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17-03
しおりを挟む今浮かべているのはナシラの望んでくれたような顔ではないと、自分でも分かった。けれど彼にもう自分に嘘をつくなと言われた彼女は、隠すことなく自分の不安を吐き出した。
英雄の死。オツロの活性化。そして、帰らなかったあの人。
「もう……戦うのは、やめよう」
何が最善なのかは、分からなかった。
ナシラはまだ、アイゴケロースのために戦うべきなのかもしれない。彼が戦い続ければ確実に滅びは遠ざかる。たとえナシラが死んだとしても、また新しい複製体を作れば”英雄ナシラ・アルシャフト”は死なないのだ。
けれど、戦いをやめればアイゴケロースに降りかかる厄災は払われることなく、この世界に終わりが訪れる。大勢の人が死ぬ。
そしてナシラは世界を救わなかった英雄として、大勢の人に憎まれ、死ぬのだろう。
そんな未来を容易に想像していながら、しいらはナシラにもう戦わないでほしいと願った。
「終わりのときまで、ずっと私の、そばにいて」
たとえ死ぬ運命は避けられないとしても。彼に人々の恨みを背負えと、強いているのが分かっていても。
「私はもう、大事な人が帰ってこない未来なんて、嫌だ」
「しーら……」
震える手で彼に縋った。置いていかないでと、どこにもいかないでと、必死に願った。
「私の人生には、つらいことしか起きないの……あんなに、楽しかったことも、素直に笑えていたことも、あの日、お母さんが帰ってこなかった日から、全部つらいことに変わった」
希望に満ち溢れていた日々は、絶望へと反転した。彼女はその落差に耐えきれず、自ら命を絶った。
「お母さん、いってきますって言ったまま、帰ってこなかった。今日はいつものご褒美の日だって、楽しみに待っててって言ったまま、死んじゃった」
それだけだったら、彼女はまだ、頑張れたかもしれない。
辛くて苦しくても、もっと頑張ればいいことはあるって、希望が訪れることを信じられたかもしれない。
けれどそんなものはまやかしだ。苦痛を誤魔化すだけの、方便に過ぎなかった。それを否応なしに見せつけられてしまった。
「もうあんな思いしたくない、ナシラが帰ってくるのを待つのなんて嫌だ、ずっとそばにいて、もう離れないで」
たとえこの選択でどんなに苦しむことになろうと、それでも構わないと思った。もう、自棄だった。
彼さえ、ナシラさえ失わずに済むのなら。
「わたしを一人に、しないで……」
静かな沈黙のあと、ナシラの腕に力が入る。安心できるその温もりに感じ入っていると、落ち着いた彼の声が鼓膜をくすぐる。
「分かった」
「ナシラ……!」
「大丈夫。僕がしーらを守る。しーらの辛いことも、苦しいことも、全部僕が叩き潰す」
顔をあげれば、ナシラは優しい笑みを浮かべ、しいらにキスを落とす。僅かな胸の痛みを抑えながらも、しいらも彼が自分の願いを受け入れてくれた喜びに微笑んだ。
そっと、ナシラはしいらから離れると、ベッドを下りる。
「だから僕は、オツロを叩き潰してくる」
「……、え?」
「心配しないで。ちゃんと帰ってくるから」
自信満々にそう言い放つナシラに、しいらは自分の話を聞いていたのかと言いたくなる。
オツロに本当に勝てるのか。十二宮で最も強いと謳われた英雄オルトスですら、オツロとの最後の戦いで命を落としたというのに。
――聖女が英雄の力を疑ったとき……一体何が起こるか想像できますか?
「そんなの……っ、ナシラの力を信じてないわけじゃない。ナシラが勝って戻ってくるって、私も信じたい、信じたい……けど!」
何度だって裏切られてきた。いいことなんて、何一つ起きなかった。
もう無垢に信じ続けることに、彼女は疲れてしまったのだ。
「なんで……そばにいてくれるだけで、いいのに……」
必死にそう訴えても、ナシラは首を横に振るばかりだった。彼は泣き腫らしたしいらの目元を優しく撫でると、静かな声で言う。
「確かに、二人一緒なら、終わりも怖くない」
「なら……」
「でも、終わるまで、きっとしーらは苦しいままだ」
「分かってるよ。それでも君を失うよりずっといいって、そう言ってるの」
「もっといい方法がある。オツロがいなくなれば、しーらのつらいはなくなる。オツロを倒したあと、僕はずっとしーらのそばにいられる」
「だからそれは……!」
苦しみばかりを吐き出していた口が塞がる。愛おしさの滲んだ口付けは優しく、痛み続ける傷を慰めるかのように触れた。
「しーらは、もう信じられなくなったんだ。これから楽しいことが、嬉しいことがあるって」
「…………」
「それなら僕は、しーらが明るい未来を信じられるように、戻ってくるよ」
それはしいらにとって、絶望的な言葉だった。
なのにナシラは誇らしげに、ただ彼女への愛おしさだけを滲ませた笑みを浮かべた。
「僕がしーらの、希望になるよ」
頬を撫でていた手が離れる。そのまま彼は、しいらに背を向けた。
「ま、まって」
仄かに室内は明るい。それは既に空が明るみ始めていることを示していた。
「まって、ナシラ……」
追い縋るように彼女は手を伸ばした。もしもあの日に戻れたなら、母の手を掴んで止めたのにと、何度も後悔したときのように、彼の手を掴もうとした。
「代わりがいるなんて、思ってないよね」
英雄の複製。姿形だけが同じなだけの、偶像。
「死んでも次がいるからって、そんなこと、考えてないよね」
複製を繰り返すたびに、オリジナルの面影は消えていった。
なら、今のナシラの記憶は? 意思は?
複製したって、死んだ人が戻ってくるわけじゃない。そんなこと、当たり前のことなのに。
「私の知ってるナシラは、私が好きなナシラは、君しかいないんだよ……!」
必死に伸ばした手が、彼の手を取った。それと同時に、彼は目を丸くしながら振り返る。
そのままじっとしいらを見つめていたナシラは、笑った。心底嬉しそうに、満たされた顔をして、笑っていた。
「しーら」
涙でひどい顔をしている彼女を抱きしめ、彼は甘いため息をつく。
「愛してる」
まるで別れの言葉のような告白に、彼女は言葉を失った。
ナシラはまた離れていく。塔の大穴に向かって、歩いていく。
「すぐに帰ってくる。僕の、ナシラの帰りを、待っていて」
そうとだけ呟いた彼の姿は変貌する。普段と変わらない、歪な竜のような異形の姿に。
そしてそのまま、飛び去っていった。
17 了
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