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『勇気』

あい らいく いんぐりっしゅ

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 一年前のボクはもう少しできる人間だと思っていた。
 始めて不登校案件を一つ任されたときは、緊張よりも「やっとか」という思いの方が強かった。

 しかし、先輩の仕事ぶりを横で見学するのと、実際に自分でやってみるのとではまるで違った。
 初めて分かった先輩方の凄さと自分の不甲斐なさ。
 一向に縮まらない不登校生との距離。

「はぁ~~~~」

 最近、ため息が増えた。

「ため息なんて吐いてどうした?」
「岩井先輩、おはようございます」
「おはよう」

 特にこの岩井先輩は『はぴねす』のエリート中のエリートだ。
 担当した不良少年や不登校問題を全て一月足らずで解決してしまう。
 ボクはこの人の後ろに引っ付いて勉強させてもらったはずなのに、情けない。

「はぁ~」
「隣で何度もため息吐くなよ」
「あ、すみません」
「まあ、机に齧り付いてうんうん唸っても仕方がないから、ちょっと付き合えよ」
「え、どこに?」
「過去、俺が担当した子達の様子を見に行くんだよ」
「先輩、そんな事やってるんですか?」
「まあな。お前も何かのヒントになるかもしれないぞ」
「先輩、お供させてください」

 荷物をまとめていると、所長室の扉が開いた。
 中から二人の青年が出て来る。
 その二人を見つけるや否や、すぐに先輩が頭を下げた。
 
「おはようございます!」

 ボクも慌てて頭を下げ、チラリと二人を窺った。

 一人は格闘ゲームに出て来る女キャラみたいな子。
 服の上からでも分かる筋肉量だ。
 身長は177センチある僕の目線より高い。190センチくらいは裕に越えているだろう。
 腰まで伸びた長い髪は、先端十五センチ程からカールしている。
 
 もう一人はイケメンの大学生。
 隣の彼女にインパクトでボロ負けしていて、これといった特徴は見つけられない。

 そんな二人を所長が見送りに行くのをボクは訝しんだ。

「何ですかあの子達は?」

 すると先輩は凄い剣幕で「いいか、よく聞け」と名前を教えてくれた。

「あの方々はキッドさんこと熊野時子くまのときこさんと、久保田峰雪くほたみねゆきさんだ。あの子じゃない……!」
「キッドさん?」
「我々にもそう呼ぶ事を許されている、心の広いお人だ」

 先輩は心酔しきった瞳を誰もいない玄関へ向けた。
 それを見てボクは「出資者のお嬢様ですか?」という質問を飲み込んだ。
 
 先輩の運転で僕は近くの中学校にお邪魔しることになった。
 昼休み中の校内は騒がしく、誰もが自由にこの時間を過ごしていた。

 二年三組の教室。

「佐藤恭平君いる?」
「岩井さん、こんにちは!」

 一人、文庫本に向き合っていた佐藤君が元気に挨拶をした。
 もし彼に犬の尻尾が生えていたら、きっと千切れるほど振っているだろうと思える位の満面の笑みだ。

 これがあの恭平か?
 『はぴねす』の定期会議で名前の上がらない事がない、学校の先生もお手上げで見切りをつけた、親も半ば諦めかけていた、あの佐藤恭平か?

 茶髪は全てバリカンで綺麗に5ミリに揃えられて、眉毛の剃った所には産毛が伸び、学ランも襟のフックまで閉めている。
 目ヤニがちょっと溜まっているのに可愛げを感じさせる、模範的な生徒に生まれ変わっていた。
 それは先輩も同じだったようで「ちゃんと顔洗ったのか?」とハンカチで彼の目ヤニをとってやっていた。

 凄い。凄すぎる。
 人はここまで変わるのか。人をここまで変えられるのか。

「さ、先輩、どうやったんですか?」
「ん? ……いや、佐藤君は更生施設に入っていたからな、大した事はあんまり」

 佐藤恭平が会話に入って来た。

「自分は更生施設に入れられました。そこで岩井さんは自分の話を聞いてくれました。初めてだったんです、自分の心のうちを吐露するのは。こんなに話を真面目に聞いてくれる大人も、初めてでした」

 対話か。
 照れくさそうに佐藤君の頭を撫でる先輩と、同じく照れながらも逃げずに頭を撫でられる佐藤君を見て、そう思った。

 佐藤君の後ろにもう一人、男子生徒が並んだ。
 彼も知っている。
 佐藤恭平の犯罪といっても差し支えない凄惨ないじめの被害者、萩原忠信君だ。

 彼の外見もガラリと変わっていた。
 引きこもりのときのやん被った(ボサボサだった)髪型が、ベリーショートの前髪アップに変わって、額が露になっている。
 メガネからコンタクトに変え、目が生き生きとしていた。
 そして彼も目ヤニがまた溜まっていた。

「萩原君、いつから学校に?」
「二月ほど前からです。最初はかなり勇気が入りましたが、今じゃ休む事が普通じゃなくなりました」

 本当に凄い先輩を持った。

「萩原君は更生施設に入ってなかっただろう? どうやって不登校を脱却できたの?」
「対話です、毎日家に来て。僕がどんなに突っぱねても毎日です。
 そして僕の部屋の前で恭平が更生施設で自分を変えようと努力している事を話してくれるんです。
 でもそれだけだと十分から十五分程度で済むんですけど、岩井さんはそこから一時間、僕が喋るのを待つんですよ。
 毎日こんな事されたらね、さすがに折れちゃって。そこから色々喋りましたね。だから、岩井さんは僕にとって恩人でもあり親友でもある……みたいな」

 ボクは任された案件のあの子に対して、そこまで真摯に根気強く接していただろうか。
 岩井先輩に撫でられ、かつてのいじめっ子と笑い合い拳と拳をぶつけ合う、萩原君をみてそう思った。

 ボクと先輩はその足で彼のもとへ向かった。
 ボクが任されている芦屋楽人君のもとへ。

「こんにちは、楽人君。今日、更生した元不良の子達に会って来たんだ。見違えるように変わっていたよ。……ボクもね、もっとお互いの事を——」
「何度言えば分かんだよ。もう無理なんだよ! 頼むから、構わないでくれよ」

 それ以上、彼が口を開く事は無かった。

 帰りの車中、重い空気の中、芦屋楽人君の家に着いてから一言も言葉を発しなかった先輩が口を開いた。

「お前には勇気が足りない」

 と。その声は低く、怒っているのが分かった。

「勇気ですか?」
「ああ、勇気だ。お前、学校のときも忠信には直接口が聞けたのに、恭平には俺をクッションに使っただろ。勇気がねんだ、お前は」
「はぃ……」
「いいか、勇気は大事なもんだ。あいつらは『勇気』を得て自分を変える事ができた。強靭な相手にそして弱い自分に挑む事が出来たんだ」
「はぃ……」
「……お前に『勇気』を与えてやるよ」
「……どうすれば勇気を持てますか?」

「……幸神会って知ってるか?」

 先輩がハンドルを切った。車は『はぴねす』への帰り道から外れる。
 この道は更生施設だ。
 すぐにとんがり帽子が目に入る。
 ボクは半ば引きずられるように中に入った。

 一階の共有スペースにいた六人の不良達が一斉に僕たちに振り向いた。
 口々に浴びせられる恫喝。

 しかし、先輩は聞こえていないのか、管理人室の中にある地下室へと続く階段をおり始めた。
 ボクもまだ入る事を許されていない地下だ。

 バァンと勢い良く開かれた地下室の扉。
 大きなスクリーンいっぱいに映し出されたコメディー映画。
 それを食い入るように見つめる太った少年。
 先輩が口を開いた。

「ポップコーンはいかがですか?」

 少年がのそりと動いた。
 顔がこちらを向く。

「うあああぁぁぁーーー!!」

 反射的に逃げ出すが、逃げられない。
 先輩がボクの腕を掴んではなさい。

「離してください! 離してッ! 痛ッ!? 離せ!!」

 腕がひしゃげる程の握力。
 ボクが逃れようと暴れ回っているのに、先輩は直立不動のまま。
 頬笑みすら浮かべている。

「離せよ! 離せぇーー!!」

 その間ものそりのそりと近づいて来る化け物。
 狼のように鼻と口が大きく前に伸びたその顔で、のそりのそりと。
 だるだるの腹が胸まで開き、溢れた臓物を引きずりながら、のそりのそりと。
 わずかに口を開けば、溢れた唾液が糸を引く。

「ハ、ハナ……ハナ、ハナセ……はな、はな……はなせ……離せ」

 化け物の声が次第にボクの声になる。

「やめろ……来るな! 来るな!」
「来るな来るな、離せ離せ」
「いやだ……いやだいやだイヤダァァァ――——」


 ——————


 スクリーン上で向かい合った男女が熱いキスを交わしていた。
 それを食い入るように見つめる太った少年と、後ろで控える岩井を慕っていた一人の男。
 彼の目には目ヤニが溜まっていた。
 
 その頃、児童相談所『はぴねす』の事務所に一通の電話がかかって来た。

 プルルル、プルルル、プルル、ガチャ。

「お電話ありがとうございます。児童相談所『はぴねす』の岩井です」
『あの、今日、二人の子供を保護したんですけど……』
「はい。なんというお名前でしょうか?」

 電話口でも笑顔で応対する岩井の目にも目ヤニが溜まっていた。
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