そばにいる人、いたい人

にっきょ

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「おいイツキ、手止まってるぞ」
「あ」

 はっと気が付いた鷲田樹が手元を見ると、フォークに巻かれたナポリタンが宙に浮いていた。暖房に吹かれ、表面が乾きかけたそれを慌てて口に入れると、隣の席に座った笹森淳哉は眼鏡の向こうにある鋭い目を怪訝そうに細めた。

「なんか今日のイツキ、ずっとぼうっとしてないか? どうした、悩みでもあるのか?」

 そう言って学食のうどんを啜る淳哉の眉間にはしわが寄っているが、不機嫌なわけではないということを幼稚園からの長年の付き合いから樹は知っていた。表情の作り方が上手くないだけで、樹のことを心配してくれているのである。

「ええっと……うん……」

 淳哉には敵わないな、と思いつつ頷く。悩みがあるのは事実だった。それも、樹にとってはそれなりに深刻な。打ち明けてもいいものだろうか、と迷いながら見上げると、淳哉は黙ったまま手を止め、樹を見つめていた。
 その吸い込まれるような黒い瞳に、樹は決意を固めた。大きく息を吸う。
大丈夫、きっと淳哉なら、受け入れてくれる……はずだ。

「あ……あのさ、ジュン、その……男がさ、男のこと好きになるのって、変……かな?」

 出てきた声は、自分でも恥ずかしいほどに震えていた。

「んえっ!」

 淳哉の大きな声が晩秋の昼下がりの学食に響き、樹は体を竦ませた。長テーブルの端に座っていた女子学生からの突き刺さるような視線に居たたまれなくなる。

「へ、変、だよね、ごめん、なんでもない。あの、忘れてくれて……」
「あ、い、いやいや俺こそ大声出しちゃってごめん、ちょっと驚いちゃって」

 慌てたように淳哉は首を振り、箸を持った手で眼鏡を押し上げた。

「好きになるのに性別なんか関係ないだろ。今時そんなん気にする必要ないって」
「そ、そうかな……」
「うん」

 淳哉の相変わらず眉間には少ししわが残っているが、その口元に微笑があるのに気づいた樹は安堵のため息をついた。精悍、と不機嫌、の中間のような鋭く整った顔に微笑み返すと、そのとたん黒いショートヘアの後ろ頭、自分では見えにくい部分に少し寝癖が残っているのが目に入ってきた。ずっと横にいたというのに、さっきまでそれに気づく余裕もなかったのだろう。
 淳哉に肯定してもらえたというそれだけで、さっきまで悩んでいたのが取るに足らない物事のように思えてくるから不思議だ。

「でも、いきなりどうしたんだ?」
「う……その……」

 当然の質問をされ、樹は自分の顔が熱くなるのを感じた。それを見られるのが恥ずかしく、俯いて安さだけが取り柄のナポリタンを口に押し込む。

「気になる……人が、いてさ。いや、気になるって言ってもそんな……なんか、ちょっと、あの、そういうんじゃなくて、カッコいいなあってドキドキするとか、そういうのなんだけど」
「その相手、誰なのか聞いてもいい?」
「つ、突っ込んでくるね」
「だって気になるし」

 深く、見通すような表情でじっと見つめてくる淳哉に、隠し事はできない。

「須野原先輩……なん、だけど」
「……ふうん。須野原、かぁ」

 気恥ずかしさから、淳哉の横の何もない空間を見つめながら答える。先ほどまでに比べて低い声を発した淳哉が、目の端で顔を歪めたような気がした。だが、違和感を覚えた樹が眼鏡の青年に焦点を合わせたときには、彼の表情はすでに元の不器用な微笑みに戻っている。見間違いだろうか、と瞬きをする樹に、そっかぁ、と淳哉は箸を置いた。

「四年生だっけ。格好いいもんね、あの人」
「知ってるの?」
「うん。学校内では有名だから」
「そうなんだ、そっか、そうだよね」

 あんなに見た目がいいのだから、有名でも当たり前だ。そう思った瞬間、須野原の柔和な眼差しが樹の脳裏に浮かんだ。ニキビなんて生まれてこの方一つもできたことがなさそうなきめ細かい肌に、少しパーマをかけた明るい茶色の髪。身長だってすらりと高い。
 母譲りの大きめの目なのか身長のせいなのか、はたまた癖の強い猫っ毛が理由なのか単純に顔の作りなのか、男なのに「かわいい」と評されがちな樹の理想とする「格好良さ」が、須野原には詰まっている。

「この前ジュン、風邪で学校休んでたじゃない? あの日複素解析で隣の席になって……なんか、それから、須野原先輩のことばっかり頭に浮かんできちゃうんだよね」

 普段、樹の隣には淳哉が座っている。たまたま空いていたそこに座ってきたのが須野原だったのだ。
 須野原のことは入学したときから気になってはいた。だが、特に話しかけられるような話題もなかったし、何より野暮ったい自分のような存在があんな綺麗な人に話しかけるなんて恐れ多い気がしていたのだ。だから、ずっと須野原を目で追うだけの毎日を過ごしていた。

「ここ、空いてる?」

 そう言って樹の横の席を指した須野原からは、ふわりと少し甘いような、焦げたような香りがした。香水だろうか、とドキドキしながら頷くと、よかった、とその香りと同じような甘い微笑を浮かべた須野原は樹の隣に腰を下ろした。薄手のコートの下から出てきた服はなんだか質が良さそうで、「服なんて着られればいいだろう」と考えがちな数学科生には珍しく毛玉の一つもない。丁寧に磨かれた爪先や長いまつ毛、軟骨のピアスなどをちらちらと見ているうちに授業が終わり、名残惜しくのろのろと片付けをする樹の肩を須野原が叩いたのだ。

「あのさ、ノート貸してもらうことってできるかな? 先週バイトで授業来れなかったんだよね」

 小さく手を合わせて困り顔をする須野原に、もちろんNOを言えるはずもない。ノートを差し出した指先が須野原の長い指と触れ合った瞬間、樹の心臓が大きく跳ねた。
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