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1章 |僥倖《ぎょうこう》と|邂逅《かいこう》

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-慶永Side-

梅雨のニュースと同時に気持ちが少し憂鬱ゆううつになる。

毎年やってくるあのジメジメ感。

曇天の空から降る雨と湿気のダブルパンチのおかげで着ているシャツすらも邪魔に感じる。

身体を起こすことすら億劫になり、帰宅と同時にすべての行動を停止してしまいたくなるような嫌な時間だ。

寝る前の習慣、いや、くせになっていたスマホいじりをやめて強引に眠ろうとするがなかなか寝つけない。

睡眠アプリを開き、よく眠れるというソルフェジオ周波数の音を流す。

何度か寝返りを打っているうちに眠っていた。

(グサッ!)

その音で目が覚めた。

大量の汗と同時に吐き気がした。

またあの夢だ。

身に覚えのない部屋で誰かに何かで刺される夢。

さっきの音と言いこの夢は一体何なんだ……

**

扉を開けると湿度の高いモワッとした空気が俺の眼鏡を曇らせる。

改札に入り電車に乗ると、再び湿気に攻撃される。

曇った眼鏡を拭いてかけ直す。

今度曇らない眼鏡を買いに行こう。

彼女とやりとりしている中で最近話題の映画、『最も近い遠距離恋愛~美しきリノス~』を観に行くことになった。

数年前ネット小説で話題になり、そこから映画化されたものだ。

そういえば映画を観に行くのなんていつぶりだろう。

中学生のとき地元の友達と行った以来だ。

駅前でスマホをいじりながら待っていると、

「おはよ」

その明るく元気な声は彼女だ。

スマホを仕舞って目を合わせる。

挨拶を交わしたとき、あることに気がつく。

「アイライン変えた?」

メイクのこととかよくわからないけれど、前回よりも少し目元が明るくなっていた気がした。

彼女は下を向きながら、

「うん」

そう答えた。

この反応はどっちだ?

喜んでいるのか?それとも嫌がっているのか?

彼女の頬が少し赤くなっている。

エレベーターを待っているとき、彼女がバッグから見覚えのあるものを取り出して渡してきた。

「返すの遅くなってごめん」

サネカズラのハンカチだ。

そんなに重要なものでもなかったから貸したことをすっかり忘れていた。

「また必要になったら言ってね」

これは個人的見解だが、エレベーターの中って何もしゃべってはいけないような独特な威圧感というか雰囲気がある。

だから何を話そうかというよりもすぐ横にいる彼女が退屈にしていないか気になってしまう。

休日ということもあり、中には多くの人がいた。

コーラとポップコーンを買い着席する。

話題の映画ということもありシートはほぼ埋まっていた。

ポップコーンをシェアしようとカップを渡そうとしたとき、彼女の手が触れてしまった。

「ごめん」

「う、うん」

何だろう。
今日はやけに彼女の反応が薄い気がするが、その瞳はしばたたいていた。

一瞬ではあったがその白く透き通った肌は俺の鼓動を瞬時に早めた。

緊張と動揺で身体が熱を帯びている。

その動揺を抑えるためにコーラをがぶ飲みした。

しかし、程なくすると、

ヒック、ヒック。

吃逆しゃっくりが止まらなくなってしまった。

タイミング悪くもうすぐ上映時間。

その前に止めないと。

吃逆は横隔膜の痙攣けいれんによるミオクローヌスが主因と言われているが、定かではない。

だから人によって止め方が違う。

両耳に指を入れたり、強い衝撃を与えたり、膝を胸につけて前屈まえかがみになるなどあるが、ここは過去の成功体験を踏まえて、息を数秒間止めてみよう。

……ヒック。

ダメだ、止まらない。

このままだと映画どころではなくなる。

「ねね、良い止め方があるけん、ちょっと屈んで」

彼女はどこか楽しそうな表情をしていた。
不敵な笑みというよりも新しいゲームを始めるときに似たワクワクしたそんな感じに思えた。

背に腹は変えられないので、言われるがまま前屈みになる。

すると、

ドンッ!

背中に大きな衝撃を受ける。

驚きと痛みが同時にやってきて声が出なかった。

彼女が背中を平手打ちしたのだ。

急な騒音に周囲から冷たい視線を浴びて、すいませんと小さな声でお詫びする。

しかし、驚いたおかげで横隔膜の痙攣が止まった。

「ありがとう」

「どういたしまして。お母さんが吃逆出たときにようやっとった」

吃逆が止まったと同時に照明が暗くなった。

スクリーンに集中していると、NO MORE映画泥棒のカメラ男とパトランプ男が出てきた後、本編が始まった。

上映が終わり館内が明るくなると、両手を天に向けて、うーんと言いながら背伸びする人やジュルジュルとはなすする人、あーだこーだ言いながら映画館を後にする人などがいた。

横に座る彼女を見ると、その目は充血していた。

彼女がなみだを拭くのを待って映画館を出た。

「面白かったね」

「普通に面白かった」

「最後の展開は意外でびっくりした」

「ホント、伏線回収もすごくてばり泣けた」

「紫苑ちゃん、クライマックスのとき号泣して洟ジュルジュルいってたよ」

「最後切なすぎやし。ってか慶永くんもちょっと泣いとったよね?」

「いえ、泣いてませんけど」

本音を言うと泣くのをこらえていた。

会いたいのに会えない。
想いあっているのに気持ちを伝えられない。

そんな切なすぎる展開に涙腺が崩壊しそうだったが、眼鏡を拭くフリして誤魔化した。

「ホントかなぁ?」

本当に泣いていないのか確かめるようにこっちを覗き込む彼女の顔がすぐ目の前にある。

恥ずかしさのあまり思わず顔を背けると、それに気がついた彼女も顔を赤らめていた。

「またハンカチ借りることになっちゃったね」

クライマックスのとき、ヒロインが主人公の腕の中に亡くなったくらいから彼女の洟を啜る音が聞こえはじめた。

俺も落ちてきそうな泪を必死に戻しながら、返ってきたばかりのサネカズラのハンカチを渡した。

それを手に取った彼女はそこからずっと泣きっぱなしだった。

「いつでもいいから」

「すぐ返すけん」

その後感想を言いあいながらカフェに向かっている途中、信号待ちをしていると塀の上にいた1匹の猫に目がいった。

「ねぇ見て。この猫ちゃんばり可愛い」

塀の上に立っていた猫は大型でクルミ型の釣り上がり気味の目でこちらを見ていた。

仏頂面で気だるそうにしている。

「これ、ラガマフィンかな?」

「ラガマフィン?紫苑ちゃんもレゲエ好きなの?」

「いや、ラガマフィンはこの猫ちゃんの品種のことやけど」

猫のラガマフィンは『いたずらっこ』という意味があり、レゲエのラガマフィンは『レゲエ好きな不良の若者たち』を総称して呼ぶ。

同じ呼び方でも意味が全く違う。

普通に考えていきなりレゲエの話になるわけないよな。

「猫のこと詳しいんだね」

「昔、猫ちゃんを飼おうと思ったことがあって色々調べてたことがあったんやけど、お父さんが犬好きやけん飼うの諦めた」

猫の品種と音楽のワードを勘違いして1人暴走したことが急に恥ずかしくなり、強引に話題を変えた。

「紫苑ちゃん、いつか福岡に帰りたいって思う?」

「東京は良いとこやけど、いつかは帰りたいかな」

友達、家族、景色、思い出。

それがたくさん詰まっている地元。

それを易々と捨てられる人はそういない。

返ってくる答えはわかっていたはずなのに、少し悲しい気持ちになった。
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