上 下
161 / 172
lll.クランクビスト

国議長の罠2

しおりを挟む
「取り引きだろう? 俺が判を押さなければどうなる?」
「そうだ。代償が必要だったな。すまない、こちらは話し合いに慣れていないのでね」
 全くそのようだ。取り引きに「代償」という物騒な言葉を使ってくる。
「なあに。失うものが増えるだけさ」
 レッセルは実に簡単に言った。そしてルイスに片手を差し出して何かを受け取るようだった。
 命令が出されずともルイスが自身の胸元を探って物を取り出している。
 ひょいとレッセルの手に渡る物を目で追っていると、それが身分証であることが分かった。
 まさかいつの間に抜き取られたのかと内ポケットを触るが、ちゃんと俺の身から離れずある。
「偽装の身分証で国を跨いでもらっては困るんだがね」
 レッセルは表紙を開いて、俺にも見えるよう空中でヒラヒラと仰いだ。
 それは適当な国籍と名字を与えたエセルの身分証だったのである。
「なぜお前が持っている」
「取り引きに使うからだ」
 当たり前だろうと言われた。
「この女の命と引き換えだ。もちろん居場所も分かっている。今は少し道案内に付き合わせているところだ」
「道案内?」
「そうだとも。彼女からベンブルクに協力してくれると言い出してくれたのでな」
 レッセルはエセルの身分証をじっくりと眺めた後、もの言わん俺の元へと投げつけた。
 それは肩のところに当たって力無く絨毯の上に落ちていった。
「喧嘩別れの後に裏切られるとは辛いなぁ」
 同情するにはそぐわない態度だ。
「その書類に今すぐ判子を押してくれるなら命だけは取らないでおこう」
「判は押さん。居場所のみ教えろ」
「ふん。冗談だと思われているらしい。ならば先に見本を見せてやろうか」
 俺が床の物も拾えんうちにレッセルが短銃を手に持った。
 その銃口は俺ではなく、側のルイスの頭部へと向けられたのだ。
 無論、ルイスは自身の命の危機にも動じていない。
「惚れ込んだという主人のために死んでみろ」
 銃を握る指が動く。
「やめろ!!」
 ダンッ!! と、弾けるような音が鳴った。
 銃弾はルイスの後ろを通過して本棚に穴を開けていた。
 レッセルが銃声と同じでかい声量で笑い声を響かせる。
「やめろだと? ハッハッハ、賢明だな。この男もまだまだ使える」
「ふざけるな……」
「おいおい、こちらは大真面目だと分からせたかったんだぞ。そのために弾を無駄にしたのだ」
 まるで勿体無いとでも言うように火薬が空になった弾殻を眺めている。
「どこまでも下劣だ」
 俺の言葉にレッセルは「ん?」と呑気な声を出した。
 その目だけで見上げて俺が睨むのを確認すれば、怯むどころかますます嬉しそうに歯を見せる。
「次はアルゴブレロの脚だけでは済まさんつもりだ」
 それを言った後は、再び誓約書類を爪で二回ほど突いて示してきた。
 あとは短銃に込める弾を選び取るという内職に没頭された。

 ルイスに視線を送ったとしてもヤツからは何も返しては来ない。
 レッセルは完全に視線を伏せていて手先のことに集中している。何かしら行動を起こせるチャンスだとは思うが、護身用の短剣では明らかに敵わない。
 どうにかヤツを欺いて脱出しなければと、書斎の至る場所に目をやって可能性を探っている。
 しかしそんな考えもありきたりだ。
 殺されかけても無表情でいられたあの機械兵士には全て筒抜けなのだろう。
「思考材料に貴様の兄の話を聞かせてやろうか」
 無口であったレッセルが突然喋り出した。机の上にひっくり返した弾箱から、ある程度の良品を選び終えたらしい。
 それで口が寂しくなったのか、こちらは欲してもいないのに兄アレンのことについてのうのうと語られる。
「隠居国と称するのにはセンスがあると貴様の兄が褒めていたぞ。だが、政治に置いては使い物にならんとも言っていた。この数年間、貴様の兄が国を出てから何をしていたと思う?」
「知るか」
「やはり聞かされていないのか。哀れな弟なことだ」
 知りたいと思わなくてもレッセルは告げてきた。手元を動かすついでに口も動かす程度の、心のこもっていない声でだ。
「あの男は渡り歩いた先の国で、自分の祖国を売って回っていたのだ。なのに誰の手にも渡らずに帰ってきたのは何故だと思う。旅の途中で祖国への愛着を思い出したからか。……違うな。あんな戦意の無い辺鄙な国など誰も欲しがりはしなかったからだろう」
「……」
 さらに言う。
「貴様の兄はそれと同じ書類を母親の元へ持って帰った。終戦後は判子を押した書類が戻ってくる。これであの者も呪縛から解かれるというものだ。貴様も兄を見習って、同じようにメルチの念から解かれたら良い」
 意識がここに無いとレッセルはベラベラと語れるようだ。
 レッセルは大きなあくびをしていた。喋り疲れたのか、つまらなくなったのか、どちらかだろう。
 しかしその時、足元に軽い揺れが走った。
 地面に足を付けている俺やルイスは当然その揺れを感じた。
 クッション性のある椅子に座るレッセルでも感じられたらしい。あくびの途中で口を開けたまま部屋内を見回している。
「何だ?」
 俺は不可解であった。
 だが、レッセルが浅く座っていた椅子を座り直した時「始まったか」と呟いたのが聞こえた。
「楽しい会話も捨てがたいが、どうやら時間は待ってくれないらしい……」
「さっきのは何の振動だ」
「戦いが始まったのだよ。時間を守らん者がいるみたいでね」
 そんな馬鹿なことがあるか。時間よりも日にちがまるっきり違うではないか。
「さあ。早くしろ。貴様の大切な命が無慈悲に失われていくぞ」
 弾を込めた音がパチンと鳴る。
 その時に「そうだ。忘れていた」とレッセルは顔を上げた。
「いかんいかん。大事なことを思い出した。女を捕らえた兵士には、道案内が済んだら殺しておけと命じてあったのだった」
 レッセルは机の上の置き時計を確認している。
 その隙に俺は後ろ手でドアノブを触れていた。
 ここから側の花瓶台を蹴ったら出ていくぞと腹を括ってあった。
「これはいかん。手遅れの可能性も出てきたな……」
 大変困ったような表情を見守っている。
 花瓶台は足の届く位置だ。
「どこへ行くかな?」
 一瞬目を離した隙である。
 銃弾が発射され、その向きは俺の方であった。
 しかし俺はどこも痛くは無い。レッセルが撃った弾は前に飛ばずに机の上にカランと音を立てて転がったのだ。
 レッセルは舌打ちをした。「また欠陥品だ」と苛立って弾殻を床に投げ捨てる。
 その姿は若干滑稽に見えた。
 俺はここに来て初めて少し鼻で笑ったのだ。
「ずいぶん俺のことを好いてくれているようだな」
「当然だ。国の風紀が乱れれば正してやるのがリーダーの勤めだろう?」
 レッセルが冗談を言えるようである。
 ならば俺も返してやらねばならん。
「まるでカイロニアのようなことを言う。永遠に二番手であるお前がな」
 その言葉を切り裂く勢いで銃声が轟いた。
 続け様にもう弾の込められていない短銃で、カチカチと空鳴りの音で俺を撃ち続けている。
 レッセル国議長の逆鱗に触れたらしい。俺としてはしてやったりであった。
 だが挑発するのは楽しくても、ルイスまで自身の短銃をゆっくりと持ち上げようとするのは忘れていた。
 この隙に急いで部屋を出るぞと後ろの扉を開け放つ。
「あ……」
 だが、そう上手く事は運ばなかった。
 開けた扉の先には、短銃を構えた兵士らが集まっていたのである。
「撃てい!!」
 指揮官の合図で複数人が書斎に乗り込んでくる。俺はその中の何者かに押し倒され、部屋を出るには至れなかった。
 激しい爆発音は弾薬の弾ける音で、燃えた匂いを充満させながら銃声が鳴り止まない。
 俺を撃っているのだと思った。死んだと思った。
 数名の兵士がこの部屋のレッセルに奇襲をかけたようだ。銃弾に慣れていない俺は絨毯の上で身を屈めることしか出来ない。
しおりを挟む

処理中です...