11 / 38
第一章 イガキ
〈11〉4文字の伝言
しおりを挟む
日曜は二日酔いで無為に潰し、翌日、まだ気だるい体で布団から這い出て支度をした。車の暖気をしながら、バックミラーで仮面のチェックを行う。
教育実習以来である朝のホームルームは、肩透かしなほどつつがなく終了した。授業は担当していたために自己紹介の類も省けたのだから、こんなものかもしれない。
冬子は窓際の席にいる。連絡事項を読み上げながら何度か様子を窺ったが、彼女はこちらを見つめ返すでもなく、普段通りだった。まるで、先週のことが嘘だったかのようだ。
小休止を挟んで、そのまま国語の授業に入る。
「今日からこの時間、現代文が古文に変わります。教科書を持ってきていない人はいますか」
訊ねると、パッと一つの手が挙がった。
「センセ、月曜日の一時限目から古文はきついですっ」
盛大にスベッてくれたのは、奈緒だった。頭が痛い。何かあればアシストが欲しいとは思っていたが、そういうことじゃあない。古文だって初めてではないだろう。
反応に困っていると、その空気感で笑いが起きた。結果論だが、仕方ない。今週末は甘いものでも用意しておいてやろう。
「確かに、本間さんの気持ちも分かります。それでは、皆さんに古文の魅力を知っていただけるよう、私が気に入っている、綺麗な言葉をご紹介しましょう」
無意識で黒板に『斎垣』と書きかけて、消す。代わりに『追い風用意』と書いた。
「追い風用意。この言葉は、当時の女性の身だしなみや心遣いとして、衣服に香を焚いておくことを意味するものです」
ふと、冬子が目に入った。柔らかな薔薇の香りを思い出す。悲しいかな、結局は冬子から離れられない自分がいた。
「センセー。香を焚いたんなら、残り香用意、とかじゃないんですかあ」
「お、梅津さん、いい質問ですね。ここでいう『追い風』とは、残り香をもたらす風のことではなく、想いを寄せる男性の心、あるいは、自分の恋心そのものに対する追い風だと、私は考えています」
何人かの女子生徒がほうっと頬を染めて、顔を見合わせる。重畳。手応えはあったか。
しかし冬子は、奈緒の小ボケに頬を多少緩ませたくらいで、他の女子と一緒になって色めき立つでもなく、普段通りだった。女子の細やかな変化にも気付かない系男子を自称する身ではあるが、それでも。ごく自然体に見える。
そんなモヤモヤを抱えたまま、一週間が過ぎた。
SNSのIDは交換していたから、何度も連絡を入れてみようかと迷ったが、たまたま目にした新聞の隅に、警察官が女子校生にメッセージを送り続けた末に逮捕へ至った記事などを見てしまったのだから、間が悪い。
自分は、彼女を想うことができるのだろうか。愛することができるのだろうか。そうでなくとも、異食症という闇から救うことができるだろうか。
わからない。
放課後の雑処理をしながら考える。事前の引き継ぎがスムーズだったおかげか、クラス担任という肩書になっても仕事は然程増えていなかった。オメデタ女に少しは感謝しておこう。
「桜、散っちゃったねえ」
不意に、隣のデスクから話しかけられて、ビクッとする。
「そ、そうですね」
一組担任の工藤は苦手だった。自分を美人だと思っているタイプで、五十に迫ろうかというのに化粧は念入りで、歩くときの腰の振り方が尋常ではない。
人当り自体は良く、目をかけてくれていることは有り難いし、事実生徒からも慕われているが、以前別の学校で生徒を喰いまくったために飛ばされてきたのだとか、実は今も我らがハゲ教頭とイケナイ関係だとか、黒い噂の尽きない人物である。
もっとも今となっては、自分も人のことを言えないが。
「はっきりしない態度ね。あ、長谷堂クンは若いから、春は散る気配もないかしら」
「ははは、まさか。散るどころか、咲きすらしませんよ」
「あら、そうなの。誰か紹介しましょうか」
「い、いえ、お気持ちだけで」
どうにかこの場を逃れる言葉を探していると、デスクの上でスマートフォンが震えた。
画面に初めて通知された名前に、心臓が跳ねる。
『旧校舎で』
たった四文字のそっけない文面。それだけでも、歯車が動いたような気がした。
彼女が自分を求めているということが、自惚れだったとしても。我ながら情けないが、ようやく、決心がついた。
そういえば今日は金曜日だったか。また奈緒を待たせてしまうだろうが、構わない。冷蔵庫にシュークリームが入っているから食べてくれとメッセージを入れ、スマホの電源を切った。
鞄を引っかけ、机から煙草を取り出し、工藤にはお先に失礼しますと告げた。
「あら、仕事早いのね。若い人はエネルギッシュで羨ましいわ」
「いえ、荒木さんの引き継ぎがしっかりしていたおかげです。助かりますよ、ホント」
愛想笑いは、職員室を出たところで脱ぎ捨てた。
教育実習以来である朝のホームルームは、肩透かしなほどつつがなく終了した。授業は担当していたために自己紹介の類も省けたのだから、こんなものかもしれない。
冬子は窓際の席にいる。連絡事項を読み上げながら何度か様子を窺ったが、彼女はこちらを見つめ返すでもなく、普段通りだった。まるで、先週のことが嘘だったかのようだ。
小休止を挟んで、そのまま国語の授業に入る。
「今日からこの時間、現代文が古文に変わります。教科書を持ってきていない人はいますか」
訊ねると、パッと一つの手が挙がった。
「センセ、月曜日の一時限目から古文はきついですっ」
盛大にスベッてくれたのは、奈緒だった。頭が痛い。何かあればアシストが欲しいとは思っていたが、そういうことじゃあない。古文だって初めてではないだろう。
反応に困っていると、その空気感で笑いが起きた。結果論だが、仕方ない。今週末は甘いものでも用意しておいてやろう。
「確かに、本間さんの気持ちも分かります。それでは、皆さんに古文の魅力を知っていただけるよう、私が気に入っている、綺麗な言葉をご紹介しましょう」
無意識で黒板に『斎垣』と書きかけて、消す。代わりに『追い風用意』と書いた。
「追い風用意。この言葉は、当時の女性の身だしなみや心遣いとして、衣服に香を焚いておくことを意味するものです」
ふと、冬子が目に入った。柔らかな薔薇の香りを思い出す。悲しいかな、結局は冬子から離れられない自分がいた。
「センセー。香を焚いたんなら、残り香用意、とかじゃないんですかあ」
「お、梅津さん、いい質問ですね。ここでいう『追い風』とは、残り香をもたらす風のことではなく、想いを寄せる男性の心、あるいは、自分の恋心そのものに対する追い風だと、私は考えています」
何人かの女子生徒がほうっと頬を染めて、顔を見合わせる。重畳。手応えはあったか。
しかし冬子は、奈緒の小ボケに頬を多少緩ませたくらいで、他の女子と一緒になって色めき立つでもなく、普段通りだった。女子の細やかな変化にも気付かない系男子を自称する身ではあるが、それでも。ごく自然体に見える。
そんなモヤモヤを抱えたまま、一週間が過ぎた。
SNSのIDは交換していたから、何度も連絡を入れてみようかと迷ったが、たまたま目にした新聞の隅に、警察官が女子校生にメッセージを送り続けた末に逮捕へ至った記事などを見てしまったのだから、間が悪い。
自分は、彼女を想うことができるのだろうか。愛することができるのだろうか。そうでなくとも、異食症という闇から救うことができるだろうか。
わからない。
放課後の雑処理をしながら考える。事前の引き継ぎがスムーズだったおかげか、クラス担任という肩書になっても仕事は然程増えていなかった。オメデタ女に少しは感謝しておこう。
「桜、散っちゃったねえ」
不意に、隣のデスクから話しかけられて、ビクッとする。
「そ、そうですね」
一組担任の工藤は苦手だった。自分を美人だと思っているタイプで、五十に迫ろうかというのに化粧は念入りで、歩くときの腰の振り方が尋常ではない。
人当り自体は良く、目をかけてくれていることは有り難いし、事実生徒からも慕われているが、以前別の学校で生徒を喰いまくったために飛ばされてきたのだとか、実は今も我らがハゲ教頭とイケナイ関係だとか、黒い噂の尽きない人物である。
もっとも今となっては、自分も人のことを言えないが。
「はっきりしない態度ね。あ、長谷堂クンは若いから、春は散る気配もないかしら」
「ははは、まさか。散るどころか、咲きすらしませんよ」
「あら、そうなの。誰か紹介しましょうか」
「い、いえ、お気持ちだけで」
どうにかこの場を逃れる言葉を探していると、デスクの上でスマートフォンが震えた。
画面に初めて通知された名前に、心臓が跳ねる。
『旧校舎で』
たった四文字のそっけない文面。それだけでも、歯車が動いたような気がした。
彼女が自分を求めているということが、自惚れだったとしても。我ながら情けないが、ようやく、決心がついた。
そういえば今日は金曜日だったか。また奈緒を待たせてしまうだろうが、構わない。冷蔵庫にシュークリームが入っているから食べてくれとメッセージを入れ、スマホの電源を切った。
鞄を引っかけ、机から煙草を取り出し、工藤にはお先に失礼しますと告げた。
「あら、仕事早いのね。若い人はエネルギッシュで羨ましいわ」
「いえ、荒木さんの引き継ぎがしっかりしていたおかげです。助かりますよ、ホント」
愛想笑いは、職員室を出たところで脱ぎ捨てた。
0
お気に入りに追加
1
あなたにおすすめの小説
ちょっと大人な体験談はこちらです
神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない
ちょっと大人な体験談です。
日常に突然訪れる刺激的な体験。
少し非日常を覗いてみませんか?
あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ?
※本作品ではPixai.artで作成した生成AI画像ならびに
Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。
※不定期更新です。
※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。
サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由
フルーツパフェ
大衆娯楽
クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。
トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。
いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。
考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。
赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。
言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。
たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。
パワハラ女上司からのラッキースケベが止まらない
セカイ
ライト文芸
新入社員の『俺』草野新一は入社して半年以上の間、上司である椿原麗香からの執拗なパワハラに苦しめられていた。
しかしそんな屈辱的な時間の中で毎回発生するラッキースケベな展開が、パワハラによる苦しみを相殺させている。
高身長でスタイルのいい超美人。おまけにすごく巨乳。性格以外は最高に魅力的な美人上司が、パワハラ中に引き起こす無自覚ラッキースケベの数々。
パワハラはしんどくて嫌だけれど、ムフフが美味しすぎて堪らない。そんな彼の日常の中のとある日の物語。
※他サイト(小説家になろう・カクヨム・ノベルアッププラス)でも掲載。
小さなことから〜露出〜えみ〜
サイコロ
恋愛
私の露出…
毎日更新していこうと思います
よろしくおねがいします
感想等お待ちしております
取り入れて欲しい内容なども
書いてくださいね
よりみなさんにお近く
考えやすく
ママと中学生の僕
キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。
希望が丘駅前商店街~黒猫のスキャット~
白い黒猫
ライト文芸
ここは東京郊外松平市にある希望が丘駅前商店街、通称【ゆうYOU ミラーじゅ希望ヶ丘】。
国会議員の重光幸太郎先生の膝元であるこの土地にある商店街はパワフルで個性的な人が多く明るく元気な街。
その商店街にあるJazzBar『黒猫』にバイトすることになった小野大輔。優しいマスターとママ、シッカリしたマネージャーのいる職場は楽しく快適。しかし……何か色々不思議な場所だった。~透明人間の憂鬱~と同じ店が舞台のお話です。
※ 鏡野ゆうさんの『政治家の嫁は秘書様』に出てくる商店街が物語を飛び出し、仲良し作家さんの活動スポットとなってしまいました。その為に商店街には他の作家さんが書かれたキャラクターが生活しており、この物語においても様々な形で登場しています。鏡野ゆうさん及び、登場する作家さんの許可を得て創作させて頂いております。
コラボ作品はコチラとなっております。
【政治家の嫁は秘書様】
https://www.alphapolis.co.jp/novel/210140744/354151981
【希望が丘駅前商店街 in 『居酒屋とうてつ』とその周辺の人々 】
https://www.alphapolis.co.jp/novel/274274583/188152339
【日々是好日、希望が丘駅前商店街-神神飯店エソ、オソオセヨ(にいらっしゃいませ)】
https://www.alphapolis.co.jp/novel/177101198/505152232
【希望が丘駅前商店街~看板娘は招き猫?喫茶トムトム元気に開店中~】
https://ncode.syosetu.com/n7423cb/
【希望が丘駅前商店街 ―姉さん。篠宮酒店は、今日も平常運転です。―】
https://www.alphapolis.co.jp/novel/172101828/491152376
【Blue Mallowへようこそ~希望が丘駅前商店街】
https://www.alphapolis.co.jp/novel/265100205/427152271
【希望が丘駅前商店街~透明人間の憂鬱~】
https://www.alphapolis.co.jp/novel/265100205/427152271
【希望が丘駅前商店街~黒猫のスキャット~】
https://www.alphapolis.co.jp/novel/265100205/813152283
ARIA(アリア)
残念パパいのっち
ミステリー
山内亮(やまうちとおる)は内見に出かけたアパートでAR越しに不思議な少女、西園寺雫(さいおんじしずく)と出会う。彼女は自分がAIでこのアパートに閉じ込められていると言うが……
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる