そばにいる人、いたい人

にっきょ

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「樹、洗い物は?」
「あっ」

 母の鋭い声に、樹はソファに寄りかかっていた背中をぴんと伸ばした。何となく眺めていたスマホを慌ててポケットにしまう。

「ご、ごめん今やる」
「いい。もう私やったから」

 台所から出てきた母は、大きな目でじろりと樹を睨むと、どかりとダイニングの椅子に腰を下ろした。テーブルの上のリモコンを掴み、チャンネルを回す。

「あっ、あ、そっか……」
「遅いのよ、やることなすことすべてが。っていうか、お椀そのままにしてたからご飯がカピカピにこびりついてたんだけど。前も言ったよね? ……なにこれ、ろくな番組ないじゃない」
「ごめん……」

 テレビは関係ないけど、と思いながら謝る。はあ、とため息をついた母はそれでもしつこくチャンネルを回したのち、ドラマの再放送を見ることにしたようだった。

 年が明けて新年、樹は実家に帰省していた。大学から電車で二時間、駅から更にバスで三十分程度、ただし乗り合わせが悪いので合計で三時間ぐらいかかる房総半島沿岸部。田舎にありがちな、やけに敷地が広い年季が入った家には、今は樹によく似た母一人だけが住んでいる。だから、帰省した時くらいは家事を手伝わなくてはいけないと樹は思っているが、なかなかうまくいったためしはない。

「っていうか、『今やる』って、今目の前で私が洗い物してたの気づかなかったの?」
「き、気づかなかった……」
「あっそ。どうせスマホで彼女とでもやり取りしてたんでしょ。男って奴は」
「し、してないよ」

 父は、樹が中学に上がったころに浮気して出て行ってしまった。浮気はよくないとは思うし、離婚して以来たまに連絡を取るくらいだが、樹は少し父に同情するところがあった。
 なにせ母は四六時中この調子なのだ。厳しいというか、細かいところまで気が付くというか、とかくあらゆるものに一言言わないと気が済まないようなのだ。

 父曰く「昔お嬢様だったから、プライドが高いんだ」とのことだったが、本当かどうか樹は知らない。なぜならば、母方の祖父母に会ったり、実家に行ったりしたことがないからだ。どうも父と結婚するときに揉めたらしい。「家と縁まで切ったのに捨てられた」とは母の言である。

「まあ、アンタみたいなのに惚れる子もいないか」
「……そう、だね」

 小さく答えた樹はソファを立った。二階にある自室からコートを取って戻ってくる。

「あれ、どこ行くの」
「……ちょっと、散歩行ってくる」
「あ、じゃあ帰りに買い物してきてよ。もう三日だしスーパーやってるでしょ」

 わかった、と答えて樹は家の外に出た。稲が刈り入れられ、わびしく土が露出する田んぼや林の続く道をとぼとぼと歩く。特に行く当てはなかったが、あのまま家の中に居続けるのは窮屈だった。

「はあ……」

 母には樹しかいないのだし、仲良くにこにこと笑って過ごしたい……と思ってはいるのだ。だが、どうしても樹のせいでいつも苛立たせてしまうのだ。
 しかし、人気のない田舎道をただ歩くのも寒いだけで退屈である。去年は何してたんだっけ、と考えた樹は「淳哉がいたのか」と思い至った。正月に帰省しても、「日の出を見に行こう」「初売りに行くんだ」「初詣をしよう」と淳哉が連れまわすので、忙しくて退屈する暇がなかったのだ。

(今年は淳哉、帰って来てないもんなあ)

 帰省するかどうか聞いたら「バイト入ってるから」とすげなく言われてしまったのだ。今年は生徒と一緒に受験に集中することにしたらしい。須野原への告白について樹は淳哉に連絡できないままになっていたが、余程忙しいのか、あるいはそっちで頭がいっぱいなのか、そのことについて向こうから聞いてくる様子もない。ほっとする一方で、どこか後ろめたさを樹は感じていた。

 肝心の須野原からも、あれから一切連絡はなかった。もう樹のことなんてどうでもよくなってしまったのかもしれない。それに、あの女の声は、いったい何だったのか。
 十字路に差し掛かり、なんとなく右に折れる。それが慣れ親しんだ高校への通学路であることに気づくのに、そう時間はかからなかった。

(そうだ、せっかくだし高校まで行ってみようかな)

 お正月だし閉まっているだろうけれども、外から見るくらいならいいだろう。何となく家を出ただけの散歩に目的ができ、樹の足取りが軽くなった。
 部活も委員会も一緒だったので、学校がある日はほとんど一緒にこの道を歩いていたことになる。淳哉の方が学校には近いのだが、樹の支度が遅いので、樹の家まで淳哉が迎えに来るのが常だった。

(今思うと、よく毎日家まで来てくれたよな……あ、二ケツしようとして泥だらけになったの、このあたりだっけ)

 高校時代の思い出を振り返りながら、田んぼ脇の道を歩く。ドラマで見た自転車の二人乗りをどうしてもやりたくて、嫌がる淳哉を後ろに乗せたのだ。樹が漕ぐ側だったのが悪かったのか、速攻でバランスを崩して田んぼに転げ落ち、二人とも泥だらけになったうえに自転車まで曲がってしまった記憶がある。田植え前だったことだけが幸運だった。

(そうそう、この駄菓子屋でよくお菓子買って、近くの公園で食べたよな。淳哉いっつもスモモ漬け選んで……あれ?)

 小学校前にある文房具屋兼駄菓子屋まで来たとき、樹はふと違和感を覚えた。シャッターが閉まっているのは当然なのだが、そこに張られた張り紙がなんとなく彩りに欠けているのだ。
 近づいて眺めてみると、そこに貼られているのは年賀ポスターではなく閉店を告げるお知らせだった。「いままで笑顔を分けてくれてありがとう」と振り仮名までふられて易しい言葉で書かれたそれは、昨秋に駄菓子屋が閉まったことを知らせていた。

「閉店……」

 そっか、と樹は小さく呟いた。駄菓子屋の店主は樹が小学生の時からおばあちゃんだったから、仕方のないことなのだろう。何となくスマホで写真を撮り、「閉店だって」と淳哉に送る。
 そのまま歩いていると、機械的に高校の前についていた。フェンス越しに校舎を見上げると、見知った学校のはずなのにどこか知らんぷりしているかのような雰囲気をしている。しばらく考え、樹は外壁が塗りなおされていることに気づいた。学校をくるりと囲むように植えられていたはずの桜の木も切り株になってしまっている。

 真新しく白く輝く校舎と、すっきりしたグラウンドは、確かに見覚えのあるものなのだが——樹にはどこか別の学校のように思えた。

「学校、桜の木なくなってた」

 こちらも写真を撮り、淳哉に送った樹は通学路を振り返った。長年住んでいたはずなのに、親しみがあまり感じられなくなってしまった道を戻る。行きには気づかなかった、新しい分譲住宅やコンビニが林や田んぼだった場所にできているのを見て、樹は焦燥感に駆られて駆け出した。自分一人が変化の波に取り残されてしまったようで、どうにかしなくてはいけないという気がした。
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