お隣さんはヤのつくご職業

古亜

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吉崎さんサイド(黒いあれ)2

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ただ床を叩く音だけが脱衣所に虚しく響く。
……しまった。
冷や汗が頬を伝う。

「あの、倒せましたか……?」

床を叩いた音を聞いたらしい嬢ちゃんがちらっとこちらを覗いていた。
ゴキブリなんてその辺にいる。倒した、と言ってとりあえず誤魔化すのは簡単だが、さすがにそんなことを言えるわけもない。

「……悪い。逃げられた」

そう言うと嬢ちゃんはわかりやすく体を震わせて自分の足元を必死の形相で足元を確認した。

「え、え……どこ、どこに逃げたんですか?」
「洗濯機の裏だな。嬢ちゃん、殺虫剤持ってるか?」
「マースジェットしかないですけど、あれ蚊とかハエ用じゃ……」
「一応ゴキブリにも効く。持ってきてくれ」

嬢ちゃんはこくこくと頷いてすぐにそれを取ってくると、よっぽど怖いのかしきりに床を気にしながら戸の間から手をギリギリまで伸ばして殺虫剤を差し出した。

「あの、どうにかなりますか?」

不安そうな声が戸の向こう側から聞こえてくる。こんなことなら余計なことを考えるんじゃなかったな。いや、あれは不可抗力か……?
というか嬢ちゃんはまだ気付かねぇのか。正直それが頭にチラつく限り集中できる気がしない。
雑念のせいでさっき失敗して、同じことを繰り返す気がする。
落ち着け、俺。とりあえず受け取った殺虫剤はちゃんと重いから中身は十分ある。
これで外に出て来させて叩くしかねぇな。

「すみません、なにもできなくて」
「苦手なら仕方ねぇよ。なんとかするから俺の部屋で待ってろ。でもそんなにすぐには終わりそうにないな。倒しとくからその間に風呂でも入っとけ」
「いやでも、吉崎さんに悪いですし、それにそもそもそこにあれがいるんですよね」
「明日も仕事あるんだろ。俺の部屋の使えよ。元々入ろうとしてたんだろ?」
「まあ、入ろうと……ん?」

とりあえず嬢ちゃんにはいったん離脱してもらいたい。そう思って言ったんだが、それで嬢ちゃんはようやく自分の格好に気付いたらしい。
なんとも言えない声が聞こえてくる。

「そそそ、そうですね!お言葉にに甘えさせていただきます!」

明らかに動揺しながら嬢ちゃんはバタバタと動き回り、逃げるように俺の部屋に飛び込んでいった。
……まあ、動揺しまくってたのは俺もだが。
とにかくこれで落ち着ける。正直あの格好の嬢ちゃんと同じ空間にいるよりはゴキブリと同じ空間にいる方が集中できる。
息を吸って集中する。嬢ちゃんにゴキブリ1匹退治できない男だと思われたくはない。
殺虫剤を隙間に噴射して洗濯機から距離を取ったが、静かなままで何も起こらない。他の場所に逃げたか?
他の隙間にもまいたほうがよさそうだな。
洗濯機と隣接していてゴキブリが隠れられそうな空間。
目に留まったのは洗濯機の横に置いてある洗濯カゴだった。この裏か?
裏側に噴射しようと隙間にノズルを近付けると昨日の分らしき洗濯物がカゴに放り込まれているのが目に入った。特に見るつもりもなく咄嗟に目を逸らしたが、今度はさっきの嬢ちゃんの格好がちらついて手が止まった。
……女の下着程度で普通ここまで揺らぐか?ほとんど裸に近い格好の女は何度か見たが、特に何も感じなかったはずだ。
落ち着け、たかが下着だろ。まるで俺が変態みたいじゃねぇか。
カゴの中身からは目を逸らしつつ、裏側の隙間に殺虫剤を噴射する。
少し離れて耳を澄ましてしばらくすると、苦しんでいるような羽音が隙間から聞こえてきた。
やがてそのそと緩慢な動きでやつが這い出してくる。
洗濯カゴの前、これを叩けば駆除完了だ。
……だが、そいつを見ようとすると不可抗力でタオルの間から覗く下着が目に入る。こっちは黄緑か、なんてアホな事に気付いている場合じゃねぇのはわかるんだが、俺にとっちゃ正直ゴキブリよりも目を持っていかれる。
どうしてこんな女の下着程度で動揺しちまうのか。そりゃあまあ当然、それが嬢ちゃんの、梓のものだからで……って、何を考えてんだ俺は!
まさか俺にここまで女々しい部分があるとは思わなかった。
勢いのまま手を振り下ろして叩き潰す。硬いものが潰れた感覚が手袋越しに伝わってきた。
思ったよりも早く片付いたな。
手袋をひっくり返して内側にゴキブリを入れ、口を結ぶ。それを自分の部屋のゴミ箱に捨てに行くついでに除菌シートを数枚手に取った。
静かな部屋の中で微かにシャワーの音が聞こえてくる。さっきは勢いで使うように言っちまったが、女物のシャンプーなんて置いてなかったな。そもそも女に使わせる予定もなく、まさか嬢ちゃんが……だから、俺は何考えてんだ。
頭を振って浮かんだ妄想を振り払う。
嬢ちゃんの部屋に戻って持ってきたシートでゴキブリを潰した場所を拭き取る。ついでに別のシートで床全体も拭いておいた。
やがて風呂場の扉が開く音がした。できるだけ聞かないように適当なテレビを付けていたが、途中アナウンサーが何を言っているのかさっぱりわからなくなる。
しばらくして、嬢ちゃんが出てきた。

「あの、シャワーありがとうございました。それに退治も、吉崎さんがいなかったら今頃大パニックでした」
「別に構わねぇよ。ちゃんと潰してこっちに捨てといたから安心しろ」

そう言うと嬢ちゃんは心の底から安心したような顔でぺこりと頭を下げる。

「みっともないところお見せしてすみませんでした。あれはその、昔エアコン付けたら目の前に飛び出してきて、それ以来トラウマで……」

確かにそれは怖くもなるか。
冬場だからしばらくは出てこねぇと思うが……またはしばらく御免だな。まあ、出てきた場所にもよるが。
ちゃんと倒せたからよかったが、あのまま逃していたら俺はただの変態になっちまう。

「嬢ちゃんが安心したならいい」

嬢ちゃんは冬らしいフリースのパジャマを着ていた。見慣れているはずのその格好でも、どうも直視するのが憚られてついテレビの方に目をやってしまう。

「明日も早いんだろ?あれも退治したんだから寝とけ」
「はい、本当にありがとうございました。明日たくさんプリン買ってきますね!」

嬢ちゃんは安心しきったのか屈託なく笑う。
確かに20個でも買ってくるとか言ってたが、一気に買うものではないと思うぞ。
まあ、これがいつもの嬢ちゃんか。

「じゃあ、おやすみなさい。吉崎さん」
「ああ……おやすみ」

おやすみは初めてだったような気がして、妙な間が空いてしまった。だが嬢ちゃんは特に気付いていないのか笑顔のまま出て行った。
ポスターが元の位置に戻り嬢ちゃんの姿がすっかり見えなくなったところで俺は大きく息をはく。
その時だった、嗅ぎ慣れない、湿った甘い香りに気付く。
俺の使っているシャンプーは匂いの付いていないやつだ。それなのに、なぜか嬢ちゃんが通り過ぎたあとにはほのかに甘い匂いが残っていた。
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