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「一体何を考えているのですか、貴女は」


 しいらにとってそれは最悪の展開だった。

 楽しい休日のお散歩は、不幸にも街に出ていたガトリンと鉢合わせたことによって終わってしまった。その後しいらとナシラはガトリンに連れられ、強制的に聖宮へと戻ることになった。
 外出をしたことが露見してしまったことで、ナシラはルーヴェと共に他の司祭たちに連れられてどこかへ行ってしまった。そして、しいらはガトリンと一対一の状態で叱責を受けていた。

 ガトリンは厳格だ。ただの気分転換にしいらがナシラを外に連れ出したと知ると、すぐにしいらへの侮蔑と怒りを露わにする。


「ナシラがアイゴケロースにとってどれほど重要な存在なのか、貴女は何も理解していない! 彼はこの世界の守護者なのですよ?」


 容赦のない正論がぐさりとしいらに突き刺さる。外出のことはルーヴェからは内緒だと言われていたのだ、基本的にやってはいけない行為に分類されるだろう。そのため、しいらに反論の余地は一切なかった。


「全く……またオツロが活発になり始めているという噂もあるのに。良いですか、英雄の存在は――」
「…………」


 ガトリンの小さな呟きはしいらにも聞こえた。そしてその内容は、先ほど市場で聞いたものと通じる。
 海の異変。もしもそれがオツロの兆候ならばと想像した。それが本当なのだとしたら、今は平穏なアイゴケロースも、他の宮と同じように様々な災厄に見舞われることになるのかもしれない。


「(そしたら……ナシラはオツロをもう一度……)」


 じっと彼女は、まだ自分の手にある花を見つめた。戦いに出て傷付くナシラの姿を思い出しながら。


「……!」


 そこで、強く根元を握っていたせいか、手の中の花が微かに萎んでいることに気付く。それを見たしいらは、謎の不安に襲われる。

 それは無意識にか、今まで考えようとしなかったことだ。

 ある日朝にナシラを見送って、そのまま日が沈んでも彼が帰ってこなかったら。
 オツロとの戦いに敗れて彼が……死んでしまったら。


「あの、ガトリンさん」


 まだ長々と説教を続けていたガトリンの言葉を遮って、しいらは恐怖のあまり声を上げた。


「英雄って、どうやって選ばれるんですか……?」
「突然なんですか?」
「いや、その……オツロのことも心配だし、新しい戦力、とか」


 中途半端に本来の意図を隠そうとした言葉は、歯切れ悪く口から溢れてくる。


「そうすれば、無理にナシラに戦ってもらわなくても……」
「……っ、何を腑抜けたことを言っているのです……!」


 今までで一番の怒声が、聖宮に響く。


「聖女の貴女が英雄の勝利を信じなくてどうするのですか! 誰よりも英雄の力を認め、勝って戻ってくることを信じることが、聖女の最も重要な心得なのですよ!」


 強く手を握りしめ、震えるガトリンを見たしいらは思った。
 今自分が抱えている感情を、ガトリンも抱いたことがあるのだろう。だからこそ、彼女はこんなに震え、怯え、そして怒っている。


「聖女が英雄の力を疑ったとき……一体何が起こるか想像できますか?」


 ガトリンが言いたいことは薄々と理解できた。けれど今のしいらにとって、その言葉はどうしても聞きたくないものだった。
 耳を塞ぐために、思わず彼女はナシラから貰った花を手離そうとした。けれどその前に、覚えのある力強い腕に抱き寄せられる。


「ガトリン」
「! な、ナシラ……」
「帰れ。これ以上、しーらに関わるな」


 見上げれば、そこにナシラは居た。まるでガトリンからしいらを庇うかのように。
 ナシラの姿を見たガトリンは、以前と同じように顔を青くする。けれど今度は引かずに、彼に食ってかかった。


「ナシラ、これは貴方のためでもあるの。聖女が、彼女がしっかりしなければ……!」
「もうお前は僕の聖女じゃない。お前には関係ない」


 傍目から見ても、それは残酷な言葉だった。
 ナシラの辛辣な発言にショックを受けたガトリンはよろけ、その場に座り込んでしまう。それをナシラは苦々しげな表情で見つめるも、しいらの手を取ってその場を去ろうとする。


「ま、待って、ナシラ…………、オルトス……!」


 聞き慣れない名前に、一瞬ナシラは足を止める。どこか未練を感じさせるような表情で俯くも振り返ることはせず、何も言わずに歩き出した。
 道中はお互い無言のまま、ナシラの寝室に辿り着く。そこで大きくため息をつくナシラに、しいらは意を決して問いかけた。


「あの、さ……ガトリンさんと、やっぱり何かあった?」
「…………」


 変わらず無言で返してくるナシラに、しいらは不安に揺れてしまう。そして先ほど聞いた知らない名前のことも、恐る恐る口にした。


「……オルトス、って……だれのこと?」
「…………」


 その問いにもナシラはすぐには答えない。けれど次に口から出た言葉も、予想していたものだった。


「知らない」
「そ、っか」


 教えてくれないんだ。そう、しいらは思ってしまった。

 彼女は覚えていた。ルーヴェが前に、“ナシラ・アルシャフト”が英雄に与えられる名であると説明していたことを。そしてそれを覚えていた彼女は、本当の名前を教えてくれないかと、あのとき言うつもりだったのだ。

 前の聖女、ナシラと恋仲だったガトリンが、オルトスと彼を呼んだ。それだけで、分かってしまう。


「……しーら」


 大きな手が伸びてきて、彼女の手を取る。そして壊れ物を扱うかのように、優しく抱き締められる。
 いつもは、この腕の中に居られるだけで心地よくて、幸せだった。けれど今は、酷く胸が痛んだ。

 それはきっと、恋という名の病から生まれた、悍ましい痛みだった。




11 了
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