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I.危機と恋心

麦畑‐これからどうするか‐

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「アルゼレア。ちょっと二人で話をしたいんだけど、良いかな?」
 青白く晴れた空の元で僕はアルゼレアに声をかける。彼女は庭のホースから水を出したままで驚いて固まっていた。けど、しばらくしてから小さく頷いてくれた。
 カフェも図書館も無い田舎だ。でも秘密話をするにはうってつけの場所がある。
 アルゼレアを後ろに連れて、僕はクオフさんの家から少し離れた麦畑の前に来た。
「椅子とか無いんだけど、ごめんね?」
「平気ですよ」
 景色だけは抜群で風も吹きっさらしだけど。僕らの話を隠れて聞けるような壁も何にもない。
「その本のこと知りたいんだ」
 この時もアルゼレアが大事に抱えていた本だ。話題にするといつも離したくないとギュッと抱きしめている。
「君から本を取り上げようとかは考えていない。でも本当にそれが危険な物なんだったら、僕は君のことを守りたいんだ」
 俯くアルゼレアに僕の気持ちが伝わってほしい。
「偶然三回会えたぐらいで信用してほしいって言うのはちょっと無理があるかなって自分でも思うよ。知らない男だし、ひと回り年上だし、物騒な世の中だ。クオフさんもすごく心配していた。でもね。僕は君の勇気がすごいものだって本当に思っているんだ。君の望みが叶うように本当に願ってるよ。僕は君の助けになりたい。アルゼレアのこと、ちゃんと理解して支えてあげたいって思ってる」
 そっと風が吹き抜けた。
 以上で僕のお節介をどうか受け入れてくれたらと熱の入る言葉だった。
 今日のために一度紙に起こして練習してきたものだ。そうじゃないと上手く気持ちを伝えられない。
「……ええっと」
 静かな時間が訪れていた。僕だけが何か言わなくちゃと焦っている。
 僕の気持ちを伝えたはずなんだけど、アルゼレアの反応がイマイチでどうしたら良いのか分からない。
 いや、アルゼレアは何事にもあまり大きな反応しない子だったけど、今回のこれはちょっと困ってしまう。
 麦の葉が優しく揺らされている。風に運ばれて挨拶の声が聞こえたかと思ったら、畑の様子を見に来た人が現れていた。
 寒さを労う言葉をかけて去っていく人に僕は少し会釈を送った。
 再び無言になるし、アルゼレアも俯いたままだ。
「えっと、どこまで話したっけ」
 僕は最悪すぎる。
「と、とにかくね。僕が言いたいことは」
「大丈夫です。分かりました。話します、私のこと」
 ようやくアルゼレアが顔を上げてくれた。
「そ、そっか。ありがとう……よかった」
 僕は強張っていた顔の力が緩んでいく。とりあえず、ひとつ関門は超えられた。

 クールな彼女はその後も笑顔無く真面目な顔で話をしてくれる。
 一応は僕のことを少し信じてくれたのだと思う。生まれ国の話や家族のことを教えてくれるから、そうなのかなって僕は思った。
 だけど一番感情が現れやすい表情や喋り方には、これといって彼女に変化があるわけじゃない。
 むしろその逆で若干緊張の念が垣間見得ていた。
 例えば、絶えず体のどこかに力が入っていたりする。喉の開きが悪くて時々声を詰まらせる。そして度々彼女は俯いた。
 僕があまりに熱烈に説得するあまり、過度なプレッシャーをかけてしまったのかもしれなかった。
 それか僕のアプローチが何かまずかったのか……後者で無いことを祈るしかないんだけど。
「これだけの麦が育つと何日分のパンになるんだろうね」
「……」
 そしてこういう時に限って、また僕がお喋り下手なのが隠せない。
 今更だけど「男の人が苦手だったりする?」なんて。デリカシー違反に引っかかりそうなことは口に出しづらいし。
 今はジャッジの何でも軽々言い出せる度胸を少し借りたいくらいだ。
「……」
「……」
 麦畑と同じ動きで揺れるアルゼレアの赤髪。ぼんやりとそれを眺めて僕は息をついた。
「……本のことなんだけどさ」
 アルゼレアの緊張を解くのを諦めた僕は、二人が凍えないうちに本題を切り出すことにした。
「いつトリスが書いたものだって分かったの?」
 また本にギュッと力を入れてからアルゼレアは答えてくれた。
「最初はお屋敷からトラックに乗せて一気に運んだから知らなくて、本棚に戻す時にこの本と……もう一冊違う本を見つけたのがきっかけです」
「もう一冊?」
「トリスさんの日記」
「日記!?」
 アルゼレアの言葉を復唱するしか驚けない僕だ。最後のひと声は向こうの山に少しだけ反復した。
 そしてアルゼレアに耳打ちするようにして問いかける。
「生物兵器のことについて書いてあったとか……?」
 対して彼女はすぐに首を横に振った。とりあえず僕はホッとした。でもだいぶ心臓に悪い瞬間だった。
「そうか。警察はその本と合わせて日記も探しているのか」
「違います。日記の方はもう警察の人が持っています」
「え? そうなの?」
「はい」
 目を伏せたアルゼレアだったけどすぐに続けた。
「日記にトリスさんとご友人とのことが書かれていたので、レイヴェル城でそのご友人と話をしてきたんです。日記も本もご友人に渡してきた後で、私が警察の人に捕まってしまって。それで禁錮されていたらご友人が日記と引き換えに私を出してくれて」
「ちょ、ちょっと待って。ちょっと待とうか、一回」
 アルゼレアは話の途中で黙った。
 確かに僕がストップをかけたんだけど、やっぱりもう一度話してもらわなくちゃいけない。
「な、何だって? 禁錮? 君、捕まってたの!?」
「はい。捕まってました」
 悲観していいところだと思うけど彼女は変わらないテンションで言った。怖くなかったかと聞いたら「平気です」と答えていた。
 詳しいことを聞けば、トリスの関係者だと思われていて捕まったらしい。アルゼレアは二ヶ月ほど刑事的な個室に居たと言う。
 ちょうど僕の元職場で看護師らがアルゼレアのことを「りんごちゃん」と呼んで話していた頃になる。
 ロマンチックな再会なんて起こるはずがないと断り続け、先生は現実的過ぎますとも言われた僕でも、さすがにそんな事態になっていたとは考えも付かないよ。
「レイヴェル城にご友人は住んでいたの?」
「あ、はい。レニーさんと言います」
「へ、へー……」
 親しい人を紹介してくれるみたいなのが、僕を複雑な心境に追いやった。
 アルゼレアの疑いを晴らしたのがご友人とかいう人。トリスの友人。レニーさん。
 そんな人とすぐに会いに行けるなんて、やっぱりこの子は肝が据わっているというか。ちょっと無謀っていうか。
「……ちなみにお宅訪問はひとりで行ったわけじゃないよね?」
「ひとりです」
 やっぱり肝が据わっている。怖いもの知らずだ。恐ろしい。
 僕が身を震わせていたらアルゼレアは「あの、話していいですか」と顔を覗いてきた。
「私がどうしてもこの本を解読したい理由なんですけど」
 クールな真顔だけど、どこか神妙さを感じ取って僕は少し背を正す。
「うん。聞くよ」
 アルゼレアは二回瞬きをしてから話した。
「レニーさんとトリスさんは同じ研究所にいた親友同士です。そしてお二人は、どっちが偉大な研究者か競い合っていたみたいなんです。レニーさんが言うには、この本がトリスさんの集大成なんじゃないかって」
「レニーさんは本の文字が読めたの?」
「いいえ。読めないけど『彼らしい』って言ってました。『是非とも内容を読んでみたい』って」
 言いながら愛おしそうに表紙を撫でている。そんな黒レースの手袋を僕は見下ろしている。
 この本に隠された内容が、とある親友の絆を繋ぐ素晴らしいものかもしれないということは理解できた。でも僕は納得がいかなかった。
「これを、君が解読しなくちゃならない理由にはならないよね」
 僕からきっぱりと言う。
 本を撫でる手の力が抜けて、そして止まった。
「トリスとレニーさんの問題なんだったら、彼らで真相を確かめれば良い。君は本の解読を頼まれたの?」
「……はい。レニーさんに」
「ならもっとおかしいよ。君は無関係だったはずだ。それをさらに巻き込むなんて。レニーさんも危険だって知っていたはずだろう?」
 気持ちが入るとまた強く説いてしまう。
 込み上がっていた「本は捨てるべきだ」という文言も、喉元で今か今かと暴れていた。だってレニーさんとか言う人が勝手過ぎる。
 カッとなった頭は寒風では冷ませられずに、僕はそのままの口調で続けてしまった。
「君も君だ。もうちょっと自分の行動に慎重になるのが大事だ。フェリーに乗り込もうとするのもそうだし、ひとりでレイヴェル城に行ったのもそう。とても危ないことをしているんだよ?」
 これを受けてアルゼレアが苦笑を浮かべてくれるはずもない。しっかりと落ち込んで下を向いてしまうだけだった。
「ごめんなさい」と素直に謝るアルゼレアに、僕からは「本当だよ」とたいへん大人気ない追撃をしてしまう。


(((次話は明日17時に投稿します

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