同然の相手だったとしても、それを片付けておかなかったばかりに後々己の命を危険に晒す可能性がある。永く生きると種族とは云え、殺されてしまえばそこまでだ。命の危険は出来る限り排除するのが常道だった。
「分かっております。だがしかし」
ウッドはあの者の目を思い出す。怯えたそれ。死を恐怖した者に訪れるあの醜い顔を。
「メノの里に歌虫が居る。その噂が僅か一日で里までやってきた。それをどう考える」
一瞬だけネモに視線を向けたが、彼女は緊迫していく空気に耐えられないようで、ずっと俯いて時折部屋の中を適当に見回していた。
「薪を取りに出かけた者が、見ておったらしい。その者は今、震えて家の中で布団に潜り込んでいる」
ふっと浮かんだのが、口の軽いセダールだった。その枝の先のように細い体を小刻みに震わせて怯えている様が見えるようだ。
「アルタイ族にとってペグ族がどういう存在であるのか」
「それも分かっております」
「ではどうすべきなのかも」
分かっている。
そう。メノの里の者としてはネモを捨てるしか無い。
けれど、とネモの方を見た。まだ右足には包帯を巻いている。この小さな生命体を、彼女を狙っている輩がいるかも知れない外界に置き去りにするなど、今のウッドには出来ない。
しかしそんなウッドの精神状態すら見越しているのだろう。シーナはただ黙っていた。九百年以上もこの里を守ってきた者の、それが里の守り方なのかも知れない。ウッドには量り知れない深謀遠慮があるのだろう。
「俺には……」
「出来ぬ、と言うのだな」
「彼女は危険ではありません」
「それは問題では無い。彼女がアルタイ族では無い。ただそれが問題なのだ」
何を言っても無駄か。
ウッドは諦めて立ち上がる。彼女を再び袋の中に戻るように言い、彼女の入った頭陀袋を背負った。シーナはそれすらも分かっていたようで、止めることもしない。
「俺が、出て行きます」
ウッドはそう言い残し、出ていこうとした。
「昔」
そんなウッドの背中にシーナが独り言のように話し掛ける。
俺は何をしているんだ。
この歌虫をどうするつもりだ。
またもアルタイ族の恥だと蔑まれる日々を送るのか。
熱を持ち、煙を吐き出す自宅を振り返り、今は次々と浮上してくる自分をなじる己の声を全て噛み潰し、ウッドは走った。
長の家は里の奥になる。
細く、場当たり的に立てられた煉瓦造りの家々のお陰で入り組んでしまっている狭い路地を走り、この里で最も理解ある年寄りの許へ急いだ。
「何も言わんでもよい」
ウッドが傷だらけで里に逃げ帰ってきたあの日、誰もが軽蔑の眼差しを向ける中、ただ長だけがそう言って迎えてくれた。
ウッドが四十五歳で里を出てこの町を訪れた時から何一つ変わらない。長の証だというその地面に着くほど伸ばされた真っ白な顎鬚をくしゃくしゃと弄びながら、綺麗に剃られた頭にちょっと皺を作って彼は笑ってくれた。色々なアルタイ族に出会ってきたがウッドはあれほどに穏やかな者を知らなかった。
――長なら。
そんな思いでウッドは駆け抜ける。
里の誰もが認めている千歳を超える老体はかつて困っていたアルタイ族の者たちの為に、この里を作ったそうだ。
それはウッドが生まれるずっと前にあった戦争で、当時は小さな国がそれぞれ争いを起こしていて、一つ国が潰れる度に多くの若者が路頭に迷った。その頃はまだ若い衆だった長は、何体を集め、岩山をくり貫き、このメノの里を作ったらしい。当時のことを知るのはもう長くらいで、後の者たちは他の町に移住したり、どこかで命を落としたりした、と聞いた。
ウッドが長について知ることと云えばそれくらいだ。見た目の穏やかさに隠れてその懐の深さは全く読めない。本当に自分たちの力になってくれるのだろうか、といった不安も無い訳では無かった。
けれど今はそこしか頼るところが無かったし、何より長のところが駄目だった場合、もうこの里にはウッドの行く場所など無い。ただでさえ里の者たちから白い目で見られている彼が、今はあの歌虫と一緒に居るのだ。受け入れてくれる者などいる筈が無い。それこそ帝国に差し出されて終わりかも知れない。
そういえば昨日のネモを捕まえようとしていた輩は何なのだろう。どう見ても帝国の軍の者では無かった。歌虫の存在を恐れずに捕まえようとする。それはよく考えてみれば普通のアルタイ族からすればおかしな感性だ。そう考え始めるとウッドは胸の中にもやもやとした感覚が広がってきて、戦闘時に感じるような背後から斬りつけられそうな、そんな気持ち悪さを感じていた。
「すみません。ウッドです」
長のシーナはまるで彼が来ることが分かっていたかのように、そっと戸を開けて、ふっと微笑んで「中へ」と迎え入れてくれた。
他の里ではどうなのか知らないが、シーナの家はウッドが住んでいたあの狭い小屋と何ら変わりが無い。眠る場所、食事をする場所、それに多少の空間がある程度で、普段使わないものはおそらく隣に併設されていた納屋にでも入れてあるのだろう。
ここを訪れたことは数度しか無いが、それでもいつも綺麗に片付けられていた。
「綺麗な方が気分が良い」
そんなことを言うアルタイ族は長以外に知らない。それでもその感覚がウッドにはよく分かった。墓に花の種を埋めるそれに、少し似ているかも知れない。
「そこに座るがよい」
ウッドは頭を下げ、シーナの前に腰を下ろす。肩に掛けていた頭陀袋は脇に置いた。
永遠の寿命を持つとはいえ、アルタイ族も千歳を超えればみな体毛は白く変わる。多少は体も小さくなるが、それでも昔のシーナが腕に確かな覚えのある者だったことは、折々に発せられる独特の緊張感から察することが出来た。門番のオッグなど足元にも及ばない。
けれどそんな「強さ」をシーナは決してみんなの前で披露しない。噂ではかつて帝王を目指したこともあるくらいの強者だった、とも云われている。本当のところは分からない。かつての自分だったら一度は手合わせしてもらいたがっただろう。
その抑圧された空気に、ウッドは少し呑み込まれそうになる。
「今日は、その」
「まずはその袋の中のものを出してから、にしないか」
全て見通されているような、そんな居心地の悪さを感じる。ウッドは観念して頭陀袋の口を開けた。
「出てきて、いい」
そう告げると、ネモは最初に頭だけ出しぷぅっと思い切り息を吐き出して、それから驚きの目をシーナに向けた。すぐに顔を引っ込める。
「心配せんでもいい」
シーナはネモを見ても、顔色一つ変えなかった。ネモはその声に恐る恐る再度頭を出し、それから周囲にウッドとシーナ以外の者が居ないことを確認してから、ひょこっと袋から飛び出した。ふわり、と宙に一瞬舞ったが、直ぐにウッドの隣に降り、小さく足を揃えて座った。
「また随分と可愛らしい娘さんだ」
シーナは彼女を見て笑った。それは今までに見せてもらったことのない、何とも温かい香りのする笑顔だった。けれどそれ以上に、ウッドは今しがたシーナが発した言葉の意味を理解出来なかった。
可愛らしい――そんな言葉は大きな都市で読み書きを教える教師が読むような古くて分厚い本の中に出てくる、それこそ随分と古い言葉だったからだ。
「驚かないんですね」
「永く生きてるとそう驚かなくなる」
それはシーナなりの冗談だったのかも知れない。だがとてもウッドにはそれを理解する余裕は無かった。全てに於いて自分の先手をいかれているようで、先ほどから頭の中で警鐘音が続いている。
「その、実は昨日彼女を……」
「拾った、そうだね」
シーナは落ち着いた声で言った。
「はい。どこの里の者か分かりませんが、彼女が捕獲されそうになっていたので助けました」
「その者たちは?」
「一体だけ、逃しました」
「詰めが甘いな」
「申し訳ありません。でも俺は」
咳払いをしてウッドの言葉を断ち切り、それからシーナはゆっくりと言い聞かせるようにして、こう告げた。
「小さな傷は巨岩を砕く」
それはどんな小さな隙も見せてはならないというアルタイ族の格言だった。一度でも傷が入れば、そこから雨水が入り込んで浸食し、やがては巨岩も砕けてしまう。たとえ目の前の者が力なき者、もう殆ど死者同然の相手だったとしても、それを片付けておかなかったばかりに後々己の命を危険に晒す可能性がある。永く生きると種族とは云え、殺されてしまえばそこまでだ。命の危険は出来る限り排除するのが常道だった。
「分かっております。だがしかし」
ウッドはあの者の目を思い出す。怯えたそれ。死を恐怖した者に訪れるあの醜い顔を。
「メノの里に歌虫が居る。その噂が僅か一日で里までやってきた。それをどう考える」
一瞬だけネモに視線を向けたが、彼女は緊迫していく空気に耐えられないようで、ずっと俯いて時折部屋の中を適当に見回していた。
「薪を取りに出かけた者が、見ておったらしい。その者は今、震えて家の中で布団に潜り込んでいる」
ふっと浮かんだのが、口の軽いセダールだった。その枝の先のように細い体を小刻みに震わせて怯えている様が見えるようだ。
「アルタイ族にとってペグ族がどういう存在であるのか」
「それも分かっております」
「ではどうすべきなのかも」
分かっている。
そう。メノの里の者としてはネモを捨てるしか無い。
けれど、とネモの方を見た。まだ右足には包帯を巻いている。この小さな生命体を、彼女を狙っている輩がいるかも知れない外界に置き去りにするなど、今のウッドには出来ない。
しかしそんなウッドの精神状態すら見越しているのだろう。シーナはただ黙っていた。九百年以上もこの里を守ってきた者の、それが里の守り方なのかも知れない。ウッドには量り知れない深謀遠慮があるのだろう。
「俺には……」
「出来ぬ、と言うのだな」
「彼女は危険ではありません」
「それは問題では無い。彼女がアルタイ族では無い。ただそれが問題なのだ」
何を言っても無駄か。
ウッドは諦めて立ち上がる。彼女を再び袋の中に戻るように言い、彼女の入った頭陀袋を背負った。シーナはそれすらも分かっていたようで、止めることもしない。
「俺が、出て行きます」
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