上 下
104 / 172
Ⅱ.拓かれる秘境国

誓約書の足りない印鑑

しおりを挟む
 およそ四時間ぶりくらいに見るアルゴブレロの顔はこれといって変わりも無かった。
「なんだ。もう終えて来たのか」
 感情を顔に表さず、静かにベッドの上で告げている。
 変わったことと言えば周りの兵士たちが俺達に槍を突きつけて来なくなったことだ。
 信頼……とはまた違うだろうが、警戒はとりあえず解いたらしい。
 俺が報告をと思い口を開けた途端だ。アルゴブレロは遮って「話は“そこの”から聞こう」と言う。
 俺を通り越し何処を見て言っているのかと思えば、同行していたベンブルクの兵士のことだった。
 指名されても顔色を変えない兵士を眺めながらアルゴブレロは告げる。
「スパイ……秘密警察……情報機関にもの言わせる陰湿なやり方は好かねぇが、貴様らが一文の嘘をでっち上げただけでベンブルクでは舌を抜くという”しつけ”らしい。どうだ、貴様らよりはだいぶ信頼できそうだろう?」
 傍のセルジオ兵士が生唾を飲んでいる音をしっかりと俺は聞いた。
「結構だ。その監視役が口を開いてくれるなら話してもらえば良い」
 だが無口だぞ、と親切心で教えてやった。
 なのにこの監視役はその後べらべらと自ら語り出していたのである。

「なんだそれは傑作だな!」
 そう言いアルゴブレロが爆笑をするのは監視役の報告からであった。
 ベンブルクの教えが相当厳しいものなのか、それともこの兵士が特別優秀なのかは分からないが、一言一句嘘偽りのない報告は当事者の俺でも耳を疑う。
 それでアルゴブレロが特に気に入っているのは「勝敗というのは人が死ぬこと以前で決まっている」という格好つけたセリフだ。
 これを俺が言ったというのは正直覚えていない。
 しかもそれを盛大に笑われているのだから俺には恥さらし以外の何でも無い。
「お前に殺された不幸人にも聞かしてやりてぇな。生きてるうちにそんな勝ち事を耳にした後には、今頃ここら一帯ネザリア領土だったろうよ」
 ガハガハと笑って唾を喉につまらせ、噎せ込んでは腹の傷が痛むらしい。
 それでも腹を抑えながらニッシッシと奇妙な声の出し方で笑い続けられた。
 気に食わんので目上構わず俺は毒を吐く。
「それならセルジオももう無くなっているな」
「……あぁ? この俺があんな寄せ集めの国に負けるって?」
 アルゴブレロはピタッと笑うのをやめた。こわい顔をこちらに向けている。
 今すぐにでも大軍を送りんで国を落とされそうな勢いだ。戦い慣れしているだろう。終戦直後でも起こりうる気がして生唾を飲まされた。
 挑発している場合じゃない。俺から話を前に進めよう。
「……で、そういう訳だ。理解したら潔く契約書に判を押せ」
 人を殺す顔をしていたアルゴブレロだが、話の進め方は分かるらしい。傍の兵士に目で合図を送った。
 すると奥の部屋から赤いトレーに乗った契約書が登場してくる。
 運んできた兵士が俺のもとで立ち止まり、それを受け取るようにと差し出してきた。
 受け取ったものは確かに俺達が用意した契約書と同じだった。しっかりとセルジオ王国の紋章を刻んだ判と、アルゴブレロのサインも加えられてはいた。
 後ろからカイセイが覗いてくる。許可を得て契約書を取り上げると「少しお時間いただきます」と横でペラペラめくりだした。
 しかし俺はもうひとつ契約書を差し出したはずだった。
「一冊だけか。もうひとつの方もあっただろう」
「あれは契約不成立だ。条件はあのバカ野郎を殺して来いと言ったはずだからな」
 手元に来たのはセルジオとニューリアンを繋ぐ誓約書類。
 却下されたのはセルジオとクランクビストを繋ぐ書類である。
 確かに俺からこの件を語らせてもらえたなら、キースのことは息の根を止めたという事で真実を隠したかもしれない。
「仕方ないな……。契約不成立、了解した」
 話が進まないものは切り捨て、俺はカイセイが終わるのを待った。
 カイセイは誓約書の文を丁寧に読んでおり、改ざんがされていないかを入念に確認してくれている。
 アルゴブレロもまた、その様子を横目で覗いてはいた。
「ふん。その書類、あの丸肉のサインが見当たらねぇな」
「丸肉?」
 ぐるりと頭を巡らせていたら、ニューリアン当主マルク王のでっぷりとした腹が浮かんだ。
 そういえばマルク王とは、結局セルジオの一件が済まされてから考えるとのことで話を保留にしてあったのだった。
「うちのサインがしてあったとしても、丸肉が毛嫌いしそうな内容だ」
 アルゴブレロは傷を痛め無いよう遠慮がちに笑っていた。
 俺もそれには同意見で、あの時のマルク王の怒り様を思い出して微笑を漏らしている。
 案外分かり合えるではないかと思っていたが、アルゴブレロは小さく口にした。
「アレは信用するなよ」
 話の流れからしてマルク王のことをアレと呼んでの言葉だと分かる。
 その真相を知りたかったがここでは語られなかった。

 カイセイが終わるまで窓から下を眺めていた。セルジオ兵士が撤収作業を行う様子だ。
 内戦が終わったとスッキリした顔で笑い合って話をしている。
 あんなに清々しく居られると、俺はこんなところへわざわざ何をしに来たんだろうと謎の思いに駆られるではないか。
 部屋の中を見ても良いが、さっきからアルゴブレロの視線が痛い。ヤツは何も言わないのに目線だけはずっと俺を刺している。
 見張っているのか。それとも、この場に及んで俺に好意でも芽生えなければあんなに見つめてくる理由が見つからん。
 後者は願い下げだ。腕から首へ身震いが起こった。
 静かであったが部屋の外が騒がしくなり、カイセイ以外の者が音の出どころに振り向いた。
 医務室の扉を叩く音は急いているように遠慮が無い。扉が開いて何か慌てた兵士が顔を出した。
「こ、国王様! メ、メアネル家より、シャ、ッシャシャ、シャーロット姫様が! お目通り願いたいと!」
 俺もアルゴブレロも「シャーロットだと!?」と声が揃った。
 だが事態はすでに更に上を行っている。
「お、お目通り願いたいと、も、っもも、もう、ここまで来ておられて……」
 扉の向こうで知った女性の声がする。
「道を開けなさいよ! 離しなさいってば! わたくしを誰だと思っているの!?」そのような声がだんだん近くなって聞こえている。
 この時のアルゴブレロの顔は一番の傑作であった。
 俺はチラッと見ただけで、笑いを堪えるのに必死だ。
 おそらくアルゴブレロとシャーロットは初対面だったであろう。
 だとすれば、美人で知られる優雅で上品な姫君が一体突然何事かと思うに決まっていた。
「ど、どどど、どういたしましょうか?」
「どうもこうも、すぐそこに居るんだろう? 中に入れてやれば良い」
「で、では……」
 戸惑いまくる兵士の指示により壁の向こうではシャーロットが開放されたらしい。
 いつものようにプリプリ怒った声で「あなた達覚えておきなさいね」と怖いことを言っていた。
しおりを挟む

処理中です...