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それからまたしばらく経って、久しぶりのナシラの休日がやってきた。
だがそれに以前のような喜びはなかった。むしろ苦痛だと言っても良かった。
「しーら、街に行こう。一緒に」
「ごめん。今日は出かける気分じゃないの。一人で行ってきたら?」
すぐにそう返せば、ナシラは俯いてしまう。
「しーらが行かないなら、僕も行かない」
「……そう」
傷付いたナシラの顔も、がんばって励まそうとする健気な姿も、そのどれもが逆にしいらを追い詰めていく。かといって彼を受け入れてしまえば、喪失の痛みを思い出すだけでなく、見も知らぬ過去の彼とガトリンの姿を想像して胸の内が爛れていく。
今の彼女の状況は八方塞がりだった。どこへ行こうと、何をしていようと苦しい。それは生き地獄とも形容できた。
いつもはすぐ後ろをついてくるナシラも、どこか少しだけ距離があった。そして日課のようにしいらが庭先の花の様子を見ていたとき、珍しく彼の姿はなかった。
いよいよ愛想が尽きたかと、締め付けられるような胸の痛みを無視して、彼女は虚勢を張った。
さっさとナシラが諦めてくれればいい。そうすれば自分も、これ以上彼を好きになることはないから、と。
「(花……)」
――しーらが育ててるやつは、誰かにあげるの
遠回しに欲しいと伝えてきたあの時を思い出して、しいらは頭を抱えてしまう。
両想いなのかもしれないなんて思ってしまった自分を恨んだ。最初の頃に思った通り、ナシラとは必要以上に関わるべきではなかったのに。
「…………」
悲しそうな彼の顔を思い出しながら、彼女はそっと花に手を伸ばした。
まだナシラに花を渡したことはない。でも、渡したら笑ってくれるだろうかと、何となく考えてしまった。
「(そうか、あのとき……ナシラも同じ気持ちで、花を)」
両手いっぱいの花を抱えて帰ってきたナシラの、あの純粋な笑み。今思い返せば、嬉しかったはずなのに、感謝のひとつも言えなかった。
「駄目だ、わたし……」
「ナシラ様、こんなところで何を……あっ」
使用人の声がするのと同時に、しいらの死角から見覚えのある白い頭が飛び出した。それにしいらが驚いていると、ナシラは気まずそうに横目でしいらの方を見た。
なんとなく二人の微妙な空気を察した使用人は、慌てた様子でこう続ける。
「メレフ様にご用だったのですよね? ナシラ様は本当に、メレフ様がお好きなんですね」
「好き……」
か細く、しいらの喉が鳴る。
体中から嫌な汗が噴出して、腹の底が一気に冷え切っていく。それは、次に彼の口から出てくる言葉を聞いてはいけないという、本能的な警告だった。
じっと、月光を思わせる美しい左目がしいらを見つめる。形のいい唇が、彼女への想いを口にした。
「しーらが好き。しーらを、あいしてる」
それを聞いたしいらは、その場から逃げ出した。
どこかに逃げたかった。聖宮から飛び出したかった。それでも彼女の貧弱な足では遠くへなど行けず、あっさりと覚えのある両腕に捕らえられてしまう。
「しーら、逃げないで」
「できない」
「しーら……好き、ずっと僕のそばにいて」
「ナシラ、お願い」
離れようともがいてもナシラは離してくれない。この状況に軽い絶望を覚えていると、ナシラの甘い声が鼓膜を震わせる。
「やっと、分かった。これが“あいしてる”なんだって……だから、しーら」
「じゃあどうして」
身を翻して、しいらはナシラを見つめた。余計にずきずきと痛み始める胸を抑えながら、抑えきれなくなった本音を口にする。
「どうして、名前のことも、ガトリンさんとのことも、教えてくれないの……?」
「……それ、は」
動揺するように目を逸らすナシラに、彼女は確信してしまう。
やっぱり自分は代わりでしかなかった。ナシラにとって、都合のいい存在だったんだ、と。
「もう苦しいのはいや……嫌なの……だから私は、死のうとしたのに」
「っ……しーら、死なないで、僕はしーらに生きててほしい」
「そんな言葉聞きたくない!」
咄嗟に出た怒声に、ナシラは今までにないほどに動揺を見せる。ゆっくりと腕の力は緩んで、それでも縋るように繋がった手が、必死に彼女を繋ぎ止めようとした。
「しーら……僕のこと、嫌いになった……?」
「……好きだよ、ナシラのこと」
「! なら」
「でも」
自分の手を掴む彼の手を、彼女は弱々しく払った。そして今自分がどんな顔をしているのかも分からないまま、吐き捨てた。
「もうナシラのこと、好きでいたくない」
簡単に解けてしまった手を惜しみながら、しいらは再び逃げ出した。
逃げてもどうにもならない。そんなことは分かっていた。でも、辛くて苦しくて、逃げる以外の方法を、彼女は知らなかった。
逃げるなと自分が言う。それからもまた逃げて、逃げて。
いつしか聞き慣れたあの轟音に呑まれることを望んだ。
だがそれに以前のような喜びはなかった。むしろ苦痛だと言っても良かった。
「しーら、街に行こう。一緒に」
「ごめん。今日は出かける気分じゃないの。一人で行ってきたら?」
すぐにそう返せば、ナシラは俯いてしまう。
「しーらが行かないなら、僕も行かない」
「……そう」
傷付いたナシラの顔も、がんばって励まそうとする健気な姿も、そのどれもが逆にしいらを追い詰めていく。かといって彼を受け入れてしまえば、喪失の痛みを思い出すだけでなく、見も知らぬ過去の彼とガトリンの姿を想像して胸の内が爛れていく。
今の彼女の状況は八方塞がりだった。どこへ行こうと、何をしていようと苦しい。それは生き地獄とも形容できた。
いつもはすぐ後ろをついてくるナシラも、どこか少しだけ距離があった。そして日課のようにしいらが庭先の花の様子を見ていたとき、珍しく彼の姿はなかった。
いよいよ愛想が尽きたかと、締め付けられるような胸の痛みを無視して、彼女は虚勢を張った。
さっさとナシラが諦めてくれればいい。そうすれば自分も、これ以上彼を好きになることはないから、と。
「(花……)」
――しーらが育ててるやつは、誰かにあげるの
遠回しに欲しいと伝えてきたあの時を思い出して、しいらは頭を抱えてしまう。
両想いなのかもしれないなんて思ってしまった自分を恨んだ。最初の頃に思った通り、ナシラとは必要以上に関わるべきではなかったのに。
「…………」
悲しそうな彼の顔を思い出しながら、彼女はそっと花に手を伸ばした。
まだナシラに花を渡したことはない。でも、渡したら笑ってくれるだろうかと、何となく考えてしまった。
「(そうか、あのとき……ナシラも同じ気持ちで、花を)」
両手いっぱいの花を抱えて帰ってきたナシラの、あの純粋な笑み。今思い返せば、嬉しかったはずなのに、感謝のひとつも言えなかった。
「駄目だ、わたし……」
「ナシラ様、こんなところで何を……あっ」
使用人の声がするのと同時に、しいらの死角から見覚えのある白い頭が飛び出した。それにしいらが驚いていると、ナシラは気まずそうに横目でしいらの方を見た。
なんとなく二人の微妙な空気を察した使用人は、慌てた様子でこう続ける。
「メレフ様にご用だったのですよね? ナシラ様は本当に、メレフ様がお好きなんですね」
「好き……」
か細く、しいらの喉が鳴る。
体中から嫌な汗が噴出して、腹の底が一気に冷え切っていく。それは、次に彼の口から出てくる言葉を聞いてはいけないという、本能的な警告だった。
じっと、月光を思わせる美しい左目がしいらを見つめる。形のいい唇が、彼女への想いを口にした。
「しーらが好き。しーらを、あいしてる」
それを聞いたしいらは、その場から逃げ出した。
どこかに逃げたかった。聖宮から飛び出したかった。それでも彼女の貧弱な足では遠くへなど行けず、あっさりと覚えのある両腕に捕らえられてしまう。
「しーら、逃げないで」
「できない」
「しーら……好き、ずっと僕のそばにいて」
「ナシラ、お願い」
離れようともがいてもナシラは離してくれない。この状況に軽い絶望を覚えていると、ナシラの甘い声が鼓膜を震わせる。
「やっと、分かった。これが“あいしてる”なんだって……だから、しーら」
「じゃあどうして」
身を翻して、しいらはナシラを見つめた。余計にずきずきと痛み始める胸を抑えながら、抑えきれなくなった本音を口にする。
「どうして、名前のことも、ガトリンさんとのことも、教えてくれないの……?」
「……それ、は」
動揺するように目を逸らすナシラに、彼女は確信してしまう。
やっぱり自分は代わりでしかなかった。ナシラにとって、都合のいい存在だったんだ、と。
「もう苦しいのはいや……嫌なの……だから私は、死のうとしたのに」
「っ……しーら、死なないで、僕はしーらに生きててほしい」
「そんな言葉聞きたくない!」
咄嗟に出た怒声に、ナシラは今までにないほどに動揺を見せる。ゆっくりと腕の力は緩んで、それでも縋るように繋がった手が、必死に彼女を繋ぎ止めようとした。
「しーら……僕のこと、嫌いになった……?」
「……好きだよ、ナシラのこと」
「! なら」
「でも」
自分の手を掴む彼の手を、彼女は弱々しく払った。そして今自分がどんな顔をしているのかも分からないまま、吐き捨てた。
「もうナシラのこと、好きでいたくない」
簡単に解けてしまった手を惜しみながら、しいらは再び逃げ出した。
逃げてもどうにもならない。そんなことは分かっていた。でも、辛くて苦しくて、逃げる以外の方法を、彼女は知らなかった。
逃げるなと自分が言う。それからもまた逃げて、逃げて。
いつしか聞き慣れたあの轟音に呑まれることを望んだ。
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