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しおりを挟む「もしもし、スタール先輩。仕事終わりですか?」
夜、煌びやかなブティックで服を物色しながら、ノイナはかかってきた電話に出た。
電話の相手は彼女の先輩だ。彼は彼女と比べるのもおこがましいほど仕事ができて、経験豊富な諜報員だった。そのせいか忙しく、本部にはほとんど顔を出さないため、こうして度々電話をするくらいでしか話す機会はなかった。
『ちょうど仕事を済ませたところだよ』
「……今回はいくつのお仕事があるんです?」
『それは言えないな。けれど、近いうちに一息つけそうだよ。そうしたら十ヶ月ぶりに顔を合わせることになるね』
思えばそんなに長い間会っていないんだなぁとノイナはぼんやりと思った。スタールは仕事の終わりに律儀に電話をかけてくるため、あまり離れているという感覚が薄い。
『今いる国は酒とチョコレートが有名だけれど、お土産は何が欲しい?』
「チョコレートですか!」
『老舗のザッハトルテなんか、ノイナのお眼鏡に適うんじゃないかな』
「ザッハトルテ……!」
スタールの電話が楽しみなのは、お土産は何がいいかという話をしてくれるからだ。スタール本人は戻ってこられないが、そのたびに本部に土産が届くというなんとも手厚いサービスだった。
美味であろうスイーツにノイナは目を輝かせるが、すぐに現状を理解して俯く。もしかしたらその絶品ケーキを味わう機会はないかもしれない。
(死んだら、これが先輩との最後の電話になるのかな……)
しんみりとしてしまったノイナは、今のうちに言いたいこと言っておこうと口を開いた。
「先輩、お仕事頑張ってくださいね。応援してます」
『ん? あ、ああ』
「ザッハトルテ、楽しみにしてますから。あぁー、味を想像したら今すぐ食べたくなってきました」
『そんなに食べたい? 分かった、できる限り早く食べられるように手配するよ。明日の早朝には着くようにするから』
「あはは、ありがとうございます、先輩。感想はメールで、できたら送ります」
『ああ、楽しみにしてるよ。それじゃノイナ、また』
そこで電話が終わってしまう。任務のことを言ってしまいそうになったが、たとえ先輩相手だったとしても、情報を漏らすようなことはしてはいけないと自分を諌めた。
もう少し話がしたかったなと思っていると、別の携帯が鳴る。それは彼女にとって、命懸けのミッションの開始の合図だ。
『予定通り、ターゲットを例の酒場で発見。一人よ、今なら近付ける』
「了解です」
『……幸運を祈るわ。あんたのこと忘れないからね』
電話の相手である先輩、クリスティーナから縁起でもない激励をもらいつつ、荷物を一部取り替え、しっかりと着替えも化粧も済ませたノイナは動き出した。同時に頭の中で、クリスから教えてもらったことを思い返す。
「相手は相当勘が鋭いから、下手に踏み込みすぎないこと。最初の接触は顔見知りになるくらいを目標にしなさい」
「は、はい」
「あんたはこういうのに不慣れだから、基本的に嘘を吐いちゃだめ。痛いところ突かれそうになったら、半分本当で半分嘘くらいな曖昧な言い方をすること」
(難しい……)
ノイナはハニートラップの経験などない。一応諜報員として最低限の訓練をしたことはあるが、そんな小手先の技術がゲブラー相手に通用するはずがないだろう。
だからほぼ自然体で接する、というのが方針だった。何せノイナは、ゲブラーが出没しやすい酒場にも行ったことがない、ついでに男性経験もない、素朴な田舎娘も同然だったからだ。
「たまたま入った酒場で見つけた男に、無警戒に近寄る田舎娘。イケメン狙い、っていうのを露骨に出しなさい。下心が見え見えのほうが逆に警戒され難いわ」
クリスの言葉を頭の中で繰り返し、意を決して酒場の扉を開ければ、薄暗い雰囲気に圧倒されそうになる。けれどそういう微細な表情の揺れも、彼女の素人っぽさを強調してくれた。
「お嬢さん、悪いけどウチは一見さんお断りでね」
「えっ、そうなんですか……?」
店に入れば、強面の店員がノイナに声をかけてくる。穴場らしいこの酒場は、一般人が入れる場所ではないようだ。
「すいません、とっても良い雰囲気のお店だと思って……どうしても、ダメ、ですか?」
「ダメダメ。君みたいな子が来る店じゃないから」
一応善意で門前払いしてくれている店員にノイナは焦る。否、これもクリスの作ってくれた筋書き通り、ではあった。
しょんぼりと俯いて踵を返そうとする。それと同時に誰かが席を立つ音がして、軽やかな店内の音楽に埋もれない綺麗なテノールが響く。
「まぁまぁ、いいじゃない」
その声にノイナが顔をあげれば、そこには軽薄そうな笑みを浮かべた優男が立っていた。
「今このお店、女の子のお客さんいないし、華がないなぁって思ってたところなんだよね」
「ですが……」
「一見さんがダメなんでしょ? じゃあ、この子は今俺が紹介したってことで。いいよね?」
店のルール的には問題ない。しかし、どう見ても一般人らしい、しかも純朴そうな女相手に、店員は躊躇っている。
ここはノイナが押す場面だ。店員が戸惑っているうちに、彼女は嬉しそうな笑みを浮かべた。
「ほんとですか? ありがとうございます!」
「いえいえ、どういたしまして」
「一度でいいから背伸びしてこういう大人な雰囲気のお店に入ってみたくて……嬉しいです」
優しく接してくれる男に好感を持ったように彼女は振る舞った。
「ここのお酒は強いのが多いけど大丈夫?」
「大丈夫です! それに折角ですから、強いのも飲んでみたいなって」
「へぇ……」
あからさまに優男は目を細めてノイナを舐め回すように見つめてくる。女好きという評判は嘘ではなかったというか、本当に女遊びが好きなのだろう。
「良かったら俺と飲まない? いろいろ教えてあげるよ」
「え、いいんですか! ぜひお願いします!」
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