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美扇国――十束 1――

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「…………」

 風が、薫る。
 草花を撫でて通り過ぎる風の行方を目で追い、草を潰してしまうことを躊躇しながらも、一歩、また一歩と踏み出したアメリアは、視界いっぱいに広がる草原に言葉を失っていた。
 ロミーが跳ねる虫を追って同じように跳ねるのを、フィリーネの糸が捕らえる。
 足首に糸を絡められたことと、跳ねた勢いとで顔面を地に打ち付けそうになったロミーが、幼い子供のようにフィリーネの髪に掴みかかろうとしてケンカになっているが、アメリアには聞こえていないようだ。
 右方向を見れば白い花が。左方向を見れば黄色い花が。斜め先には赤い花。ピンクやオレンジといったものまで、どうにも楽しげに風に揺れ、アメリアを誘っているようだった。

「こんなにまでも貴女の心を奪うなんて、この景色に少々妬いてしまいますね」
「!」

 頬を寄せて囁くクラウスの声に我に返る。

「こんな景色、見たことがなかったので……」
「喜んでいただいているのなら何よりです」
「あの、ここを歩くんですか?」
「ええ。踏みつけられると、このように哀れな姿になりますが、立ち直りが早いので気になさる必要はありません」

 言われて、植物というのは本来逞しいものなのだな、と思う。
 頷いたアメリアに、クラウスは手を差し出した。

「もし、それでも抵抗があるのであれば、わたしがまた運んで差し上げますよ」
「っ、だ、大丈夫です」

 森を出て、やっと下ろして貰えたのだ。アメリアはクラウスの手を煩わせたくなかったし、抱き上げられることで密着してしまうのも、顔を間近で見ることになるのも、出来れば遠慮したかった。
 稀なる美しさを持つクラウスを嫌いな訳ではない。そこはやはり、年頃の娘であるからだ。

「では、お足元に気を付けて――――行きますよ?」

 残念だ、というように肩を竦めたクラウスは、アメリアに注意を促した後に、飽きることなくケンカを続けている魔族二人を振り返る。
 ケンカといっても、お互いじゃれ合っているようなものでしかなかった。軽くでも本気になれば、戦闘状態になっていただろう。
 しかしフィリーネもロミーも、掴んだり引っ張ったり押し遣ったり噛みついたりする以外のことはしていなかったようで、髪が乱れていることを除けば問題はないようだった。

「大変」

 アメリアは、二人の間に何が起きたのかのかさっぱり分からなかったが、フィリーネの蜂蜜色の髪がぐしゃぐしゃになっているのを見て、ロミーが背負ってくれている荷物の中から櫛を取り出す。

「今、整えてあげるね」
「まあ、嬉しいですわ」

 うふふ、と笑いながらフィリーネはくるりと回り、ドレスの裾を蕾のように膨らませて座った。
 一瞬、楽しそうだけど何をしているのだろうと不思議に思ったアメリアだったが、彼女の方が背が高い為、腰を下ろして貰った方がかしやすいからだと納得する。
 クラウスは「面倒なことだ」とでも言いたげな表情であったが、アメリアのさせたいようにしておくつもりなのだろう。辺りに目を配りながら待つことにしたようだ。
 そしてロミーはというと。

「うー……うー?」

 唇に指をあてて物欲しそうに、くしけずられていくフィリーネの髪を見つめ、自分の赤銅色の短い髪を撫で付ける。
 ボサボサなのは、いつものことだった。ロミーが髪を短髪にしているのは、長いと煩わしい気がしたからにすぎない。鏡で確認する訳でもなく、感覚で適当にナイフで切り落とした結果がこうなのだ。
 クラウスを初めて目にした時、その髪の長さに驚き、高く結われたその付け根からザックリと切ったら、どれだけ気持ちがいいだろうかと、相手が六翼の天遣族だということも気にせずに――それがどういう存在なのか分かっていなかったが故に――切り落とす機会を窺ってつけ回した末に、容易く捕まってしまって、蓑虫のように木に吊るされて放置されるというお仕置きをされたのが、ロミーがクラウスに「なついた」きっかけである。
 縄を解いて自由になると、懲りもせずにまたつけ回し、空腹で倒れたところで拾われた。
 彼女が靴を履いていないのは、クラウスに与えられても、すぐに片方、もしくは両方が脱げてしまってなくしてしまうからで、ロミー自身、違和感があって苦手としていた為であり、従魔だからと粗末に扱われているからではなかった。
 ずっと着たきりのワンピースにしても、靴をすぐになくしてしまって、その度に新しいものを用意されたことから、遠慮することを覚え、望んで着たきりとなっている。

「ロミーもする?」

 フィリーネの髪が綺麗に落ち着くと、ロミーに声が掛けられた。
 ぱかりと口を開けて喜びを表現したロミーは、フィリーネに体当たりする勢いでアメリアの前にしゃがむ。

「少し短すぎるのではありません?」
「うん……上手く出来なかったらごめんね?」

 揶揄するでもなくフィリーネが言う。それを受けてアメリアは困ったように先に謝るのだったが、ロミーはアメリアが自分の髪に触ってくれるだけでご機嫌だった。

 神子の証である白いローブ姿に、華やかなドレス姿、そして粗末で薄汚れたワンピース姿。そんな異色の少女たちが仲良く戯れているように見えなくもない光景を、クラウスはアメリアの気が済むまで見守っているつもりだった。
 色彩豊かな草原に訪れる客人や馬車の影は見えず、少女たちの軽やかな笑い声が、穏やかな時間を感じさせる。
 しかしクラウスは、まだ視認出来ていない何者かが近付いて来る気配に気付いた。
 殺気を隠している様子もなく害意もないようなのは、向こうがこちらに気付いていないからか。
 急ぎ、ここを離れるか、結界で身を隠してやり過ごすか。選択肢の中にここに留まったまま相手がどう出るかを待つ、というものがないのは、人の目に触れさせるには少女たちの格好があまりに異色過ぎたからだ。
 そのことについて、ここまで来てようやく気付いた辺り、クラウスも少々抜けたところがあるらしい。
 自分も含めれば更に異色さが際立つのだが、まだその点には意識が向いていないようだった。
 そして、自分の失態に頭を悩ませたことで、こちらへ迫る存在への反応が遅れた。

「ロミー、フィリーネ、アメリアさんを守りなさい」

 影は二つ。獣のようだが人にも見える。どちらにしても、その素早さは尋常ではなかった。
 クラウスの声に、フィリーネがアメリアを背に庇い、ロミーが身を屈めて臨戦態勢に入る。
 この時まで、魔族の二人のどちらも、近付いて来る者の気配を察知していなかったことに疑念を抱く。

 ――と。

「ねえねえねえ!」
「俺たちも仲間に入れてー!」

 地を蹴り、上空へ跳ね上がると、交差するようにくるりと前転して着地を決めた二つの影は、陽気な声でそう言って、人懐っこい笑顔を見せた。
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