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『節制』

子供部屋はアンダー・ザ・シー

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 あなたの思い出の中で一番古い思い出は何ですか?

 僕は初めてお母さんの顔を見たときです。
 ずーっと眩しかっただけの真っ白な世界がだんだん鮮明になるんです、眠って目が覚めると少しずつ。物の輪郭がはっきりしてきて、ぼんやりと色が分かるようになって、そして生まれて初めて僕はお母さんと目が合ったんです。

 もうそのときの温かさも、おっぱいの味も匂いも忘れてしまったけれど、あのときのお母さんの優しい顔は今でもはっきり覚えていますよ。
 絵に描けるくらいはっきりと。

 あなたはどうですか? 
 きっと覚えていないでしょう?

 分かっています。人はそんなことすぐに忘れるって、何でも知っている学校の先生が教えてくれました。覚えているはずがないと、僕は間違っているんだと。
 クラスの友達たちにとってもそんなことは常識でした。
 だから僕という存在は異常だったのでしょう。でも良識あるクラスの友達は非常識な僕に常識を熱心に根気づよく教えてくれました。

 だから、もう僕は知ってるんです。
 僕は馬鹿で、嘘つきで、ズルで、マザコンで、劣等人だと。

 あなたの思い出の中で一番悔しかった思い出は何ですか?

 僕は鼻毛と髭を生やされたお母さんの絵を必死で隠したことです。
 あのときとは逆で、世界の色や輪郭がぼやけて、目を開けているのに、眠っていないのに、視界が真っ暗になるんです。

 困りました。本当に困りました。
 お母さんが泣くんですもの。
 目がじんじん熱くなる感覚を今でもはっきり思い出せます。体が勝手に再現してしまう程にね。

 そこから、僕はお母さんと戦ったんです。
 キャンパスという戦場を絵筆一本で、最強の必殺技を放ちました。

 七年と六ヶ月の僕の思い出を乗せた必殺技は、地元の地区を打ち破り、県境を越え、東京まで届きました。

 そして僕の人生が大きく変わった。
 僕は非常識じゃなかった、異常だった。でも劣等人じゃない、著しく優れた才能を持っていたんだ。

「その才能を育てて見ませんか?」

 カッコいいおじさんとカッコいいお兄さんが手を差し伸べてくれました。
 夢を見ているんじゃないかと思いました。
 だって日本を代表する芸術家と雑誌で引っ張りだこの画家ですよ。

 お母さん、覚えてますか?
 そのとき、抱きしめてくれたでしょう?
 あのときね、僕の足、膝で踏んでたんですよ。
 大丈夫、そんなに痛くなかったよ。おかげで夢じゃないんだって分かったし。

 ……ね、お母さん、ちょっと聞いてください。

 すぐに僕はたった一人の特別なんかじゃないって知りました。
 放心させるほどの歌唱力と演奏力を持った子。
 全く知らない言語を一日でマスターしてしまう子。
 一日中紙に計算式を書き続けている子。
 重力を無視した動きを何でも無いような顔でやってみせる子。

 その子供部屋の中では僕はちょっと記憶力がいいだけの絵が上手な普通の子でしたよ。

「どんな絵描いてるの?」
 そう言って僕の顔を覗き込んだミコちゃんの前髪はシャラランと綺麗な音がしました。
 そうそう、こんな感じです。
 あれは音楽室にあった、金の細い棒が……ちょっと待ってください、今数えますから……二十、三十……三十六本吊るされているシャラシャラした楽器。
 そう、これがミコちゃんの髪だ。

 ミコちゃんは僕たちにとってお姉ちゃんのような存在で、手術前は歌を歌ってくれるんです。
 ミコちゃんの歌声を聞くと不安や恐怖が消えて安らかな気持ちになるから不思議です。
 代わりにミコちゃんが手術のときは僕たちが歌をプレゼントしたんですよ。

 入れられた子供部屋は、壁も床も全面白かったんです。
 でも僕は青い絵の具と白い絵の具を画用紙に乗せますよ。

 壁にみんなが魚の絵を描いて、その後に僕はお母さんと見たディズニー映画を思い出しながら海の底の絵を描き足したんです。
 そしてこんな風にみんなで合唱したんです。

 僕に仲間が出来た思い出です。
 ほら、僕ってこんなに笑うんですよ。お母さんも見たこと無いでしょ?

 上手、素敵、写真みたいって、お母さんは僕の絵をいっぱい褒めてくれましたね。嬉しかった。大人の人たちも、お母さんみたいに褒めてくれました。嬉しかった。
 仲間達も僕を褒めてくれました。「さすが」「やっぱり」って初めて言われました。すごくすごく嬉しかった。

 お母さん、僕はとうとうお母さんの年を越えてしまいましたね。

 僕の最後の作品、完成です。
 随分と雑なタッチですよね。やっぱり限界なんだ。

 二時か。そろそろ来ますね。
 部屋の四隅から催眠ガスが噴射されます。
 外からヒールの音がします。死神の足音ですよ。

 僕の手足よ、さらばです。
 丸儲けんですよね、生きてるだけで。僕は生きている。期限切れの僕は生かされている。有り難いことなんです。
 だから僕は抵抗せず、意識を手放そう。

「…………もっと、描きたい」
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