上 下
66 / 172
Ⅱ.籠れぬ冬

愛ですよ。愛……

しおりを挟む
 寒空が見える窓の下。通路間のちょっとした休憩スペースのような場所で、俺はベンチに寝転がっていた。
 空調は効いているし暇なので、持ち合わせていたコインを宙に投げては掴む遊びをしている。
 一応腹のところには本を開いたまま置いてある。数分前までは少し目を通していた。だから今は休憩中だ。
 そんな俺のもとへ人が近づいてくる気配を感じている。
「楽しそうですね」
「そうだろ。今のところ失敗なしだ」
 視界に映らなくても足音で分かった。カイセイがやってきたのだ。
「ロマナのお勉強はどうされたのですか」
「サボった」
「あなたって人は」
 呆れて言うだけで、いつものように怒ってはこなかった。カイセイはその場を去らずに無言で隣のベンチに座ったようだ。
 俺は特に気にせずにコインを投げ、掴んでいる。
「シャーロット様からお返事が来ましたよ」
 コインを掴んだタイミングで目の前に便箋が現れた。
「俺宛なのか?」
「はい。そのようです」
 お返事だと言われても、俺はシャーロットに手紙を出した覚えなど無いんだが。
 コインは投げられないので仕舞った。そして差し出された便箋を受け取って裏返してみる。いつもの可憐な便箋で、確かに宛名には俺の名が書かれていた。
 俺は仰向けに寝たままその場で封を切り、中身を確認した。
 相変わらず手紙の書き方はシャーロットらしい。礼儀の良い文章の中に、時々彼女の跳ねた部分が垣間見えていた。
 だいたいはネザリアの件に関する内容だった。しばらくはうちに来ないでくださいとも遠回しに言っている。
 以前にこちらにシャーロットが来た時は、すぐにでも遊びに来てねという感じであったが、状況が変わり仕方がない。彼女が残念がっていることも大袈裟に綴られていた。
 俺は時々鼻で笑いながらその手紙を読んでいた。
 カイセイは別に覗き見したり内容を聞いてきたりはしなかった。ただじっとそこに座っていて何を考えているのかは分からない。
 最後の一文はカイセイにも関係のあることだ。そこだけ声に出して読む。
「p.s.妹はカイセイの手紙を喜んでいたわ、ありがとう。だと」
 シャーロットの妹君と言えば、結婚適齢期だそうで宛先不確定の恋文を書いたのである。
 その恋文は俺かカイセイに渡してくれとシャーロットに預け、シャーロットはそれをカイセイに渡したのだ。
 恋文の返事をやけにすんなり書き終えていたカイセイであった。この手紙もある意味その返事だとは言えるのであるが、少し残念な知らせだ。
 妹君から直接手紙の返事がないという事は、つまり脈なしということになる。
「読むか?」
「いいえ、結構です」
 手紙をカイセイに向けたが受け取られなかった。
「落ち着き払っているのだな」
「そうですね」
 この時ばかりは、いつもと変わらないカイセイに俺は矢も盾もたまらなくなった。持ち上げたままの手紙をブンブン揺さぶりながら言う。
「お前、これの意味が分かっているのか?!」
 カイセイの表情も見てやろうとこの身も起こす勢いだ。
「分かっていますよ」
 カイセイは小さくまとまって座っていた。
「好意を受けたくて返事をしたのでは無いですからね」
 静かに言ったセリフは、まるで女性に振られた男が強がるセリフかのようである。しかしカイセイの場合、未練の念は無く、むしろ当然であるかのような言い方だった。
 俺はもう一度仰向けに戻り、手紙の内容を頭から読んで再確認をする。
 最後の一文以外にカイセイのことは何も綴られていない。あまりにも薄情だ。人を振るにしても相当嫌いにならなければ、ここまで簡素な返事にはならないんじゃないかと考えた。
「もう一度手紙を出した方が良いのではないか」
 カイセイはすぐに返事した。
「その必要はありません。伝えることは特にありませんから」
「そうかもしれんが、妹君を傷つけてしまっていないかと聞いている」
 こう言うと、やっとカイセイは少しは考えてくれたようだった。少し沈黙が続き、やがて「私には分かりません」と静かに言っていた。
「仕方ない。妹君には俺から機嫌を伺っておこう。返事になんとか添えておく」
 人の仲を取り持つようなことは面倒であるしやりたくないが、国同士の関係に”ひび”を作るわけにもいかない。俺から声を上げるしかなかったのだ。
「お前は結婚はしたくないのか?」
 初めて聞いてみた。こんな話題を二人でする機会も無かった。
「さあ。想像も付きません」
「願望は?」
「どうなんでしょう」
「自分の事なのに他人事のように答えるな」
 寝転んでいた姿勢から起き上がり、便箋は懐に仕舞った。
 寒空は大粒の雪を降らせていた。雨とは違い、音は無くて静かである。
 その中でカイセイがおのずと口を開きだした。俺はそろそろこの場と違う場所へ行こうかと思っていた時だった。
「正直、あなたがエセル様を連れ帰るなんて驚きました。いや、彼女と仲良くしてくださいと口酸っぱく言ったのは私なんですが、まさかここまで愛情を持たれるとは思ってもいなくて。おひとりで同盟交渉を行い、死闘されてまで救出する姿勢には心を撃たれたというか。やっぱり愛がそうさせるということなんですよね……」
「……は? はああ!?」
 俺はベンチがひっくり返る勢いで驚いていた。
 しかし隣の席の男は、足元を見ながらしんみりとしたままである。「はぁ」とため息までついていて様子がおかしい。
「な、なんだって!?」
「愛ですよ。愛……」
 さらにはこう呟いた。
「愛とは恐ろしいものですね。ここまで人を変えてしまうなんて」
 背中を丸めただけでも珍しいカイセイが、自ら愛を口にして憂いていた。
 こんなことは数百年に一度降る星よりも奇跡である。明日には突然夏が来るのではないか。
「大丈夫か、何かあったのか?」
「何でもないですよ。ただバル様が格好良いなと思っただけです」
 俺が心配しているとカイセイは微笑した。
 ふとカイセイは立ち上がった。背筋をしゃんと伸ばしたいつものカイセイである。
「ちゃんとロマナの言う事を聞いてくださいね。あなたが不真面目だと王妃様がまた怒ってしまいますよ」
 もっともなことを言うと、カイセイは立ち去ろうとした。
「行くのか!?」
「え?」
 カイセイは一度立ち止まる。
 意味もなく引き止めてしまった俺は「何でも無い」と言い、カイセイはそのまま廊下を歩いていった。
 カイセイは角を曲がると見えなくなった。当然だ。しかし俺は、あいつがこの世界から消えてしまうのではないかと不安に駆られている。
 心配になり様子を追おうかと思っていると、見えない廊下の裏側でカイセイに声を掛ける兵士の言葉が聞こえてきた。それで少し安心していた。
 俺は静かにベンチへ座り直し、拍子で落とした本をゆっくりと拾い上げている。

しおりを挟む

処理中です...