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第一章 「悲しみの墓守」

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 小さく上がった水飛沫の音がウッドに意識を取り戻させる。

 ――どこだ?

 瞬時に身を屈め、辺りを探った。
 闇が戻った湖畔は僅かな木漏れ陽で水面の一部が多少の明かりを宿しているだけで、うごめくものが何なのかをウッドに見せてはくれない。
 だが確実に奴らは歩いていた。一体、二体……いや三体。
 茂みから出てきたのは同じアルタイ族の戦士だ。奴らは笑い声をあげ、彼女が落ちた湖面を見つめる。

「……だな」

 ウッドは話し声が聴こえるように、足音に注意してそっと距離を詰める。

「でもどうするつもりだ?」
「歌虫を捕まえて差し出せば、たんまり礼金が出るって話だからな」
「あの歌っての初めて聴いたが、何て言うか……」
「耳障りなだけだろ。それより早くやっちまおうぜ」
「ああ、だな」

 三体の内の二体は水辺で留まり、一番若そうな一体が湖に足を入れた。あまり泳ぎが得意でないのだろう。水を手で掻き分けながら湖底を歩いて進んでいる。
 ウッドは身を潜めたまま、先ほどとは違う意味で震えていた。
 三対一。それも相手は弓を持っている。自分は長い間実戦から遠ざかり感覚も鈍っているだろう。どう考えてもこのまま静かに奴らが去るまでじっとしていた方が安全だ。
 それはよく分かる。
 だが何だ、この胸の疼きは。目を逸らそうとするほどに脳裏に何度も彼女の大きな瞳が浮かび上がる。その小さな口が開いて「た・す・け・て」と呼びかける。

 ――恐い。

 でもそれは命が失われる恐怖とは違う。彼女が奴らに捕まり、どうにかされてしまう。それを見逃してしまうことへの恐れなのだ。
 アルタイ族であれば仲間を盾にしてでも生き残ろうとするのが“らしい”のだが、ウッドは己の芯に芽生えたその思いを消すことは出来なかった。
 手が腰の裏にある柄へと伸びる。
 斬るのか?
 殺るのか?
 もう一つの己が何度も問い掛ける。
 その間にも彼女の許へ奴らの一体がどんどん近づいていく。
 迷っている時間は無かった。
 ウッドは手を伸ばし、一掴みの石を握る。それを思い切り湖面に放ると派手な音が立った。その飛沫が水面に戻らない内にウッドは思い切り大地を蹴り、前傾姿勢のまま畔に立つ二体の許へと駆け出す。
 躊躇ちゅうちょしてはならない。機会はそう何度も訪れない。
 二体ともが湖面の水飛沫に注意を引かれた隙にウッドの剣が届く範囲まで距離が詰まった。
 鞘から抜き出しそのまま一閃。
 返す剣で相手の反撃を打ち払い、そのまま残りの一体の首を落とす。
 おそらく現役時代なら容易い戦闘計画だったろう。だが、
 空振り。
 一瞬の躊躇ためらいが奴らに最初の一撃をかわす隙を与えてしまった。
 左右に散り、それぞれ陸と湖に逃げた二体の間でウッドは次の決断を迫られていた。
 致命的なミスを犯し、このまま戦いを続行するか、それとも一旦引くか。
 右の視界で陸に逃げた奴が脇差を抜く。
 左の視界で片足を湖に突っ込んでいる奴が槍を手に睨んでいる。
 喉元を汗が伝った。
 ウッドは二歩駆けて跳躍し、勢いよく水面に着地する。三メートル近い巨体が落ちた湖面は大量の水を巻き上げ、それが霧となって辺りを舞った。
 その霧がすっかり消えてしまった頃には、もう彼の姿はそこには無い。昔何度か使ったことのある手だった。

「うぁあ!」

 低い呻き声が上がり、湖に足を突っ込んでいた一体の下半身が崩れ落ちる。魚が跳ね回るように激しく水がのた打ち回り、しばらくして頭部の無い体が湖面に一つ、浮かび上がった。

「やられたのか」

 明らかに狼狽していた。
 陸にいた一体は注意深く水面を見つめている。ゆっくりと波紋が広がっているが、死体の他には何も浮かび上がってこない。
 歌虫を捕まえに湖を歩いて中ほどまで行ってしまっている仲間に奴は剣を軽く振って合図する――一旦引いてこい。
 一対一での不利を感じ取ったのだろう。
 けれどもう一体が合流する前に奴の命も失われることになる。
 それは直ぐに訪れた。

「すまない」

 ウッドの呼びかけは奴の背後からだった。
 いつの間にか陸に上がったウッドは振り返った奴の首を一閃し、あっさりとその頭部を切り落とした。毎日磨き上げている大剣は容赦なくそれを二つに分けた。
 殺さなければ殺されるかも知れない。
 アルタイ族にとっては当然の原理だった。それなのにこの胸の空白は何だ。
 ウッドはまた目から雫が落ちるのも気にせず、必死で陸に戻ってこようと水を掻き分けている最後の一体を見やる。じっと見やる。
 握り締めた剣の先からはまだ温度の残る赤い体液がしたたっていた。
 状況もよく認識しないままがむしゃらに戻ってきた一体は、仲間の死体が浮かんでいるのに気づいて言葉を失う。湖から上がろうとして見上げた先にウッドの姿を見つけて、希望を失う。
 生粋のアルタイ族であればこういう時、決して命乞いなどしない。
 帝国図書館で編纂へんさんされている歴史書の中にはこんな一説がある。

 ――『アルタイ族は覚悟の民である』と。

 何をしても生き延びることが出来ない。そう悟った時は玉砕覚悟で相手に突っ込んでいくのが、真のアルタイ族だというのだ。
 だが目の前の奴は武器を湖に放り投げたかと思うと、頭を抱え込んで命乞いをした。

「お、お願いだ。頼む。見逃してくれ」

 その様を見下げ、ウッドはただ黙っていた。

「まだ……死にたくないんだよ」

 なんて情けない声を出すんだ。おそらく百五十年前のウッドなら迷いなく一刀のもとに殺していただろう。
 だが今は異なる。柄を握り締めていた手の緊張は解け、大地にその切っ先を突き刺した。
 無言のまま目を閉じる。

「い、いいのか?」

 その確認に静かにうなずくと、ばたばたと遠ざかっていく足音を聞き終えるまでウッドは己が今した行為について深く考えていた。
 見逃した? いつか奴が自分を殺しに来るかも知れないのに、将来の危険な芽をむ機会を自ら手放してしまった。それどころか、本来なら最初の一撃で一体を仕留めなければならなかったのに「殺す」という行為に躊躇したばかりに己の身を危険に晒してしまった。やはり俺は……。
 そこまで考えてウッドは彼女のことを思い出す。
 突き刺した剣はそのままに湖に飛び込んだ。巨大な飛沫が上がり、大男が両手を振り回して泳いでいく。
 泳ぎは元々得意だったが帝国での訓練でより洗練された。先ほどの水底を静かに泳ぐ技術もそこで学んだものだ。

「大丈夫か」

 湖の中ほどに浮いていた小さな彼女を両掌ですくい上げる。
 大きく黒い宝石のような瞳は二度、瞬いた。

「恐がらなくていい。何もしない」

 けれど彼女にはそれが分かっているのか微笑を浮かべた後でこう返した。

「勿論」

 それがウッドと彼女との出会いだった。
 この出会いは彼の人生を大きく変えた二度目のものとなり、自身の起源に迫る永い永い旅路の静かな始まりとなったことは、ずっと後になって彼が己の人生を振り返った時に分かったことだ。
 だが当然、彼はまだ彼女の名すら知らない。
 その歌の意味すら知らない。
 自身の存在の意義も知らない。
 何一つ、知らないに等しい。
 けれど知らなくても分かることがある。それを誰かは「予感」と呼んだ。
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