上 下
134 / 172
lll.ニューリアン王国、セルジオ王国

彼女が戻ってきた

しおりを挟む
 急に歯車が動き出し、上手く転がり始めていると更なる変化に期待を膨らませるだろうか。それとも、いつかツケが回ってくるのでは無いかと逆に尻込みしてしまうか。
 この広い芝生の敷地を見渡しているのは俺だけで、外廊下の窓のようにくり抜かれたアーチからぽつんと顔を出していた。
 そばには大ぶりで赤々とした奇抜な花が咲いている。そこへ蝶々が飛んでくると、浮気性の蝶はあっちへこっちへと花を変えながら忙しく蜜を吸っていた。
 何をそんなに急いているのだ。と、心の中で叱っていると「はっ! やあっ!」などの声が地面に響き渡り、そこの蝶は驚いてどこかへ飛んで行ってしまう。
 蝶の行方を追うのも苦労をする。諦めて視線を正面に向ければメルチ王国の兵隊が訓練を積んでいた。
 より迅速に、より乱れなく。前に進むのも後ろに後退するのも、掛け声を合わせて息も揃えたいようである。
 これは物見客として眺めている分には少しだけ面白い。だがもうそろそろ見飽きており、ただの日向ぼっこのようである。
「おーい、バル様ー。探しましたよー」
 横から声がかけられてもぼんやり訓練を見ており、俺はこっちに向かう者に軽く手を振るだけで答えた。
 緊張感の無い足取りですぐに分かる。俺を見つけてアルバートがやって来た。
「エセル様がもうすぐ到着するようです」
「おお……もうそんな時間だったか」
 どれどれと懐中時計を確認したが驚いた。かれこれ俺はこんな何でもない場所に三十分も立ち尽くしていたと時計は知らせている。
 まあ、しかし時間はまだあるかと慌てることは無い。
「そろそろ行くか……」
 うーん、と背伸びをして骨がポキポキと鳴らせる。
 塞いでいた気道が開くと、大きな欠伸が二発も出た。
「良かったですね。みんなバル様の言うことを聞くようになって」
 突然アルバートが低度なことを口にするから三発目の欠伸が不発に終わる。
 俺のへんてこな欠伸まがいを失笑されたが、笑えないのはコイツの頭だ。
「別に俺の言うことを聞くのでは無い。あいつらが勝手に団結しただけだ」
「あれですね! 肩組み大合唱! いいな~、僕も参加したかったですよ~」
 あの日エレンガバラが巻き起こした合唱談は、会議場から城内を駆け巡って飛び出して国内全ての人間に伝えられたようである。
 主犯は俺が連れてきたということに紐付けて、俺の事についてもまるで変人扱いされた記事が出回った。
「そんなことはどうでも良いのだ。それよりもだ。お前のその頭の悪さが目立つ発言をやめろと常々言っているだろうが」
「常々言われていたって無理なもんは無理なんですって毎度言っているでしょう?」
 あくまでも「僕は僕です」のスタイルを崩さんコイツが気に食わな過ぎて、箱に入れて釘を打って船上から大海原に投げ落としたい時があった。今もそれだ。
 歯を剥き出してしていると、遠くの方から俺を呼ぶ声が聞こえてくる。大臣に使われた役員で、用事を手短に伝えてから一目見に来てほしいと要求された。
「わかった。今から行く」
「ちょっとちょっと! エセル様が来ちゃいますけど!?」
 了解を受け取った役員は先に戻って行った。時間はまだある。
「エセルが来たら図書室に案内しておいてくれ。きっとそこでちょうど落ち会えるだろう」
 俺は四発目の欠伸を大きくかきながら、先ほど消えた役員を追いかけて歩いた。
 屋内に入っていく手前でまた蝶を見かける。
 そいつはあの蝶と同一なのか、同じ種類であるだけなのか分からんのだが、今度は黄色で小ぶりな花の蜜をせっせか吸っているようだった。

「すまん! 遅れた!」
 息を整える暇も無く腹を抱えた俺を、エセルは叱らずに笑って見下ろしている。
「大丈夫ですよ。本さえあれば私は余裕ですから」
 それを示すように、好きなものを選び取った数十冊を一気に持ち上げた。
 だが女性が持つには明らかに重いものであり、エセルも少しよろけていた。なので数十冊は俺が奪い取る。
「部屋まで運ぶのを手伝う」
「……あ、ありがとうございます」
 エセルが気恥ずかしそうにすれば俺にもそれが伝わる。
 本は男でもほんの若干だけ重いのであるが、ここは遅刻した挽回の意味でも男らしく振る舞おうと決めたのだ。
「本はこれだけか?」
 聞くとエセルは「あっ」と言う。
「ちょっと待ってください。あっちに置いたままでした」
 急足で戻ってきたエセルは、ほんの若干だけ重い数十冊の本に数冊上乗せした。
 もうこれだけだとエセルは告げたので少し安心し、俺たちは図書室を出ていく。

 こうしてエセルと共にメルチ城を歩くのは二度目であった。
 あの時から事情も状況も全く変わっているのであるし、まだ他人の家感が残る場所を二人だけで歩くのはどうにも変な心地だ。
 俺だけでなく、エセルの方とて「なんだか変な感じですよね」と小さく言っている。
「ネザリアの方は落ち着いたのか?」
「はい。お役職の方々が引き継いで下さったので大丈夫です」
「そうか」
 窓の無い廊下でも電気がつけられていれば昼より明るい。
 無言の時が生まれたとしても妙な胸騒ぎなど起こりもしなかった。
「こんなに一気に読めるのか?」
「えっ!? ……あ、ちょっとずつ読もうかなって」
 えへへと苦笑いしているエセルに、俺は素直に「お前、何か変な調子だぞ?」と告げた。
 ぼーっとして黙っていることが多いし、俺から話しかければよく驚いた声を出しているから疑問だったのだ。
「なんでも無いですけど……」
「お前がそう言う時は、何かある場合が多いだろうが」
「……」
「言ってみろ?」
 エセルは吐息のような唸りを静かに出しながら苦しそうであった。
 なかなか言い出せんようなので、こちらからもう一度念を押してみるかと考えた時「実は」と話し出す。
「テダム様に、こっちへ来た方が良いと言われて……」
「言われて?」
「私はその、反対……と言いますか、もう少しネザリアでしたい事があったので、メルチに来るのはその後にでもと言ったんですけど。テダム様は今すぐにと……」
 積まれた本から電球が等間隔で出てくるのを見上げつつ「ふーん」と音を鳴らしている。
「テダムの機嫌を損ねるようなことでもしたか?」
「そ、そうなんでしょうか。やっぱり私もそうなんじゃないかって思って。でもテダム様は訳を全然話してくれなくてですね」
「あいつは元々思ってても言葉にしないヤツだぞ。お前も近くにいてそう感じるだろう?」
 しかしエセルは小首を傾げる反応だった。
「結構ストレートにお話しされる方だと思っていましたけど」
「じゃあお前にはそうなのだ。お前のことを好いてるみたいだしな」
「……へ?」
 そこから十歩も歩かんうちにエセルの部屋だった。視界が遮られているため危うく通り過ぎるところであった。
 エセルは扉の前で礼を告げ、ここで積み上がった本らを受け取ろうとするから「やめておけ」と言う。
 上から順に取り上げていくというのも現実的では無い。
「良いから早く扉を開けて押さえておいてくれ」
 そうで無ければ、そろそろ俺の指ごと地面に散らばることになる。

「あ、あの」
「電気を付けろ。何も見えん」
 エセルがバタバタと動き、電気のスイッチを入れた。
 急に視界が眩しくなるのはまだ慣れないのである。光の中で目を開けさせるために俺は少しの時間が必要だが、進む国にいたエセルは問題が無いようだ。
 そして本は無事に机の上に置かれた。
 俺の指もまだ全て付いたままだった。
 久しぶりの力仕事を終えた達成報酬に、エセルの部屋になる場所をぐるりと見回しておく。
 まだ彼女の私物は箱の中だ。綺麗めの家具しか揃っていないが、なかなか悪くない部屋だ。
「はーあ」とくたびれて俺は椅子に座り、運んだばかりの本の背表紙を眺めた。
 図らずも、とある物好きが書く論文など混ざっていないか探したが、さすがにメルチの図書館には置いてなかったようだ。
「あの、王子?」
「ん?」
 俺は適当な本を一冊引き出してページをめくっている。
 それがなかなか興味深いことが書かれており、話しながら目で文字を追っていた。
「こんなところに居ても良いんですか?」
「何が?」
「だってここは私の部屋ですし、色々なしきたりとかは同じだと聞いているので」
「まあ、そうだな。ほとんど同じだ」
 だが俺は「あっ」と気付いて本を閉じた。
「そうだ。大臣達から呼ばれていたのだった。読書している場合では無かったな」
 本を山積みの上に置いて部屋を出ていくことにした。エセルには気付かせてくれた礼など告げながら。
 廊下に出てから振り返ると、エセルが扉のところまで掛けて来て今晩のおやすみの挨拶をしてくる。
 まだ就寝には早い時間だが、まあ俺も今日は戻って来れないだろうと思い挨拶をした。
 右の頬に軽くキスをしたのはエセルにとってビックリしたらしかった。
「じゃあまた明日」
「また明日」
 俺から扉を閉めたらこんな甘い雰囲気とは別口の、男臭い場所へ急いで向かう。



しおりを挟む

処理中です...