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第一章 二度目のエチュード

〈3〉

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 僕の人生で二度目の手話勉強が始まってから、早くも三日が経った。もう何年になったろうブランクは、かなりの足枷――もとい手枷になっていたようで、予想以上に苦労した。
 ピアノでも、数日弾かなければほとんど指が動かなくなる。暗記した楽譜も、それを演奏できていた自分のイメージも頭にあるのに、指だけが付いていかないんだ。
 二度目の勉強と言うのは、それに似ている。新しい単語を覚えるのはそんなに難しくなかったけど、見覚えのある単語ともなると、気持ちばかりが逸って指がもつれる。

 それでも、はじめは挨拶から始まって、なんとかあかりと片言ながらもお手話べりができるくらいにはなってきていた。

『雪、ない、けど、寒いね』

 駅から出てきたあかりに声をかけると、おお、と小さく拍手をしてくれた。

『覚えるの、早い。私の、お母さんは、五年、かかった』
『僕は、小さい頃、少し、やってたから、かな』

 僕と手話で話す時には、あかりも努めてゆっくり話してくれていた。ありがたいのだけど、あのマシンガンが飛んでこないことは、寂しいようにも感じる。
 三日経った駅前には、募金の中学生もいなくなっていた。

『寒い』

 僕の隣で肩を震わせたあかりは、手袋をしていた。白い毛糸の可愛らしいそれは、手編みのものだろうか。手話を読み取るために手を見ていたのに、手の変化に気づけなかった。

 変化と言えば、一昨日にもあった。

 僕が年下に見えると言ったことを気にしていたのか、次に会った時のあかりは、同じデザインでもアクセサリーが青色のヘアゴムを付けてきた。それでも最後まで『似合う?』と訊いてこなかったのは、やっぱり女の子なんだろうな。
 結局僕は帰った後で、赤い方が好き、という内容のメッセージを送った。たっぷり三十分くらい経ってから「バカ」の二文字だけが返ってきたのを憶えている。やっぱり、クール系の青よりも、活発なイメージの赤の方があかりらしい。

『今日、時間、大丈夫、なの?』
『大丈夫』

 あかりは、僕が初めて読み取った彼女の手話を繰り返し、はにかんだ。

『お母さん、遅くなるから』

 ふと、あかりが空を見上げる。

『降って、きたね』

 気が付けば、ふわり、と粉雪が舞い降りていた。このくらいならまだ支障はないだろうけど、念のため駅の屋根下へとあかりの手を引く。
 僕は基本的に徒歩で帰るから、帰るタイミングはどうでもよかった。この三日間、あかりが帰る時間になるまで、こうして雪宿りをするのが日課になっていた。

「あっ……」

 あかりが、筆談用のメモ帳を取り出そうとして、一緒に引き抜いてしまった本を落とした。
 手袋をしたままだと、思いがけないところで感覚が狂うものだ。僕もいつだったか、ある国の王妃の前で演奏する役目を賜った時、タクシードライバーなんかがしているような白手袋をさせられたことがある。鍵盤を押した感覚が全然違って、強弱が付けづらかったり、思わず隣の鍵を押してしまったりと、練習に骨が折れたっけ。

 あかりが慌てている様子と、自分の淡い思い出に苦笑しつつ、本を拾い上げる。ブックカバーがされていてタイトルは判らないけど、ポーチに入れるには少し狭いような、大判の本だ。
 乾いた床に落ちたことが幸いしたのか、目立った汚れはない。念のため袖口で払ってから、あかりに手渡す。

『ありがと』

 そう手話で返したあかりが、思い出したように噴き出した。

『あの時の逆だね』

 書かれた文字に、僕は返事の代わりに微笑む。出会った時と同じメモ帳を受け取って、ぱらぱらとページを遡った。

『お話はできますか』

 僕が見せたページに、あかりは目を丸くした後で、急にわたわたと首や手を振り始めた。

『もしかして、それ僕の真似?』
『当たり』
『そんなに変な踊りしてた?』
『してたしてた』

 最後なんか、書き終える前からあかりが笑っていたため、複雑な気持ちになる。そんなに酷かったかな。明後日の方向に顔を背けると、優しい雪の羽がそっと頬を冷ましてくれた。
 そこでやっと、自分が照れていたことに気付いた。

 駅を中心に建ち並ぶ店々の通りでは、街頭スピーカーで有線放送を流しているようだった。ポップ調やギターアレンジを施された、きらきら星のインストが風に乗ってくる。
 クリスマスソングといえばきらきら星。きらきら星のアレンジと言えばモーツァルトなんだけど、別にモーツァルトは、きらきら星の変奏曲を作ろうとした訳ではない。もともとあの曲は、クリスマスソングではなくて恋の曲だ。「あのね、お母さん」と、話に華を咲かせる女の子の歌。日本でクリスマスソングとして知られたのは、英語で替え歌を作った歌手がいたから。その影響か、モーツァルトの曲の方も『きらきら星変奏曲』という名前で知られているらしい。

 不意に、肩を突かれて我に返る。
 そんな僕に、あかりは耳に二本の指を刺すようにしながら首を傾げた。

『何か、聴こえる?』

 訊ねられて、答えを意味する手話が分からずにいると、あかりが手帳を渡してくれる。

『きらきら星が流れてるんだ』
『ピアノ、弾けるの?』

 あかりは、文字と僕の指を交互に指し示す。どうやら、無意識に指で太ももを叩いていたらしい。なんだかんだ言って、僕はピアノに未練たらたらだ。

『今は、たまに母さんの手伝いで弾いてるくらい』
『お母さんは、ピアノの先生とか?』
『福祉士やってるんだ』

 へえ、とあかりが息を漏らした。やっぱり、耳の不自由な身としては、福祉士という職業は感心があるのだろうか。

 その後もいくつかのよもやま話をして笑い合っていると、ロータリーに差し掛かった車がパッシングしながら近くまでやってきた。それに気づいたあかりが残念そうに口をすぼめる。

『お母さん、来たみたい』

 なるほど、クラクションだと聴こえないから、パッシングで示したのか。
 感心していると、車のドアが開いて、妙齢の女性が降りてきた。この人があかりのお母さんだろうか。あかりとは打って変わって、大人しそうな人だ。

『こんにちは』

 声に出しながら手話を付けて挨拶すると、あかりが『母さんは聴こえるよ』と横から教えてくれた。

「こんにちは。あなたが冬彦くんね? あかりの母の、ゆかりです」
「どうも、はじめまして」

 改めて会釈をする。紫さんが「娘がお世話になってます」と言いかけたところを慌てて止めた。むしろ、拙い手話の相手になってもらっているのは僕の方だ。

「この子ったらね、あなたとゆっくり話がしたくって、私に時間をずらすように言うんですよ」
「ああ、それで。迎えは遅くなると聞いてはいたんですが」

 気恥ずかしかった。あかりが僕と話をしたいと言ってくれていたことが嬉しかった。
 あかりは僕の袖を引っ張って、何の話、と目だけで尋ねてくる。自分から紫さんは聴者だと説明した手前、割り込みづらいのだろうか。
 それに紫さんが、僕の代わりに手話で答えた。

『うちの娘は可愛いでしょう? って話』

 途端、顔を赤らめたあかりが、マシンガンで紫さんに捲し立てた。口でも発してくれている紫さんとは違って、あかりの言っていることは残念ながら読み取れなかったけれど、どうやら怒っているらしい。

 まだまだだな。
 母さんとの練習でも声の補助が付いていたけれど。頼らないようにしなくちゃ。
 二人が帰った後、決意を新たにしたところで、不意にスマホが通知を告げた。

『冬彦くんと話すのは好きだから。「話してあげている」じゃなくて、「話したい」って伝わってくるのが、分かる。手話の練習、頑張って』

 あかりからだった。

「好き、かぁ」

 それが恋愛感情で言ったのではないと知りつつも、嬉しい。
 紫さんから聞いていたことでも、本人から言われると嬉しい。

 かけられながらも、息苦しくない。心地いい期待だった。

 僕はテキストボックスの欄をタップして、『僕も好き』『頑張る』とだけ入力して踵を返した。
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