9 / 172
Ⅰ.ネザリア・エセルの使命
彼女の趣向1
しおりを挟む
「エセル、いるか?」
書物庫の扉をノックし、押し開けると鍵はかかっていない。
扉の動きによって空気が掻き乱され、中ではすぐに埃が舞い上がっていた。しかしその中にエセルが座っている。
この日は二人で会う約束の無い日であった。突然の訪問に彼女は驚いているようで固まっていた。
「どうかしたか?」
「い、いえ。何でもありません」
見るからに焦っているようであるが。何の気無しにエセルの前を通って行く。
彼女が持っている逆さになった本に一瞬目が行くも、平然たる態度で俺の定位置に座った。一番陽の当たりが良い出窓だ。
落ち着いてエセルを見ると、手に持っていた本の向きをこっそり修正したようだった。
たぶん俺が座るところのほこりを散らしているうちにエセルが自分で気付いたのだろう。
「今日は何の本を読んでいるんだ?」
「りょ、料理の本を」
エセルは小さな声で答えた。確かにその手に持っている本の表題は料理に関するようであるな。
「じゃあ、その尻の下に敷いているのは何の本なんだ」
俺が言うと、エセルはますます硬直した。
さすがに俺から取り上げるのは難しいので、スカートから覗いているところを指さしている。
「これ……ですか……?」
「ああそれだ」
エセルは恐る恐るその本を抜き取った。そして大事そうにそれを両手に抱える。
俺は突然ピンときた。
「……お前まさか! それを盗もうとしたわけでは」
「ありません! 絶対に!!」
「冗談だ。何も疑っていない」
顔を赤くして首を振るエセルに、俺は手の平を差し出す。その本を貸せという意味でだ。
エセルはそれを汲み取っておずおずと手を伸ばしてくれた。
古本を受け取った俺は「へえ」とじっくり眺め、やけに飾り気のない表紙からぺらぺらめくってみる。
「女性好みとは思えん」
表題は古い言語で書いてある。それなりの学力があれば読めるだろうが。
「薬師論考……論文か?」
中身をペラペラとめくるとやっぱり論文である。
かの昔の医療研究者がまとめたもののようだが、軽く目を通してみると割と最近の情報が綴られていて変だと思った。
「誰が書いた本だ?」
「エーデン博士です」
エセルが答えた。
その名を聞いた俺は驚きのあまり固まった。急いで裏紙をめくり著者を確認してみると『エーデン・ロヴェルト』と確かに書いてある。
「じ、実は私この方のファンで……一冊だけ手元にあったのですがこの国の出身だと聞いて探して……ま、まさか続編があるだなんて私嬉しくて……!」
珍しくよくよく語る口であった。その後もこのエーデン博士の事や本の事など、聞かなくても随分話してくれた。
それに続編という言葉が出た。この表題に続く数字が部数を表しているなら、もう7部も作っていることになる。
「7部で終わりか?」
「え? まだ半分くらいありますよ」
エセルは素っ頓狂な顔で答えた。俺はいよいよ腹を抱えて大笑いをする。
「エセル、ちょっとついて来てくれ」
愉快ついでに俺は良いこと思い付いて書物庫を足早に出た。
「あ、あの」
廊下に出てこないエセルは自分が何か罰せられるのではないかと思ったらしい。
「早う来い」
「はい……」
この建物には一箇所だけ別館と繋がる場所があるのだ。
廊下の突き当りで出くわす両開きの扉。一人の衛兵が門番として立っていた。
俺から事情を軽く伝えると衛兵は扉を押し開ける。そこをくぐると反対側にも門番の衛兵が立っており、こちらに敬礼をした。
歩きながらエセルには説明をしておく。
「この扉は特別なものでこの衛兵しか開けられない。さっき俺たちがいた場所は宮廷だ。皇族の部屋や職場なんかがある。で、今入ったこちら側の館は研究者たちが仕事をするところだ。館の者が宮廷へ入るのは基本的に禁止されている」
エセルはすぐ後ろを歩きながらキョロキョロと見回していたようだ。
「わかったか?」
「はい」
扉を介するだけで廊下の雰囲気やにおいが急に変わる。宮廷の侍女はこちらでは仕事をしないからな。
窓のサッシに埃が黒くこびりついているし、床板には何かの液体が垂れた染みが、道標みたく点々とあった。
掃除する者がいなければいつでも汚れているのだ。
「こっちの方が広いからな。迷子になると面倒だぞ」
言うとエセルは周りを眺めるのを諦めて、俺に付いてくるのに徹した。
そのまま道を曲がったり階段を降りたりしながら行き、俺はあるドアの前で立ち止まった。
「ここだ」
「……ここですか」
特段変わったところは無い。ここに来るまでに何十も見てきたのと同じ扉である。
エセルがいつまでも不安がっているのは中に居る者と対面すれば解決だ。
早速会わせてやろうと俺は弾む心でノックをする。ちなみにこの部屋をこんなにワクワクしてノックをしたことは無い。生涯最後だと断言しよう。
……予想通り室内からの返事は貰えない。中から物音すら聞こえてこなかった。小窓も無いので様子を確認することも出来ない。
もう一度ノックをしたところで「お留守でしょうか」とエセルは傍で言った。
いいや、そんなはずは無いと俺は知っている。
中に向かって俺は声を掛ける。
「俺だ。決着をつけに来た」
しばらく無音だったが、やがて声が返ってきた。
「お入りなさい」
にやけた顔をエセルに見せて俺は扉を開けた。
中は小さな部屋だ。どこもかしこも紙が散らばっていて、踏み場に困るような部屋である。
書斎机の上もまた大惨事だ。だがチェス盤だけは物が当たらぬよう綺麗に避けられてある。
目当ての人物は机の影からぬるりと現れた。まるで紙の中から生まれたみたいにだ。
「あれは紙の妖怪だぞ」
俺はエセルに耳打ちする。それが紙の妖怪にも聞こえたらしい。
「……ええ。今、紙から直接頭に内容を入れ込んでいたところでした」
と、寝起きの声で言っている。
紙をまとったこの男の正体はただの人間であり、思うについさっきまで眠っていたのだろう。
いつも寝不足で覇気がなく、さっきは妖怪だと言ったが本当は幽霊だと皆に呼ばれている。
幽霊は紙の海から這い出してきて、エセルの前に現れた。
「この方は王子の新婦ですね。初めまして。改まった関係が苦手なもので、エセル”さん”とお呼びしてもよろしいかな?」
「は、はい。是非! えっとじゃあ私も……」
「はい。”エーデンさん”で、どうぞ」
にっこり笑った幽霊にエセルはどういう反応をするかと伺い見ていた。
それは叫ぶでも飛び上がるでも無く、カチコチに固まったら静かに後ずさりをしただけであった。
書物庫の扉をノックし、押し開けると鍵はかかっていない。
扉の動きによって空気が掻き乱され、中ではすぐに埃が舞い上がっていた。しかしその中にエセルが座っている。
この日は二人で会う約束の無い日であった。突然の訪問に彼女は驚いているようで固まっていた。
「どうかしたか?」
「い、いえ。何でもありません」
見るからに焦っているようであるが。何の気無しにエセルの前を通って行く。
彼女が持っている逆さになった本に一瞬目が行くも、平然たる態度で俺の定位置に座った。一番陽の当たりが良い出窓だ。
落ち着いてエセルを見ると、手に持っていた本の向きをこっそり修正したようだった。
たぶん俺が座るところのほこりを散らしているうちにエセルが自分で気付いたのだろう。
「今日は何の本を読んでいるんだ?」
「りょ、料理の本を」
エセルは小さな声で答えた。確かにその手に持っている本の表題は料理に関するようであるな。
「じゃあ、その尻の下に敷いているのは何の本なんだ」
俺が言うと、エセルはますます硬直した。
さすがに俺から取り上げるのは難しいので、スカートから覗いているところを指さしている。
「これ……ですか……?」
「ああそれだ」
エセルは恐る恐るその本を抜き取った。そして大事そうにそれを両手に抱える。
俺は突然ピンときた。
「……お前まさか! それを盗もうとしたわけでは」
「ありません! 絶対に!!」
「冗談だ。何も疑っていない」
顔を赤くして首を振るエセルに、俺は手の平を差し出す。その本を貸せという意味でだ。
エセルはそれを汲み取っておずおずと手を伸ばしてくれた。
古本を受け取った俺は「へえ」とじっくり眺め、やけに飾り気のない表紙からぺらぺらめくってみる。
「女性好みとは思えん」
表題は古い言語で書いてある。それなりの学力があれば読めるだろうが。
「薬師論考……論文か?」
中身をペラペラとめくるとやっぱり論文である。
かの昔の医療研究者がまとめたもののようだが、軽く目を通してみると割と最近の情報が綴られていて変だと思った。
「誰が書いた本だ?」
「エーデン博士です」
エセルが答えた。
その名を聞いた俺は驚きのあまり固まった。急いで裏紙をめくり著者を確認してみると『エーデン・ロヴェルト』と確かに書いてある。
「じ、実は私この方のファンで……一冊だけ手元にあったのですがこの国の出身だと聞いて探して……ま、まさか続編があるだなんて私嬉しくて……!」
珍しくよくよく語る口であった。その後もこのエーデン博士の事や本の事など、聞かなくても随分話してくれた。
それに続編という言葉が出た。この表題に続く数字が部数を表しているなら、もう7部も作っていることになる。
「7部で終わりか?」
「え? まだ半分くらいありますよ」
エセルは素っ頓狂な顔で答えた。俺はいよいよ腹を抱えて大笑いをする。
「エセル、ちょっとついて来てくれ」
愉快ついでに俺は良いこと思い付いて書物庫を足早に出た。
「あ、あの」
廊下に出てこないエセルは自分が何か罰せられるのではないかと思ったらしい。
「早う来い」
「はい……」
この建物には一箇所だけ別館と繋がる場所があるのだ。
廊下の突き当りで出くわす両開きの扉。一人の衛兵が門番として立っていた。
俺から事情を軽く伝えると衛兵は扉を押し開ける。そこをくぐると反対側にも門番の衛兵が立っており、こちらに敬礼をした。
歩きながらエセルには説明をしておく。
「この扉は特別なものでこの衛兵しか開けられない。さっき俺たちがいた場所は宮廷だ。皇族の部屋や職場なんかがある。で、今入ったこちら側の館は研究者たちが仕事をするところだ。館の者が宮廷へ入るのは基本的に禁止されている」
エセルはすぐ後ろを歩きながらキョロキョロと見回していたようだ。
「わかったか?」
「はい」
扉を介するだけで廊下の雰囲気やにおいが急に変わる。宮廷の侍女はこちらでは仕事をしないからな。
窓のサッシに埃が黒くこびりついているし、床板には何かの液体が垂れた染みが、道標みたく点々とあった。
掃除する者がいなければいつでも汚れているのだ。
「こっちの方が広いからな。迷子になると面倒だぞ」
言うとエセルは周りを眺めるのを諦めて、俺に付いてくるのに徹した。
そのまま道を曲がったり階段を降りたりしながら行き、俺はあるドアの前で立ち止まった。
「ここだ」
「……ここですか」
特段変わったところは無い。ここに来るまでに何十も見てきたのと同じ扉である。
エセルがいつまでも不安がっているのは中に居る者と対面すれば解決だ。
早速会わせてやろうと俺は弾む心でノックをする。ちなみにこの部屋をこんなにワクワクしてノックをしたことは無い。生涯最後だと断言しよう。
……予想通り室内からの返事は貰えない。中から物音すら聞こえてこなかった。小窓も無いので様子を確認することも出来ない。
もう一度ノックをしたところで「お留守でしょうか」とエセルは傍で言った。
いいや、そんなはずは無いと俺は知っている。
中に向かって俺は声を掛ける。
「俺だ。決着をつけに来た」
しばらく無音だったが、やがて声が返ってきた。
「お入りなさい」
にやけた顔をエセルに見せて俺は扉を開けた。
中は小さな部屋だ。どこもかしこも紙が散らばっていて、踏み場に困るような部屋である。
書斎机の上もまた大惨事だ。だがチェス盤だけは物が当たらぬよう綺麗に避けられてある。
目当ての人物は机の影からぬるりと現れた。まるで紙の中から生まれたみたいにだ。
「あれは紙の妖怪だぞ」
俺はエセルに耳打ちする。それが紙の妖怪にも聞こえたらしい。
「……ええ。今、紙から直接頭に内容を入れ込んでいたところでした」
と、寝起きの声で言っている。
紙をまとったこの男の正体はただの人間であり、思うについさっきまで眠っていたのだろう。
いつも寝不足で覇気がなく、さっきは妖怪だと言ったが本当は幽霊だと皆に呼ばれている。
幽霊は紙の海から這い出してきて、エセルの前に現れた。
「この方は王子の新婦ですね。初めまして。改まった関係が苦手なもので、エセル”さん”とお呼びしてもよろしいかな?」
「は、はい。是非! えっとじゃあ私も……」
「はい。”エーデンさん”で、どうぞ」
にっこり笑った幽霊にエセルはどういう反応をするかと伺い見ていた。
それは叫ぶでも飛び上がるでも無く、カチコチに固まったら静かに後ずさりをしただけであった。
0
お気に入りに追加
7
あなたにおすすめの小説
【取り下げ予定】愛されない妃ですので。
ごろごろみかん。
恋愛
王妃になんて、望んでなったわけではない。
国王夫妻のリュシアンとミレーゼの関係は冷えきっていた。
「僕はきみを愛していない」
はっきりそう告げた彼は、ミレーゼ以外の女性を抱き、愛を囁いた。
『お飾り王妃』の名を戴くミレーゼだが、ある日彼女は側妃たちの諍いに巻き込まれ、命を落としてしまう。
(ああ、私の人生ってなんだったんだろう──?)
そう思って人生に終止符を打ったミレーゼだったが、気がつくと結婚前に戻っていた。
しかも、別の人間になっている?
なぜか見知らぬ伯爵令嬢になってしまったミレーゼだが、彼女は決意する。新たな人生、今度はリュシアンに関わることなく、平凡で優しい幸せを掴もう、と。
*年齢制限を18→15に変更しました。
【完結】もう無理して私に笑いかけなくてもいいですよ?
冬馬亮
恋愛
公爵令嬢のエリーゼは、遅れて出席した夜会で、婚約者のオズワルドがエリーゼへの不満を口にするのを偶然耳にする。
オズワルドを愛していたエリーゼはひどくショックを受けるが、悩んだ末に婚約解消を決意する。だが、喜んで受け入れると思っていたオズワルドが、なぜか婚約解消を拒否。関係の再構築を提案する。その後、プレゼント攻撃や突撃訪問の日々が始まるが、オズワルドは別の令嬢をそばに置くようになり・・・
「彼女は友人の妹で、なんとも思ってない。オレが好きなのはエリーゼだ」
「私みたいな女に無理して笑いかけるのも限界だって夜会で愚痴をこぼしてたじゃないですか。よかったですね、これでもう、無理して私に笑いかけなくてよくなりましたよ」
彼女にも愛する人がいた
まるまる⭐️
恋愛
既に冷たくなった王妃を見つけたのは、彼女に食事を運んで来た侍女だった。
「宮廷医の見立てでは、王妃様の死因は餓死。然も彼が言うには、王妃様は亡くなってから既に2、3日は経過しているだろうとの事でした」
そう宰相から報告を受けた俺は、自分の耳を疑った。
餓死だと? この王宮で?
彼女は俺の従兄妹で隣国ジルハイムの王女だ。
俺の背中を嫌な汗が流れた。
では、亡くなってから今日まで、彼女がいない事に誰も気付きもしなかったと言うのか…?
そんな馬鹿な…。信じられなかった。
だがそんな俺を他所に宰相は更に告げる。
「亡くなった王妃様は陛下の子を懐妊されておりました」と…。
彼女がこの国へ嫁いで来て2年。漸く子が出来た事をこんな形で知るなんて…。
俺はその報告に愕然とした。
どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします
文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。
夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。
エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。
「ゲルハルトさま、愛しています」
ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。
「エレーヌ、俺はあなたが憎い」
エレーヌは凍り付いた。
貴方が側妃を望んだのです
cyaru
恋愛
「君はそれでいいのか」王太子ハロルドは言った。
「えぇ。勿論ですわ」婚約者の公爵令嬢フランセアは答えた。
誠の愛に気がついたと言われたフランセアは微笑んで答えた。
※2022年6月12日。一部書き足しました。
※架空のお話です。現実世界の話ではありません。
史実などに基づいたものではない事をご理解ください。
※話の都合上、残酷な描写がありますがそれがざまぁなのかは受け取り方は人それぞれです。
表現的にどうかと思う回は冒頭に注意喚起を書き込むようにしますが有無は作者の判断です。
※更新していくうえでタグは幾つか増えます。
※作者都合のご都合主義です。
※リアルで似たようなものが出てくると思いますが気のせいです。
※爵位や言葉使いなど現実世界、他の作者さんの作品とは異なります(似てるモノ、同じものもあります)
※誤字脱字結構多い作者です(ごめんなさい)コメント欄より教えて頂けると非常に助かります。
5年も苦しんだのだから、もうスッキリ幸せになってもいいですよね?
gacchi
恋愛
13歳の学園入学時から5年、第一王子と婚約しているミレーヌは王子妃教育に疲れていた。好きでもない王子のために苦労する意味ってあるんでしょうか。
そんなミレーヌに王子は新しい恋人を連れて
「婚約解消してくれる?優しいミレーヌなら許してくれるよね?」
もう私、こんな婚約者忘れてスッキリ幸せになってもいいですよね?
3/5 1章完結しました。おまけの後、2章になります。
4/4 完結しました。奨励賞受賞ありがとうございました。
1章が書籍になりました。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる