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2章 巌窟の悪魔
31 鯵ヶ沢露樹
しおりを挟む鯵ヶ沢露樹。
彼女には才能があった。
満たされない才能。顧みない才能。心に留めない才能。
それらは彼女を現代における最大の悪に結実させるに十分に足る要素だった。
さて、ここにおける悪とは何だろう。
善の対比。善の欠落。
道徳を持たず、争いや苦しみの根幹を為す悪意の在り方を指すこともある。
古き日本においては、悪という言葉の側面に剽悍さや力強さといった要素が見いだされることもあった。
時に、突出した才能、或いは体制に従わぬ屈強な精神ともとられるこの悪という言葉。
彼女にとってはどんな意味を持っていたのだろうか。
彼女は神を信じていない。認めていないのではない。認識してはいるが、それを神とは思わない。
故に信仰はなく、彼女の行動の理念は一貫して彼女の中の秩序によって齎される。
無論、法の裁きや加護を蔑ろにしていたわけではない。日本国民として生を受けて以来、現実世界において彼女はただの一度の盗み、傷害、詐欺、ひいては暴言から悪口までもを吐いたことはないのだ。
裕福な家に生まれてなお捻くれず、高潔で純粋な生き様を見せてきた。芸術や音楽に才を持ち、それでも名声は求めず探求心に満ち溢れ、学業においても秀でた成績を誇った。明るく人を差別しない人柄から彼女の周りを常に良き友人が取り巻き、何か困ったことがあれば我先にと手を貸してくれるような人望が彼女にはあった。
誰もが羨み、それでも嫉妬するには至らない羨望の対象。現実世界の彼女はまさしく清廉潔白な淑女であった。
では、裏の世界の彼女の顔はどんなものだったか。
一般に別解犯罪として畏れられる暴行、傷害、脅迫、恐喝、殺人、強盗、放火、強姦。その全てを完璧なまでに体現した犯罪者であった。
人を謀ること、欺くこと、辱めることに躊躇なく、他人の気持ちを顧みることなく奪うことに執着する。
命を奪い、尊厳を奪い、精神を奪う。眼に付く全ての存在を排斥し、滅ぼす。夢想世界で邂逅を果たしたありとあらゆる存在を無慈悲に鏖殺してみせた。
彼女には精神的な欠陥があったのか。―否。
何者かに向ければ自我を保てぬほどの鬱憤があったのか。―否。
他者を傷つけることに大儀があったのか。―否。
彼女が他者に向ける攻撃は純粋だった。故に留め置く余地がなかったのかもしれない。
他人を傷つけている自覚はあれども、それは自分のためでなく、人のためでなく、ましてや悪意に裏付けられているためでもなかった。
では、なぜ彼女は犯罪を続けたのか?そうしなければいけない理由があったのか。
そんなものはない。そこに意味はなく、意思もないのだ。
悪の自覚なしに悪事を働く。彼女は自分自身の意思で確かに人を欺き、奪い、殺すが、それは自分の認識の中で悪にはなっていなかった。
精神的な疾患があったわけでも、根っからのサイコパスの素養があったわけでもない。
彼女における自然体こそが奇しくも人間の世界における悪の概念にマッチしてしまっただけなのだ。
言うなれば彼女は人間世界における相対悪。そして【自然悪】を実現させた逸材であった。
歴史に名を名を残してきた大犯罪者の中にもこの自然悪を持っていたものは稀である。大きな悪を為す人物には、ある時には大儀があり、ある時には覆せない精神の病があり、ある時には逃げ切れない怒りや恐怖という感情に強制された末の動機がある。
無意識に人を殺すというのもまた、自然悪とは異なる。悪は認識の外にあっては自然性を欠く。
神にも法にも叛逆する意志はなく、ただその在り方が人間のルールの外を往く。
それが夢想世界における唯一の自然悪の体現者である鯵ヶ沢露樹という人間だった。
悪行三昧の暮らしをしていた露樹だが、そんな彼女をTD2Pが認識することはできなかった。夢想世界において、彼女と接触した存在は例外なく精神的な欠損を負う。そのレベルは並みの悪魔の僕から生み出される被害の比ではない。夢想世界で彼女に手に欠けられた者は現実世界において廃人化や突然死が余儀なくされ、誰一人として彼女の目撃情報を他者へと伝えることができなかったのだ。
都市伝説にすらならない死神の存在は、夢想世界で暴れる悪魔の僕の存在も相まってその存在を世間に知られることはなかった。運命のような邂逅を果たし、自然悪を為す。これまでにどれだけ多くの人間を手に欠けてきたかは定かではないが、甘く見積もっても彼女の手によって生じた現実世界の人的損失はカテゴリー4の悪魔の僕と遜色がない程度だと推察されている。
そんな彼女を捕らえたのは、ボイジャーの訓練士として運用試験を行っていたTD2Pのガブナー雨宮だった。
彼はボイジャーとしての実動研究も兼ねて夢想世界での過度なロードワークの耐用値測定に駆り出されており、持ち前の異常な水準の耐精神干渉性能を買われて当時から、TD2P管理塔の捜査部が行っている調査任務に当てが割れることが多かった。その日の彼の任務内容は一つ、夢想世界で登録されていた凶悪な悪魔の僕が姿を眩ませたことに対する捜査だった。
捜査対象の悪魔の僕は"巌窟王"と呼ばれ、その正体は現実世界の拘置所に収監された屈強な死刑囚だとされていた。巌窟王は自身に課された現実世界での死刑宣告を冤罪による横暴だと強く主張し、その冤罪の恨みを晴らすべくして体制への反骨と復讐を夢見たカテゴリー3の暴れ者だった。岩窟王の生成する固有冠域は何度も観測されていつつも、現実世界で死刑が決まっている存在であるという点から対処の優先度は低く見られていた。だが、しばらく放置するうちにその所在が掴めなくなり、もっとも直前に観測された固有冠域の座標を元に、巌窟王程度では傷一つ負うことがないだろうと思われたガブナー雨宮が派遣されたのだ。
そして、現場に到着したガブナー雨宮は当時、大いなる瞠目と絶句を禁じ得ない光景を目の当たりにしたという。
大の大人が全身を無様にひしゃげさせ、年端もいかない若い女に喰われている。
喰われる、というのは物の喩えではない。肢体を捥ぎ、体液を頭から被り、無邪気に口元に人肉をくっつけながら、鯵ヶ沢露樹はむしゃむしゃと岩窟王の亡骸を節操なく食い荒らしていたのだ。
あろうことか、彼女がガブナーと視線を交わし、幾何の沈黙が続いた後にようやく周囲に展開されていた巌窟王の固有冠域が解除されたのだ。その状況からガブナーの脳内にて導き出された解は一つ。今、目の前で死肉を貪っている悍ましい生娘が、悪魔の僕である巌窟王を打ち破り、巌窟王を最強たらしめる固有冠域の中で悠々と食事を実現させてしまったいるという現実だった。
その後、ガブナー雨宮は死闘を繰り広げた。持ちうる耐用値の全てを焼き切らせ、対峙する鯵ヶ沢露樹を拿捕したという事実に対し、彼の性能を評価する技術者たちは信じなかったという。世界最高水準の耐用値を持ち、それのみを存在意義に据えた失敗作であるガブナーの性能不足は、他者には到底呑み込めなかったのだ。観測や記録を残すことすら叶わなかった激闘の仔細を訴えるガブナーだが、現実世界で居場所を突き止めた際に発見された清廉潔白な女性が必死に自身の冤罪を訴える姿が広まり、かえって彼の信頼性を低下させる要因となった。
そんな彼の発言を全肯定し、常に自身の潔白を訴える露樹を佐呑島で収監することを強行したのはボイジャー:キンコル号だった。元より強い信頼関係のあったガブナーの訴えをキンコルが疑うことはなく、かえって今後必要となる儀式の最大のキーパーソンとして彼女を利用することを目論んだ。
同時にガブナーの身元を引き受ける形でボイジャーの失敗作として扱われていた彼を佐呑支部へと登用し、自身の右腕として重宝した。夢を持たず、それでいて最高水準の耐用値を誇る彼の存在は、獏の運用をこの世で最もスムーズに実行できる人材であることを疑わないキンコルの先見の明が所以だろう。
―――
―――
―――
「お父さん……お母さん……辛いよぉ…苦しいよォ」
佐呑に深く穿たれたすり鉢状の地底監獄。螺旋に下降する監獄塔の中層において、四畳半の独房の中央に身を埋めた露樹は大粒の涙で貌を濡らしていた。
「お腹減ったよぅ」
心優しい乙女は、自身の困窮に喘いだ。
「なんで…こんなことに……私……何もしていないのに………もう…嫌だ」
消え入るような声音を残し、彼女は眠りにつく。獏の力により完全に制御されていたレム睡眠へ至る過程が、佐呑の動乱を経て再び拓かれる。
心が沈むようにして四畳半に設えられた簡素な床に馴染む。心の隅々までもが融解し、夢の世界へと自身の偶像を送り込む。
世界が反転し、心地良い酩酊感が襲う。至福の甘い香りが鼻腔を満たし、辺りに茜色の明滅が刺す。
その身が泡となり、渦となる。深い深い眠りの中に意思を委ね、何にも縛られなることのない世界との接触を果たす。
(ああ……気持ち良いや)
心に幸福が満ちる。もうここには、行く手を阻む鉄格子も、自身に嫌がらせをする悪人たちもいない。
奈落へ委ねた身の元に、一匹の生き物がとことこと寄ってきた。見れば、見覚えがあるようなないような不思議な色形の哺乳類らしきそれ。鼻が不細工で、鳴き声がもっと不細工な様を見て、露樹は思わず笑みを漏らした。
「なぁに。君。どこから来たの?」
丸っこい動物の体毛を撫ぜ、猫を愛でるような甘い声を漏らした。
動物はじっと露樹を見つめ、時折、木製の古びたドアを開け閉めした時のような軋んだ鳴き声を上げた。
「可愛いねぇ、可愛いねぇ。食べちゃいたいくらい」
露樹は体毛に埋めた手にゆっくりと力を注いでいく。やがて、動物が動揺して動きを荒げる。その瞬時に露樹は思い切りその動物の頭を握りつぶし、爆ぜた脳の欠片をもう一方の手で捉えて口に手早く放り込む。数度の咀嚼。喉を滑り落ちる脳髄。
「味も良い。ホント、美味しい」
口を丸っこい胴体に密着させ、次の瞬間には大胆に皮ごと肉を食い千切る。出血溢れる傷口にキスするように貌を密着させ、喉を鳴らしながら謎の生き物の生き血を啜った。
漲る高揚感と幸福感。どれだけ上等なワインを片手に贅を尽くされた高級料理店のフルコースを堪能したとしても、今この場の血肉に勝る幸福は得られないと彼女には断言できた。空腹を満たすに留まらない溢れ出る活気。心の底から叫びたくなるような、とてつもないエネルギーが喰らった肉を通して彼女の心臓に絡みついてきた。
なおも落ちて行く奈落の中、もうじき夢想世界へと突入すると言った頃に変化は起きた。
露樹の身に悪魔的な変貌が訪れる。
それがどこか寂しくもあった。本当なら眠りについたあと、思う存分に夢想世界を堪能したいと思っていた。
だが、それがきっとできないのであろうという予想が露樹の脳裏に過る。自分がこれから、これまでとは異なる生き物へと変わろうとしているということが理解できた。貌が、毛が、指が、目が。全てが塗り替えられていく。
トリガーはきっとあのヘンテコな生き物を喰らったことだろう。とても美味しかったから、食べたこと自体に後悔はない。
暫くすれば、不安は期待へと転じた。
溢れ出る無限の活力。備わった新たな骨格。そして何者をも見下せる圧倒的な存在力を手にしてしまった。
この体があれば、きっと自分の夢にも正直でいられる。
彼女の胸が希望で膨らむ。
鯵ヶ沢露樹。
ガブナー雨宮曰く、最悪の化身、万悪の体現者、現代を生きる悪神。
自然悪を成した史上最も揺るぎない悪の在り方を示した彼女の夢。
それは"魔法使い"だった。
今、もはや誰の手にも狩ることができない魔女が誕生した。
白と黒の曖昧な境界のみの世界。選ばれた者たちが集った歪な繭の中に魔女は胎動した。
新たな世界を生み出すため。新たな生を勝ち取るため。
悪魔であり、魔女である、ただの人間、鯵ヶ沢露樹はそうして繭を突き破り、晴れて世界との邂逅を果たす。
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