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Ⅰ.ネザリア・エセルの使命

休日のおしごと

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 国の休日は国民のためにあるはずなのだが、何故だか公務に休日など存在しないのだ。休日明けに皆がよく働けるように、こちらはあくせく判を押す日々が続くばかりである。
 しかし今日はカイセイに少々無理を言った。俺は廊下の隅にて若干の悪気を感じている。
 植え込みの物陰に身を潜めて、少し奥にある部屋をうかがっていた。俺の横を行き過ぎる侍女が驚いて声を上げたりしていたが、だんだんとそれもお互い慣れてきた。
 日の出しているものの廊下は薄暗く、侍女たちも手にランプを持って移動していた。このような早朝であるのに、他人のための衣類や食事を用意する彼女たちを尊敬する。
 さて、その俺が見張っている部屋なのだが、あれはエセルが使っている部屋である。今日は一日公務をカイセイに託し、俺はエセルとリトゥの生活を探りに来た。
 手元の懐中時計で時刻を確認すると、そろそろ朝食が運ばれる時間だ。そのうちにカタカタとワゴンを押す侍女が、向こう側からやって来るのが見えた。
 エセルの部屋をノックし、開けられた扉の向こう側で何か話す声と共に、ワゴンごと侍女が部屋に入っていった。特段変わりはない。侍女が部屋から廊下に戻ってくる。
 さすがに俺でもデリカシーくらいはある。女性の部屋を覗いたりはしない。
「おい、ちょっと」
 植え込みから突然に声をかけられたら飛び上がるだろう。まして暗がりの廊下であるぞ。
 ワゴンを運び終えた侍女は、小さく叫びながら見事に尻もちをついていた。
「中にいるのはエセルだけか?」
 ひいひい言っていただけの侍女であったが、これが俺だと分かると声を震わせながら、
「リ、リリ、リトゥ様も、ごいっしょで」と言った。
「そうか。ありがとう」
 侍女は白い壁に手を添えながらゆっくりと立ち上がっている。
 だいたいは朝食を自分の部屋でとるのが普通だ。ネザリアでもそこは同じらしい。
 次の動きは思っていたよりもずっと早かった。リトゥが部屋から出てきたのだ。手には朝食を乗せていた先程のワゴンを押している。意外と早食いなのか、それともあまり食が進まないのだろうか。ここからではワゴンの皿の上までは見えないので、俺はリトゥのあとをつけることにした。

 仕事の邪魔にならないよう配慮しながら、リトゥの行動が見える位置に陣取る。ワゴンはキッチンに運ばれた。リトゥはそこで皿やらを片しているようだ。
 いつも俺の前ではだいたい不機嫌でいるリトゥが、普通の顔をしてゴミと皿を分別している。人間誰しも一日中怒っているわけでは無いのに、この時は非常に珍しいものを見た感覚に陥った。
 手際の良さにも感心する。この城の侍女よりもよく動いているのではないだろうか。
 その次は洗濯だ。
 自国では見たことのない器具を取り出して来た。水に漬けた衣類をそれで挟んだり、しごいたりしながら、慣れた手付きでこなしていく。そこにいるのは俺の知っているリトゥとはまるで違う。
 リトゥは他の侍女と接触せず、淡々と自分の職務をまっとうするだけのようだった。勝手な想像では、侍女をいびり倒して女王のように振る舞っているのかと思っていたが、こちらのやり方に倣っている場面も多く見られた。
 見直したと共に若干期待外れである。
 俺はエセルの部屋の方へ戻った。

 それからまた植え込みの影から様子を伺っていたが、そこへ侍女が近づいて来て、
「エセル様ならお出かけになられましたよ」と言ってきた。
 ハッとし、懐中時計を急いで見る。いかん完全に忘れていた。走ってエセルの元へ向かわなければならない。
 俺は中庭に出て芝生の上をひた走っていた。けれどエセルの姿はどこにも無さそうであった。俗に言うデートをすっぽかしてしまった男が今ここにいる。彼女は待っていてくれなかったのか、何処へ行ったんだ。
 爽やかな朝の空気が気持ち良い。せっかくの休日に俺は何をしているのだろうと思わないようにしたい。
「あー……」
 流れていく雲を眺め思いついた。書物庫だと。
 俺はまた走り書物庫へ向かう。
 思った通りにエセルはいた。そういえばいつかの去り際、次からは一人で来ても良いと俺からエセルに言ったのだったと思い出した。
 こんなにも汗だくの男が入ってくるのに、エセルは訳を聞かないし遅刻を咎めたりもしない。いつもの場所に座っていて、俺と目が合うと「おはようございます、王子」と高くも低くもないテンションで言っただけであった。

 居眠りしないよう丸椅子に座っていたから大丈夫であった。エセルはいつものように本に没頭していて、昼の時刻になる頃に俺から声をかけて別れることになる。
 自室に戻るエセルの後ろを、離れてとぼとぼ歩きながら、俺から話しかけなければエセルは一言も声をかけて来ないのだな……と思っていた。
 げんなりしていると、先でエセルを呼ぶ声が聞こえて慌てて柱に身を隠した。その声はリトゥだと分かる。声が大きいので内容までまる聞こえだ。
 たいそう心配していたのだろう。今にも泣き出しそうな声で、俺との時間がどのようなものだったのか聞き出しているようであった。
 けれど内容はこうだ。
 酷いことはされていないか。または言われていないか。
 危険なことはなかったか。
 怖くはなかったか。
 辛くはなかったか。……聞いていると、まるで俺がエセルを拉致したような酷い扱いだ。
 エセルはそれに対して「そんなことはありませんでしたよ」と優しい声でちゃんと答えている。

 昼食は簡単に食べられるものを腹に入れた。エセルは自室で運ばれたワゴンのものをゆっくり食べていることだろう。朝食と同様に短い時間で済まされ、ワゴンを運ぶリトゥが部屋を出て行った。
 エセルはしっかり食べられているのか心配になる。
 午後は何をするのだろうと見張っていると、扉が開いてエセルが顔を出した。何やらキョロキョロしていて見るからに怪しい動きをしている。
 やはり一人になると動き出すのか、と固唾を飲んだ。
 人気が無いのを確認していると見える。誰も廊下を通らない間にエセルはそろりと移動し、近くの扉に手をかけていた。なんだ盗みでも図ろうとしているのか。しかし扉が開かないらしい。
 何度かガチャガチャやっていると、
「エセル様?」と背後から侍女に見つかってしまった。
 ちなみに俺は、その一部始終を映画を観るようなワクワクで見守っている。
 二人は何か話しているようであるが、リトゥのように大げさでないので会話の内容は途切れ途切れでしか聞き取れない。だがどうやら、あの部屋にエセルは欲しいものがあるようだ。
 しかし侍女が若干困っているようで、なんだか消極的だが扉の鍵を開けだした。エセルを廊下に待たせておいて、侍女がそこから取り出してきたのはホウキと塵取りであった。
「ありがとうございます」
 その二点をエセルは受け取ったのと、エセルの礼を言う言葉がはっきりと聞き取れた。
 俺の頭上にはハテナが浮かんでいる。エセルが欲しがっていたものは掃除道具だったのか。そんなものでは掃除くらいしか出来んぞと、当たり前のことを脳内でツッコんでいた。
 エセルは部屋に戻るとしばらく籠もったきりになり、廊下の拭き掃除をしている侍女をなんとなく眺めているところで、再びエセルが現れた。
 そこの侍女に対して、また何だかお礼を言っているようである。
 侍女にペコペコ頭を下げている姫などあるか普通。慎ましやかにも程があるぞ。俺はそれを見ながらかなり呆れてきた。
 その場に現れたのはリトゥだ。彼女は用事の最中であったが、エセルと侍女とで何かトラブルがあったのかと過敏になり飛んできた。
「掃除はあなた達の仕事でしょう?! こんなものをエセル様に持たせるなんて何を考えているの!」
 可哀想なことだ。全くの筋違いであるのに侍女はあんなにも怒鳴られている。
 やはりエセルの事になると当たりが厳しいようだな。リトゥの優秀さを認めかけていたのだが、これほどまでに感情的になられるのは大きなマイナス評価だ。
 ここでエセルがどのような対応に出るのかが肝になる。専属の下働きが横にいれば、無意識にも自分をよく見せようとするはずだ。
 植え込みからじっと見守る。集中力を最大限使い、目を凝らし耳を澄ませている。
 エセルの声が聞こえてきた。
「違うの、リトゥ。私から無理を言って貸してもらったんです。どうかその方を怒らないで下さい」
 それからエセルは侍女の肩にそっと手を添えた。
「私のせいですみません。おかげで良い運動になりました、ありがとうございました」
 侍女は滅相もないと首を振っていた。それからその掃除道具を仕舞いに行ったようだ。
 リトゥは目眩がするのか額に手を当てていて、力無い声で言う。
「エセル様はそんな事をしなくても良いのですよ。掃除なら侍女やこの私にお申し付け下さい」
「でも私に出来ることは自分でしたいんです」
 ちょっぴり駄々をこねるように言っている。
「それでは困るのですよ。ご自身のお立場をお考え下さいな」
 その後も二人は何かを話しながら部屋の中に入って行った。
 俺はその場で呆然としていた。思いがけない発見があったからだ。それはエセルが思いのほか優しい人物であることでも、あのリトゥが困っているということでも無い。エセルと俺の意外な共通点を見つけたからである。

 夕刻までは中庭の散策であった。リトゥとエセルとで草木を眺めて時々話をしているようだ。あんなに言葉を話すエセルに、俺はまだ一度も出会ったことがない。それにいつも彫刻のようであったエセルが、まれに笑顔を見せる時すらあった。
 こうして柱に身を隠して眺めていないと、俺には見せてくれない表情だ。俺と彼女の間にはまだまだ広い溝があるのだと知った。
 俺の中でのエセルは完全に誤解されており、本当は根心の優しい人のように思えた。またリトゥも怒るだけの生物でないのだと理解した。ただやはり姫は姫らしくない。しかしどういう訳か、そのことについての疑問は、今になってはどうでもいいものとなりつつあった。
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