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05-03
しおりを挟む「ナシラ」
眠たそうに目を擦ってふらふらと歩いてきたのは、英雄ナシラ・アルシャフトだった。彼はしいらの姿を捉えると、そのまま彼女の方へ歩いてくる。
「どうかした?」
「……おなかすいた」
あまりにも単純な欲求を口にするナシラに、思わずしいらは笑みが溢れてしまう。こんな風に、日々ナシラが子供のように見えてきて、ふとした拍子に微笑ましく思ってしまうのだ。
誰か使用人を捕まえようとしいらが周囲を見渡したとき、気付いた。ナシラの姿を目にしたガトリンの表情が、じわじわと青くなっていることに。
「……、ナシラ」
消え入りそうな声でガトリンがそう呼ぶと、ナシラも視線をガトリンへと向ける。数秒ほど黙り込んで鈍く瞬きをした彼は、抑揚のない声で言う。
「どうして、ここに居る」
「わ、わたし、は……」
先程の威勢などどこかへと消えて、ガトリンは視線を忙しなく泳がせる。その様子は明らかに普通ではなく、今にも倒れてしまいそうだった。
「しいら殿、ナシラに食事を、頼めますか」
ナシラとガトリンの間に入るようにルーヴェは立つと、そうしいらに頼んでくる。明らかに変だと思いながらも、しいらは頷いてナシラの手をとった。
その途中で彼女はナシラに聞いた。ガトリンと過去に何かあったのかと。
「…………」
返事はいつもの、無言だった。
その後、ナシラの食事を使用人に任せて再びルーヴェの元へ戻れば、そこには既にガトリンはいなかった。それに安心したように息をつけば、ルーヴェは恭しく頭を下げた。
「本日はガトリン殿との面会、お疲れ様でした。まさか貴女とガトリン殿があそこまで相性が悪いとは……思いませんでした」
「まぁ、人間どこで反りが合わないかなんて分かんないからね」
しいらの直感は見事当たった。ガトリンはしいらとは相容れないタイプの人間だ。
彼女は、たぶん強すぎるのだ。きっと真っ当な環境に生まれて周囲の人々に大事にされて、そして成功してきたのだろう。そう思えば、僅かに嫉妬のようなものが胸の奥底から湧き上がってくるような気がした。
「……しいら殿」
「聖女の仕事はできないって言ったこと、気にしてるんですか?」
心中を言い当てられたルーヴェは静かに頷く。しいらのその言葉が本当なら、ルーヴェ含む司祭たちにとってはかなりの死活問題だろう。それはしいらにも分かっている。
「別に今すぐやめたりしないよ。っていうか、前から思ってたけど、どうせ聖女って期間限定でしょ? まさかお婆ちゃんになるまで英雄様の相手するわけでもないはずだし」
「ええ……気付いておられましたか」
「そりゃそうだよ。女は若さが命、ってね。ガトリンさんの話を聞いてたときも、何となく聖女って長く続けられない仕事なんだなって思った」
英雄としての生命線。それを自覚すれば、聖女という役割の重さは相当なものだと分かる。
だからこそ、聖女は英雄に生きる理由を与える存在でなければならない。例えば瑞々しい肉体も、優しい抱擁も、生きてなければ得られないものだ。それらを求める単純な欲求こそが、オツロを遠ざけるのだろう。謂わば聖女そのものが、英雄にとっての生きる理由たらなければならないのだ。
「ですが安心してください。もしも引退することになっても、貴女のその後の生活は我々が……」
「あー、いいよそういうの。引退するようなことになったら、私の役目はそれで終わりってことだから」
明るい表情でそんなことを言うしいらに、再びルーヴェは俯いてしまう。そういう仕草もまた、しいらに対する罪悪感の現れ、なのだろう。
「それまでは何とかするよ。ほら、ヤケクソってやつ。どうせなるようにしかならないんだから」
「ヤケクソ、ですか」
「そうそう。大事なものなんてなーんにも持ってない身軽人間の原動力なんて、そんなもんだよ」
投げやりにそう吐き捨てて、しいらは大きく伸びをした。できればガトリンとはもう二度と会いたくないなと思いながら。
そこで気になるのは、やはりナシラと会った時のガトリンの反応だった。ナシラに聞いても教えてくれなかったため、しいらはルーヴェに尋ねる。
「そういや、ナシラとガトリンさんって知り合い? 普通に考えたら……ナシラの元聖女、ってことになるのかな」
「ええ、貴女の前任、ナシラ・アルシャフトの最初の聖女です。ですが」
そこで言葉を切ったルーヴェは、少し悩むように口元を抑えた。けれどしっかりとしいらの目を見ると、衝撃的な一言を放った。
「ナシラとガトリン殿は……かつて恋人同士だったのですよ」
「…………」
しいらは瞬きを繰り返した。そして頭の中に響くルーヴェの言葉を咀嚼していく。
「……、は?」
口から出てきたのは、なんとも不機嫌そうな声、だった。
05 了
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