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再び目を開けたときには、既に外は暗くなり始めていた。それを確認したしいらは、怠い身体に鞭打ちながら塔へと向かう。ナシラの帰還を出迎えるために。
けれど、日が沈みかけたいつもの時間になっても、見慣れた巨体が空に現れることはなかった。
使用人たちも不安そうな顔をし始め、騒ぎを聞きつけたルーヴェが駆けつけてくる。その間も無情なまでに時間は流れ、外は完全に暗くなっていって、不気味な夜に呑み込まれていく。
「…………」
一番その場で動揺を露わにしていたのは、しいらだった。
この状況には覚えがある。彼女の人生を一変させてしまったあの出来事と、ナシラが帰ってこない今の光景が見事に重なってしまう。
「しいら殿、大丈夫ですか」
もはやルーヴェの呼びかけに応える余裕もなかった。
ただ怖くて、恐ろしくて、不安で胸が押し潰されそうだった。このままナシラが帰ってこないという最悪の未来を想像した。今朝の歯切れの悪い会話が最後に交わした言葉になってしまうことに絶望した。
「(やっぱり、いいことなんて……生きていたって、辛いことしかない)」
線路に飛び込む直前の自分が、蘇ってくる。
自分しかいない家。もう喋ることのない母だったもの。その現実を直視するほどに、自分の行く先に幸福があるだなんて微塵も思えなかった。逃げるように外へ飛び出して、そこで幸せそうに笑っている人の姿と自分を比べてしまった。もうどこにも居たくない、このまま消えてしまいたいと思った。
「(こんなに苦しいならもういっそ)」
耐えられない。我慢できない。
もう苦しみたくなかった。もう絶望したくなかった。けれどそれらは生きている限り付きまとってきて、視野狭窄に陥った彼女にはたった一つの逃走経路しか残っていないように思えた。
ああ、死とは何て無慈悲で空虚で、だからこそ救い足り得る。
「メレフ様! ルーヴェ様! ナシラ様が戻られました……!」
「!」
使用人の呼び声にしいらは顔を上げた。それと同時に、塔の中へと巨躯の竜が飛来する。
竜の姿は一瞬にして人に変わり、それと同時にはらはらとその周りを何かが散った。彼の身体を見れば特に外傷はなく、今日も無事に帰ってきたようだった。
「ナシラ……!」
咄嗟に駆け寄ろうとすれば、彼は何やら床に散らばったものを集めている。それを思考停止した状態で見つめていれば、何かを拾い終えたナシラは嬉しそうな顔をしてしいらの方を向いた。
「しーら」
差し出されたのは、両手いっぱいの花だった。
きっと帰りが遅くなったのは、花を摘んで慎重に運んできたからなのだろう。もちろん、花を摘んできた理由などひとつしかない。
彼は覚えていたのだ。二人で街に出かけたとき、花の贈り物をしいらが喜んでくれたことを。だから、元気のない彼女のために、また花を贈ろうと思ってくれたのだ。
けれど、ナシラの純真な心遣いと今のしいらの心中には、あまりにも大きな隔たりがあった。今の彼女には彼の意図に気付くことも、それに対して感謝を口にすることもできなかった。
笑みどころか涙を零し、しいらは強くナシラを抱きしめた。受け取られなかった花が、再びはらはらと床に落ちていく。
「しーら……」
「お願い、ナシラ。これからは早く帰ってきて」
声は驚いてしまうほどに震えていた。身体も、心も、冷え切ってしまっていた。
「花なんていらないから、お願いだから、いつもの時間に帰ってきて……」
「……分かった」
気落ちしたような彼の声に、ずきりと胸が痛む。けれどそれ以上にしいらは、過去に自分を殺したあの悲劇がまたひっそりと忍び寄ってくる錯覚に震えていた。
苦痛から逃れたい彼女は思った。ナシラを失いたくない。けれど、これ以上彼を好きになりたくない、と。
だから彼の無垢な気遣いを受け止められなかった。自分勝手な行為だと、酷いことをしているとは分かっていても。
「しーら、泣かないで」
優しい口付けが目元に降ってくる。涙を拭って、慈しむように頭を撫でられて、そのままナシラは慰めるかのように彼女に触れる。
二人だけになった広い空間で、熱くなった身体を深く繋げて、蕩けるような快楽に咽ぶ。
それでも、彼女の心だけは恐怖で冷え切ったままだった。
12 了
けれど、日が沈みかけたいつもの時間になっても、見慣れた巨体が空に現れることはなかった。
使用人たちも不安そうな顔をし始め、騒ぎを聞きつけたルーヴェが駆けつけてくる。その間も無情なまでに時間は流れ、外は完全に暗くなっていって、不気味な夜に呑み込まれていく。
「…………」
一番その場で動揺を露わにしていたのは、しいらだった。
この状況には覚えがある。彼女の人生を一変させてしまったあの出来事と、ナシラが帰ってこない今の光景が見事に重なってしまう。
「しいら殿、大丈夫ですか」
もはやルーヴェの呼びかけに応える余裕もなかった。
ただ怖くて、恐ろしくて、不安で胸が押し潰されそうだった。このままナシラが帰ってこないという最悪の未来を想像した。今朝の歯切れの悪い会話が最後に交わした言葉になってしまうことに絶望した。
「(やっぱり、いいことなんて……生きていたって、辛いことしかない)」
線路に飛び込む直前の自分が、蘇ってくる。
自分しかいない家。もう喋ることのない母だったもの。その現実を直視するほどに、自分の行く先に幸福があるだなんて微塵も思えなかった。逃げるように外へ飛び出して、そこで幸せそうに笑っている人の姿と自分を比べてしまった。もうどこにも居たくない、このまま消えてしまいたいと思った。
「(こんなに苦しいならもういっそ)」
耐えられない。我慢できない。
もう苦しみたくなかった。もう絶望したくなかった。けれどそれらは生きている限り付きまとってきて、視野狭窄に陥った彼女にはたった一つの逃走経路しか残っていないように思えた。
ああ、死とは何て無慈悲で空虚で、だからこそ救い足り得る。
「メレフ様! ルーヴェ様! ナシラ様が戻られました……!」
「!」
使用人の呼び声にしいらは顔を上げた。それと同時に、塔の中へと巨躯の竜が飛来する。
竜の姿は一瞬にして人に変わり、それと同時にはらはらとその周りを何かが散った。彼の身体を見れば特に外傷はなく、今日も無事に帰ってきたようだった。
「ナシラ……!」
咄嗟に駆け寄ろうとすれば、彼は何やら床に散らばったものを集めている。それを思考停止した状態で見つめていれば、何かを拾い終えたナシラは嬉しそうな顔をしてしいらの方を向いた。
「しーら」
差し出されたのは、両手いっぱいの花だった。
きっと帰りが遅くなったのは、花を摘んで慎重に運んできたからなのだろう。もちろん、花を摘んできた理由などひとつしかない。
彼は覚えていたのだ。二人で街に出かけたとき、花の贈り物をしいらが喜んでくれたことを。だから、元気のない彼女のために、また花を贈ろうと思ってくれたのだ。
けれど、ナシラの純真な心遣いと今のしいらの心中には、あまりにも大きな隔たりがあった。今の彼女には彼の意図に気付くことも、それに対して感謝を口にすることもできなかった。
笑みどころか涙を零し、しいらは強くナシラを抱きしめた。受け取られなかった花が、再びはらはらと床に落ちていく。
「しーら……」
「お願い、ナシラ。これからは早く帰ってきて」
声は驚いてしまうほどに震えていた。身体も、心も、冷え切ってしまっていた。
「花なんていらないから、お願いだから、いつもの時間に帰ってきて……」
「……分かった」
気落ちしたような彼の声に、ずきりと胸が痛む。けれどそれ以上にしいらは、過去に自分を殺したあの悲劇がまたひっそりと忍び寄ってくる錯覚に震えていた。
苦痛から逃れたい彼女は思った。ナシラを失いたくない。けれど、これ以上彼を好きになりたくない、と。
だから彼の無垢な気遣いを受け止められなかった。自分勝手な行為だと、酷いことをしているとは分かっていても。
「しーら、泣かないで」
優しい口付けが目元に降ってくる。涙を拭って、慈しむように頭を撫でられて、そのままナシラは慰めるかのように彼女に触れる。
二人だけになった広い空間で、熱くなった身体を深く繋げて、蕩けるような快楽に咽ぶ。
それでも、彼女の心だけは恐怖で冷え切ったままだった。
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