基本中の基本

黒はんぺん

文字の大きさ
上 下
1 / 19

基本中の基本1……お姫さまはたいへん

しおりを挟む
 昔むかし、あるところです。小石川 しじみと申します。実は驚くべきことに、この物語の主人公はあたしではないんですよ。それどころかお話にあたしは登場しません。つい昔といってしまいました。昔ではなく、未来のお話でした。舞台は、これは後でお話ししましょうかね。あたしは他の物語世界の住人で、無関係なあたしがなぜ語り手に駆り出されたのか、説明が難しい。というかあたしにもよくわからないんですが、せいぜい努めさせていただきます。何卒よろしくお願いします。
  さてここは海を望む崖、その崖に刻まれた細い道です。狭い、千鳥足で歩こうものなら海へそのままドボン。そんな恐ろしい道であります。通行は慎重にね。いつもなら見事なオーシャン・ビュー。横たわる水平線、深い青空、きらめく海面。きめ細かな波、波、波……さざ波。ほとんど凪いでいるのです。平和そのもののむしろ山に囲まれた湖みたいな穏やかな海でしたが……。
 岩肌の道は、海に突き出たあたりで終わっています。岬というほど大げさな地形でもないけれど、道の終端は少し広くなっていて、でもまあテントが張れるほどではありません。そこから海面までは、あたしなら飛び込む勇気はありませんねぇ、結構ありますよ。
 いつもなら。
 今は。海水が重々しくうごめいていつもより高いところに打ち当たっています。激しく砕ける波。その狭い広場を、って変な日本語だな、海水がなめる。足下あしもとはすでにずぶ濡れです。海面が上昇してるんだわ。すねを叩いていた水は太ももまで来てる。なぜか、髪も顔もぐっしょり。そして、流れ落ちるように引いていく。
 見上げて。暗い雲が随分低いところまで垂れ込めてるわ。時々青白く光り……そう、気圧が下がれば海水を持ち上げるのよ。嵐が襲ってきたの。大粒の雨が叩きつけてきた! 雨なのに、まるで石つぶてのよう、ずいぶん量感のある雨。痛い雨。
 さっき足下っていいました。……誰の? 雨と波がそのきれいなお御足みあしを洗ってくれます。ピアノの白鍵みたいな色の白鍵みたいな滑らかさの、足。繰り返しますが、きれいな脚。ごつごつした岩肌とはまるで違うお御足です。駆け上がった波は彼女を海に引きずり込もうとするけど、安心して。足かせの鎖はしっかりと岩肌に固定されているから。手かせの鎖もやはり固定されている。だから荒れ狂う波も少女をさらうことはできない。
 少女が自分の意思でその場を離れることもできないんですが。
 残酷なことに手足の恐ろしい縛め以外に少女はなにも身にまとっていないのです。雷鳴。暗雲と海がまばゆい電光で結ばれる。冷たい風が少女の体温を奪う。雷鳴。怖いけれども、唇を引き結び、悪意と敵意に満ちた世界をにらみます。にらみつけるのです。嵐に対峙するには頑強とはいえない少女の身体は翻弄され、鉄のかせに締められたところは痛むのです。白い肌が今や擦れて真っ赤、それどころか血がにじんでる。しみる。実をいうと、この海の水は塩水ではないので、いくらかはましなのですが。
 彼女の背負う岩の壁は優しいベッドではない。波に押されても引っ張られても、がりがりガツンと頭を打ちつけるのです。わたしが賢くなれないのもこのせいね、たぶん。と、少女は身の上が悲しい。
 でも、のんびり悲しんでる場合ではないですよね。荒れ狂う空や海そのままに、彼女の内には痛みと苦痛ばかり。だって寒いと感じるレベルは過ぎちゃってる。冷たさは痛みともはや区別がない……。

 ああ、もう、あたし、見てられない。ひどい。か弱い女の子にどうしてこんな仕打ちをするんです。いえ、ここは語り手が自分の感想を述べる場ではないかもしれない、でも、早くもあたしは自分の立場を打ち捨てたくなりましたよ。だけど少女はまだ耐えているの。希望を捨ててはいないのです。
 彼女の希望は?
 希望はなに。もちろん苦痛が終わること。救われること。救いの手はどこに……。
 いた。案外近くにいるじゃない。ほら早く、急いで。急いであげて。急ぎなさいよ!
 崖に沿った道をそれはゆっくり降りてくる。それにも波は襲いかかるから、急ぐことはできないのだ。ごめんね、急かしたりして。でもなるべく、なるべく急いでね。ほら、立ち止まるなって。
 それは、ではなく、彼はじゃないかって? それもそうね。少女を苦難から救いに来たのは、もちろん勇者にきまってる。勇者はえっちらおっちらと波をかぶりながら歩を進めている。崖沿いには鎖が鋲で打ち付けてある。両手でそれをつかみながらの前進だ。海の側には、なにもない。勇者は不思議な顔立ち、頭髪はなく甲羅こうらが頭を護っている。丸い耳は変に高いところにあって甲羅と耳の間ぐらいには毛が生えているけど、のっぺりとした顔はどう見ても、ごめんね、どう見ても人間ではない! 見え隠れする上半身、背中のほうにはひどく湾曲した盾、短く太い両腕には鎖かたびら。やっぱり違うわ、これも鱗よね。背中を覆うのは甲羅。骨片が緻密に組み合わさって形作られた甲羅だわ! けっして人の手による鎧兜よろいかぶとではない。勇者なの? それとも海の怪物なの?
 それがじりじりと少女に近づいているのだ。
 さらに、海原では。
 中央がいくらか盛り上がった平べったいものが……海中から浮かび上がってきた。赤く燃えるように光るふたつの点が少女にも見える。ついに現れたのだ、海の大神が遣わした巨大ななにか。こちらを見ている。
 岩肌に止まっている勇者も、それに気がついたのだ。海のほうに顔を向ける。口を開ける。唖然としている。おもむろに剣を抜き、海のそれに切っ先を向けた。剣は腰から下げていたんでしょう。剣といっても、それは短剣ですよね。リンゴの皮むきにはちょうどいいぐらい。それとも何か不思議なパワーを秘めた得物えものなの? ここは魔法が支配する神話的世界だとすると、いったい何が起こるというの。固唾をのむあたし。
 勇者は海獣に向け、ちょいちょい、短剣を繰り出す。ちょっとちょっと、あなた、全然距離が足りないわよ。ぜーんぜんよ。海獣にはあなたがなにをしてるのかも、わかんないわよ、まるで。やばい、勇者さん、パニクっちゃってるわ。巨大な海獣と戦おうなんて思わないで。あなたは哀れな生け贄のもとに急ぐべきです。助けて、すぐさま逃げなさい。急げ莫迦!
 ……失礼しました。
 でも、あたしの叫びが彼に届いたのかもしれないわ。彼はぐんぐん、えっちらおっちら、移動を始めました。ああ、せめて少しの間でも雨と風が止まないかしら、少女の体力が尽きてしまう。宮沢賢治じゃないんだから。
 ようやく。
 ようやく、勇者は彼女のもとにたどり着きました。
 涙だか鼻水だか、もうぐちゃぐちゃ、見栄えを気にする余裕もなく、唇は真っ青で、身体の震えが止まらないの。呆けたような顔で、救援者を見やる少女。神への捧げ物とはいえ、ここまでいじめなくてもいいでしょうに。
「ごめんね、待った?」
 うん、うん。唇は半ば開けたまま、少女はうなずきます。もう気分は海に沈んでいるみたい。
「はじめまして、僕はぺぺぺぺ……」
「ペルセウス」
 勇者さま、自分の名前をど忘れしたのね。よくあることです。律儀なあいさつはもういいわ。一生分の海水は、もう飲んでしまいました。鼻の奥がいたい。苦しいよぉ。
「こんなの、遊びの域を越えてるな。終わりにして早く上がろう」
 上がりたいよ。
 ふたりは見つめ合います。雨のなかで。水中で。海に引っぱられ、岩に押しつけられ。
 新米ペルセウス、あわてます。
 この娘、本当に、岩にいましめられているんだ。
「あの、鍵は。アイテムは……」
 勇者、首を振る。
 少女もあわてます。そういうものを彼は手に入れられなかったんだ。要するに、手ぶら。そういうことは、しばしばあるそうです。来てくれたのはいいけど、少女はここから離れられない。黒い絶望が胸にひろがります。
「ここ、ここ、完全に沈むよ。戻って」
「戻るさ。どうすれば、いい?」
「ごぼごぼ。戻って」
 わたしは海の藻屑。違う、わたしはただの備品。
「わたしを踏み台にすれば、ごぼ、崖を登れるわよ、げほ」
 実は崖の上の方には手がかり足がかりが刻んであり、昇っていくことができるのです。滑らないよう、気をつけてね。わたしの肩に足をかけて、さあ。
「僕は重いぞ」ためらう勇者。
 いっそ、ふたりで溺れちゃいましょうか、でも観光客のペルセウスさん、死んじゃったら、つまんないわね。
 でもペルセウス、鎖を持って、未練がましくいじくってる。何してるのあなた、逃げないと、本当に死ぬわよ! どうにもならないんだから!
 すると。
 ごりごりという耳慣れない音がする。今まで上にあげたままの腕を降ろすことができた。え、なんで? もう片方の腕も。え、そんなことが? 同じ姿勢を続けていたから肩もこわばっていたけれど、とにかく怖いから背にしていた岩につかまろうとする。指をかけられるような凹凸がみつからない。勇者はと見れば、彼は水中に没しているではないか。足下にいるのはわかる。
 少女は自分が解放されたことを知る。
「ぷはっ。さ、行こう」と勇者。
 岩に打ち込まれた鋲を彼が素手で引き抜いた? 嘘ぉ。信じるも信じないもない。ホントだ。ともあれ岩につかまれないのなら勇者につかまるしかない。彼の背に手をまわそうとすると、しがみつきにくい形状をしていることがわかった。見たことのないタイプのアニマルフォームさんね。カメさん?
 いえ、カメさんでもカエルさんでもかまわない。
「手を離さないでね」勇者のことば、優しい。
 うん、うん。
 少女は口もきけず、うなずくばかり。今までいたところより、道はもっと狭いから、慎重に歩こ。ふと海のほうへめぐらすと、海獣はじっとこちらを見ている。襲うつもりはなさそう。自分が解放されたことにより、次のステージにはいったんだ。
 嵐もおさまるに違いない。
 勇者も少女の仕草に気がついて、海の彼方を見た。彼は剣を海獣に向け、ひょいひょい、やめなさいってば、どうせ届かないんだから。怪物と戦うミッションだから、それらしいことをしなくちゃって思ってるのね。ご苦労さまです。ふたりとも、まだまだ危険なんですからね。遊びやゲームでも溺れたら死んじゃいますよ。
 不用意に鎖から手を離さないでよ。
 まだまだ海は荒れているので、勇者の片腕は少女の身体を決して離さないように、でも岩肌の鎖をしっかり握ったままでは前に進めないから、これは大変ですよ。ミッション・インポッシブルですよ。あたしは高みの見物で面白がっているわけではないのよ。本当に応援しているのよ、頑張って。
 だって。
 姫君の意識は薄れかけているのだから。
 もう一度言うわね。遊びやゲームであろうと、命がかかっているのだから、諦めないで。  
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

シーフードミックス

黒はんぺん
SF
ある日あたしはロブスターそっくりの宇宙人と出会いました。出会ったその日にハンバーガーショップで話し込んでしまいました。 以前からあたしに憑依する何者かがいたけれど、それは宇宙人さんとは無関係らしい。でも、その何者かさんはあたしに警告するために、とうとうあたしの内宇宙に乗り込んできたの。 ちょっとびっくりだけど、あたしの内宇宙には天の川銀河やアンドロメダ銀河があります。よかったら見物してってね。 内なる宇宙にもあたしの住むご町内にも、未知の生命体があふれてる。遭遇の日々ですね。

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由

フルーツパフェ
大衆娯楽
 クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。  トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。  いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。  考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。  赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。  言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。  たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。

ビキニに恋した男

廣瀬純一
SF
ビキニを着たい男がビキニが似合う女性の体になる話

意識転送装置2

廣瀬純一
SF
ワイヤレスイヤホン型の意識を遠隔地に転送できる装置の話

セルリアン

吉谷新次
SF
 銀河連邦軍の上官と拗れたことをキッカケに銀河連邦から離れて、 賞金稼ぎをすることとなったセルリアン・リップルは、 希少な資源を手に入れることに成功する。  しかし、突如として現れたカッツィ団という 魔界から独立を試みる団体によって襲撃を受け、資源の強奪をされたうえ、 賞金稼ぎの相棒を暗殺されてしまう。  人界の銀河連邦と魔界が一触即発となっている時代。 各星団から独立を試みる団体が増える傾向にあり、 無所属の団体や個人が無法地帯で衝突する事件も多発し始めていた。  リップルは強靭な身体と念力を持ち合わせていたため、 生きたままカッツィ団のゴミと一緒に魔界の惑星に捨てられてしまう。 その惑星で出会ったランスという見習い魔術師の少女に助けられ、 次第に会話が弾み、意気投合する。  だが、またしても、 カッツィ団の襲撃とランスの誘拐を目の当たりにしてしまう。  リップルにとってカッツィ団に対する敵対心が強まり、 賞金稼ぎとしてではなく、一個人として、 カッツィ団の頭首ジャンに会いに行くことを決意する。  カッツィ団のいる惑星に侵入するためには、 ブーチという女性操縦士がいる輸送船が必要となり、 彼女を説得することから始まる。  また、その輸送船は、 魔術師から見つからないように隠す迷彩妖術が必要となるため、 妖精の住む惑星で同行ができる妖精を募集する。  加えて、魔界が人界科学の真似事をしている、ということで、 警備システムを弱体化できるハッキング技術の習得者を探すことになる。  リップルは強引な手段を使ってでも、 ランスの救出とカッツィ団の頭首に会うことを目的に行動を起こす。

忘却の艦隊

KeyBow
SF
新設された超弩級砲艦を旗艦とし新造艦と老朽艦の入れ替え任務に就いていたが、駐留基地に入るには数が多く、月の1つにて物資と人員の入れ替えを行っていた。 大型輸送艦は工作艦を兼ねた。 総勢250艦の航宙艦は退役艦が110艦、入れ替え用が同数。 残り30艦は増強に伴い新規配備される艦だった。 輸送任務の最先任士官は大佐。 新造砲艦の設計にも関わり、旗艦の引き渡しのついでに他の艦の指揮も執り行っていた。 本来艦隊の指揮は少将以上だが、輸送任務の為、設計に関わった大佐が任命された。    他に星系防衛の指揮官として少将と、退役間近の大将とその副官や副長が視察の為便乗していた。 公安に近い監査だった。 しかし、この2名とその側近はこの艦隊及び駐留艦隊の指揮系統から外れている。 そんな人員の載せ替えが半分ほど行われた時に中緊急警報が鳴り、ライナン星系第3惑星より緊急の救援要請が入る。 機転を利かせ砲艦で敵の大半を仕留めるも、苦し紛れに敵は主系列星を人口ブラックホールにしてしまった。 完全にブラックホールに成長し、その重力から逃れられないようになるまで数分しか猶予が無かった。 意図しない戦闘の影響から士気はだだ下がり。そのブラックホールから逃れる為、禁止されている重力ジャンプを敢行する。 恒星から近い距離では禁止されているし、システム的にも不可だった。 なんとか制限内に解除し、重力ジャンプを敢行した。 しかし、禁止されているその理由通りの状況に陥った。 艦隊ごとセットした座標からズレ、恒星から数光年離れた所にジャンプし【ワープのような架空の移動方法】、再び重力ジャンプ可能な所まで移動するのに33年程掛かる。 そんな中忘れ去られた艦隊が33年の月日の後、本星へと帰還を目指す。 果たして彼らは帰還できるのか? 帰還出来たとして彼らに待ち受ける運命は?

独裁者・武田信玄

いずもカリーシ
歴史・時代
歴史の本とは別の視点で武田信玄という人間を描きます! 平和な時代に、戦争の素人が娯楽[エンターテイメント]の一貫で歴史の本を書いたことで、歴史はただ暗記するだけの詰まらないものと化してしまいました。 『事実は小説よりも奇なり』 この言葉の通り、事実の方が好奇心をそそるものであるのに…… 歴史の本が単純で薄い内容であるせいで、フィクションの方が面白く、深い内容になっていることが残念でなりません。 過去の出来事ではありますが、独裁国家が民主国家を数で上回り、戦争が相次いで起こる『現代』だからこそ、この歴史物語はどこかに通じるものがあるかもしれません。 【第壱章 独裁者への階段】 国を一つにできない弱く愚かな支配者は、必ず滅ぶのが戦国乱世の習い 【第弐章 川中島合戦】 戦争の勝利に必要な条件は第一に補給、第二に地形 【第参章 戦いの黒幕】 人の持つ欲を煽って争いの種を撒き、愚かな者を操って戦争へと発展させる武器商人 【第肆章 織田信長の愛娘】 人間の生きる価値は、誰かの役に立つ生き方のみにこそある 【最終章 西上作戦】 人々を一つにするには、敵が絶対に必要である この小説は『大罪人の娘』を補完するものでもあります。 (前編が執筆終了していますが、後編の執筆に向けて修正中です)

処理中です...