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お話のはじまりはハロウィンの夜だった。

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 10月末。関東地方の政令指定都市K市K駅の周辺は、遅くまでハロウィンの熱気に包まれていた。

 俺がこの街に住み始めたのは、一年と少し前のこと。
 母子家庭で、親は夜職。しょっちゅう男や友達と飲み歩いていた親にはあまり気にされず、学校にも馴染めずに、通信制の高校をきっちり三年で卒業。その後営業マンとして就職した中古車販売会社はあまりにもブラックだったので、入社して二週間で飛ぶように辞めてみた。
 以来、『とにかく食っていければいいし、少しだけ贅沢ができればいい。』と考えて、歓楽街のある不夜城・K駅の周りでバイトを探し、深夜まで働ける居酒屋のアルバイトで何となく食い繋いでいる。
 別に、仕事にやりがいがある訳じゃない。俺は単なるバイトのスタッフだし、辞めればいくらでも替えが効く歯車みたいなもんだ。でも、この会社は、別に給料が高い訳ではないけどそれなりに福利厚生がしっかりしていたし、少ないながらボーナスも有給休暇の制度もあった。残業も適度、人間関係もまあまあ悪くはない。ただ、俺がそれほど職場の人間と仲良くしたいと思わないだけで。



 歓送迎会シーズンや、クリスマス、そしてハロウィンの夜は好きじゃない。
 特にハロウィンの夜。別に祭りでも何でもなかった夜に、勝手に付加価値を付け、コスプレや仮装をしながら飲み歩き、街を練り歩く。気が大きくなった厄介な酔っ払いが多いことは間違いなかったし、第一、世間の飲み会の予定が増えれば増えるだけ居酒屋の仕事が忙しい。飲み会の口実が欲しいだけの大人たちの世話は率直に言って疲れるし、K市が『ハロウィンカーニバル』なんていうイベントを大々的にやるものだから、街が浮かれ狂って歩きづらくて仕方がない。

 「んじゃ、上がりまーす。お疲れっしたー。」
 「ハイお疲れー。」

 いつも通りの退勤時間から少し残業して、午前一時。 
 宴会の後片付けが終わったら、速やかにタイムカードを押して、休憩室で無駄口を叩くこともなく居酒屋の仕事を上がる。
 住まいは、徒歩十五分の古いマンションだった。通勤電車なんか乗りたくもないし、朝はギリギリまで寝ていたい。だから、築三十五年・ワンルーム六畳ロフト付き・ユニットバスの、風俗街にギリギリ近い安くて騒がしい物件を選んで住み続けている。陽気な外国人が朝まで歌い明かしたり、酔っ払いやヤクザの喧嘩もしょっちゅうという立地でも、常にキャップと黒いマスクで顔を隠し、コンビニの袋を提げた若造の俺にわざわざ絡んでくる奴はいなかった。住めば都、とはよく言ったもので、こんなクレイジーな立地でも、俺はそれなりに快適に暮らせている。何せ、ここは見渡す限り雑踏の大都会。少し歩けば買い物にも、飯にも、暇つぶしにも困らない。友達もそれほどおらず、酒にも女にもこだわらず、趣味らしい趣味もない目立ちたくない、出世にも興味がない根無し草にはとても優しい街だった。
 
 折しも、今日はハロウィンカーニバルの日。
 あちこちにゴミが散らかり、終電を逃したのかオールする気なのか、仮装やコスプレ姿の連中がそこここにたむろして、大騒ぎしている。
 当然、俺はそんなバカ騒ぎには興味がなかった。いつも通り、コンビニでチューハイを一缶、そして弁当をひとつだけ買って、一階にテナントが入った古いマンションの、無駄に後付けされたオートロックのエントランス前に辿り着く。


 その時だった。
 人生で一度も経験したことのない『事件』が起こったのは。

 物陰から、息を切らして駆け寄ってくる人影。
 悲鳴を上げる間も、振り払う間もなく、そのヒトは俺の腕を掴んで、必死の形相で囁くのだ。

 『頼む、かくまってくれ。捕まってしまう──!』

 その時の、そのヒトの真剣な眼差しだけは今も脳裏にしっかりと焼き付いている。
 淡い色の瞳。ミディアムの癖毛の、背の高い男の人だ。そしてその人は、背中に何か──途轍もなく大きな『荷物』みたいなものを背負っている。

 「──っと、ッ…?」

 そんな非常事態に直面して、機敏に対応できるほどの度胸も運動神経も俺にはない。よろけた弾みでカードキーがセンサーに触れ、ピ、という音と共に小さな自動ドアが開いた。そこに、二人もつれ合うようにして倒れ込む。
 
 「──ってェな、何なんだよ…!」
 エントランスホールと外界を区切る重たい扉が閉まって、その前を数人が騒ぎながら走り抜けていく音だけが聞こえた。少々間を置いて、床に突き飛ばされた格好になった俺は、覆い被さって倒れ込んでいる男の人の身体を押しのけ、露骨に文句を言ってやった。
 「すまないね、痛い思いをさせてしまって…。──でも、何とか、やり過ごせた…かな…?」
 その人は、本気で全力疾走してきたらしい。肩でゼェゼェと大きく息をしながら、それでも、ゆっくりと顔を起こして本気で頭を下げて俺に謝ってくる。
 
 とても優しそうな顔立ちをした男の人だった。天パなのか癖毛なのか、ミディアムレングスの髪は綺麗な灰色をしている。そして、目の色も、黒というよりは灰色に近いくらい、本当に淡い。二重で垂れ目の男は、多分俺よりも背が高く、そしてだいぶ年上なのだろう。三十代の半ばか、その辺か。でも少なくとも、この街で絶対に関わってはいけない『ヤベェ人種』に該当するような見た目はしていない。
 よく見ると、その人が荷物みたいに背中に背負っていたのは、巨大な天使の羽根だった。しかし、よく人がイメージするような純白の翼ではなく、土鳩ドバトの羽根みたいに黒と灰色がまだらになった変な色をしている。服装も汚れた白いワンピースで、どう見てもハロウィンのコスプレ会場から出てきたような感じだ。いい齢をして夜中まで騒いだ挙げ句に喧嘩をするようなタイプには見えないけど、人は見掛けによらないということだろう。用が済んだならもう立ち去ってくれるものと信じ、いやにリアルな背中の羽根をそっと押し退ける。

 「──え…?」

 目を丸く見開いて、息を飲んだ。
 てっきり精巧な作りものだと思っていた翼は、柔らかく、そして温かい。小学校の頃によく抱っこした飼育小屋のニワトリのような手触りで、驚きのあまり二度、三度と確かめるように触ってみる。何度触っても、作り物の感触はなかった。それどころか、彼の呼吸に合わせて震え、脈拍さえ感じる土鳩みたいな大きな灰色の翼。
 その人は、俺の顔を見てちょっとだけ困ったように眉尻を下げた。そして、何とか立ち上がろうとして、そのままふらりとよろける。
 「参ったな、人間に知られてはいけない──。そういうものなのに。今のぼくには、もう…。」
 「うわ、ちょっと、大丈夫っすか?──あの、うちで休んでいきます…?」

 今にして思えば、何故救急車を呼んだり、警察に届けたり、面倒くさいし巻き込まれたくないのでこのままここに置き去りにするという発想がなかったのか、自分でも不思議に思う。とにかく俺は、百八十センチは軽くありそうな細い男の人の左脇の下によいしょと身体を捻じ込み、肩を貸しながら、住まいのある五階に昇るエレベーターのボタンを押し込んだのであった。

 

*****


 「──んー…。」
 六畳一間、フローリングのワンルームに敷いた安っぽい白いラグの上に横たわって、眠る、というか気絶したように意識を失っている男の人の横で胡坐あぐらを掻き、果たして、この状況をどうしたものか、俺はちっとも事態を整理できずにいた。コンビニで買ってきた弁当は、袋のまま折り畳みテーブルの上で段々と冷めていっている。こんなことが起きるなら温めして貰わなければよかった、と、この状況にしてはだいぶ暢気のんきなことを考え、とりあえず部屋に担ぎ込むなり倒れてしまった人をまじまじと観察した。
 意識はなし、しかし、しっかりと呼吸はしている。酔い潰れて眠ったにしては酒臭くもなく、LEDライトの下で改めて見てみれば、色白でとても綺麗な顔立ちをしていた。疲れて果てて眠っているようにも見えるのだが、どう見てもただの人間ではない。その人の背中には、折り畳めば風切り羽根が足首まで届くほどの巨大な翼が生えている。きっと広げれば相当に大きいだろう。
 「…いやぁ、ホンモノ──なんだよなぁ…。」
 リアルな映画のメイクや何かだろうと思って、何度も触ってみる。けれど、その度に俺の想いは打ち砕かれた。少し擦り剥いてケガをしたのだろう、灰色の羽毛には浅く血が滲んでいるところがあり、羽毛は柔らかく、どこまでも温かい。それどころか、その付け根がしっかりと肩甲骨の辺りに食い込んで、背中の皮膚とガッチリ繋がって継ぎ目がないことも確認できてしまった。

 つまりこれは、羽根の生えた人間だ。いや、それはそもそも、もはや人間と言っていいのだろうか?
 
 「──う…。」

 たっぷり三十分は悩んだだろうその時、その人が、喉の奥から低い呻き声を立てる。
 
 「…あ!起きた!──あの、水、飲みます…?」

 とりあえず、酔っ払い相手と同レベルの対応しか俺にはできなかった。ひとつきりのタンブラーに水道水を汲んできて、頭を振るいながら起き上がろうとするその人の前に差し出す。
 まだ朦朧としているらしいその人は長い睫毛を震わせながら体を起こし、その背中で、作り物ではない本物の翼がぶるりと震えて灰色の綿毛がひとひら舞って落ちた。タンブラーを取り上げると、冷えてもいないただの古臭い水道水を、美味しそうに喉を鳴らしてごくごくと飲み干す。

 「いや、助かったよ。ありがとう、きみに祝福あれ…。と、言いたいところだけど。」

 一回り以上は年上に見える不思議な男の人は、俺を見て少し笑った。笑うと頬に笑窪えくぼができる、垂れ目気味の穏やかな顔だった。一言で言えば顔がいい、優しさに満ち溢れた人。しかし、その人は肩越しに自分の背中を振り返り、そして項垂れて上目遣いに俺を見てくる。

 「触っちゃった、よね?──これ。参ったな、天使の翼を見た人間の記憶は、消さなければ。でも、今のぼくにはその力はないらしい。…それどころか、必要なことが何もかも思い出せないんだ…。」

 ロマンスグレーになるにしては若すぎる彼は、緩やかに癖のある長めの灰色の髪を物憂げに掻き上げて溜息を吐く。一体、大都会の六畳の古いワンルームマンションの一室で何のファンタジーが起きているのかわからず、俺の頭の中はクエスチョンマークだらけだった。
 急に飛び込んできた男、背中の翼、天使という言葉。
 夢ならばここで覚めるだろうという希望と共に、俺は彼を見つめながら質問をしてみる。

 「──あの、さ。…詳しく説明してくれる?俺にもわかるように。」



 もし夢が覚めなければ、灰色の大都会で、灰色の翼を持った天使を、俺は拾ったのだということになる。
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