20 / 29
見えるもの、みえないもの
しおりを挟む
それから二週間後、二月初頭のことだった。小さく響くアラーム音に目を覚ました克己が起き上がろうとすると、割れるような頭痛が襲ってきた。
「うぐっ……」
ぐるぐると回り出す世界に、一気に冷や汗が噴き出す。手探りで音を止め、その横にある緊急時用の鎮痛剤を舌の下に押し込む。
しばらくすると、嘘のように痛みが引いていく。抱きしめていたルドから顔を離した克己は、現在時刻を確認しようと再度スマホに手を伸ばした。
「ん……?」
もやがかかったように霞む視界に目を擦る。何とか七時半という現在時刻は読み取れたが、スモークでも焚かれたような室内の様子は変わらない。
何だこれは。火事にしては焦げ臭くないし、ドライアイスを部屋に巻いた記憶もない。もやの正体を突き止めようとして宙に手を伸ばした克己は、ようやくそこで自分の勘違いに気づいた。
霞んでいるのは、自分の視界の方だ。
(……え?)
確かに森も言っていた。毒の蓄積する部位によっては失明や難聴もあると。だが信じられず目を擦る。だって、昨晩までは――少なくとも目に関しては、何ともなかったのに。
(どうし……えっ、なんで)
震える体で起き上がる。鎮痛剤が効いているせいか、妙にふわふわとして、自分の体が自分のものではないような気がする。動悸がして気持ち悪いのは、毒のせいなのかそれとも視力が低下してきていることによるショックなのか分からなかった。
そのままベッドの上で座り込んでいると、スマホが小さく震えた。目を凝らすと、仕事用のチャットアプリからの通知のようだ。
(そうだ、会社……行かなきゃ)
朝食代わりに薬を飲み、風呂で毒を流す。昨晩は手首の下十センチあたりまで黒くなってきていたが今日もそうなのかは見えない。
失明って暗くなるわけじゃないんだな、と考えながらなんとか会社に辿り着いた克己は、いつものように窓を開け、空気清浄機とパソコンの電源を入れた。しばらく画面を見つめてから、おもむろに立ちあがる。
「……あの、籠田係長、ちょっと」
どうしたの、という籠田を手招きした克己は、衝立にぶつかりながら扉の外に出た。辛うじて物の輪郭がわかる廊下を数歩進んでから振り返り、おそらく籠田がいるであろう方に封筒――退職届を差し出した。
「すいません、もう、駄目……っぽいです」
前から話はしてあったと思うのだが、籠田からはいくらか怯んだような気配がした。
「い、いやさほら、雛芥子さん、確かにそういう話はありましたけど、いきなり辞めなくても、ほら……在宅でもいいし、体調いい日だけ出て来るとかでも」
「いえ……」
「短時間勤務とか、そういうのはできたりしないの?」
「えっと……」
受け取ってもらえない封筒のあたりを見下ろして、克己は言い淀んだ。
「目が、見えないんです。朝からなんですけど……パソコンの文字も、もう読めなくて。だから……突然で申し訳ないんですが、ちょっと……無理だと思います」
「今朝のことなら、なおさらそんな急に決めなくてよくないですか? とりあえず今日明日は休んで、一回病院行って、それから考えなおしてみたら……治療に専念したいんだったら休職という手もありますし」
「それは」
言いかけて克己は止めた。空しさが心の中に広がっていく。
(今まで、説明してきた……つもりだったんだけどな)
産毒症は、一度症状が進行したら戻らないこと。治らないこと。
「……分かり、ました」
もう一度説明する気も起きず、克己はそっと手を下ろした。じゃあそういうことで、ゆっくり休んでね、ともごもごと言いながら戻っていく籠田の気配を感じる。一呼吸置いてからその後を追った克己は、今度は衝立伝いに荷物を取り、廊下に戻った。
籠田に話す、というミッションを終えて気が抜けてしまったのか、先ほどより鞄が重くなってきたように感じる。
「おはよう、克己さん」
「ひゃっ」
突然聞こえてきたコウの声に、克己は文字通り飛び上がった。
「おっ、おは……おはようございます」
左右を見回し、おそらくコウであろう輪郭が見える方向に挨拶を返す。
「……克己さん、どうしたの?」
「えと、なん、なんでもないっ」
電車に置き去りにしたというのに、コウは怒るでもなく淡々と「同僚」としての態度で克己に接してきていた。だがそれがまた、自分の幼稚さを暗に指摘されているように克己には思えた。
なぜコウにあの時怒りを感じたのか――落ち着いた状態で考えた克己は、ある一つの結論に達していた。それは酷くシンプルなことだったのだが、克己にとっては認めたくない事柄でもあった。そのせいで、どうにも克己はあの日のことに触れられないままでいた。
「……っ」
そしてそれは、今日もまだ同じだった。
コウの横を通り抜け、エレベーターホールへと向かう。避けたつもりの右肩がコウに当たった。
「ちょ、っ……克己さん?」
エレベーターのボタンを探している様子を見られたくなくて、横にある階段に向かう。
そのまま駆け降りようとして――ふっと足から力が抜けた。
「か、克己さん! 大丈夫?」
上の方でコウの声が響いて、それから駆け降りてくる足音がする。辛うじて見える蛍光灯の明かりが変なところにあることに気づき、克己はようやく自分が階段から転げ落ちたことを理解した。
「うぐっ……」
ぐるぐると回り出す世界に、一気に冷や汗が噴き出す。手探りで音を止め、その横にある緊急時用の鎮痛剤を舌の下に押し込む。
しばらくすると、嘘のように痛みが引いていく。抱きしめていたルドから顔を離した克己は、現在時刻を確認しようと再度スマホに手を伸ばした。
「ん……?」
もやがかかったように霞む視界に目を擦る。何とか七時半という現在時刻は読み取れたが、スモークでも焚かれたような室内の様子は変わらない。
何だこれは。火事にしては焦げ臭くないし、ドライアイスを部屋に巻いた記憶もない。もやの正体を突き止めようとして宙に手を伸ばした克己は、ようやくそこで自分の勘違いに気づいた。
霞んでいるのは、自分の視界の方だ。
(……え?)
確かに森も言っていた。毒の蓄積する部位によっては失明や難聴もあると。だが信じられず目を擦る。だって、昨晩までは――少なくとも目に関しては、何ともなかったのに。
(どうし……えっ、なんで)
震える体で起き上がる。鎮痛剤が効いているせいか、妙にふわふわとして、自分の体が自分のものではないような気がする。動悸がして気持ち悪いのは、毒のせいなのかそれとも視力が低下してきていることによるショックなのか分からなかった。
そのままベッドの上で座り込んでいると、スマホが小さく震えた。目を凝らすと、仕事用のチャットアプリからの通知のようだ。
(そうだ、会社……行かなきゃ)
朝食代わりに薬を飲み、風呂で毒を流す。昨晩は手首の下十センチあたりまで黒くなってきていたが今日もそうなのかは見えない。
失明って暗くなるわけじゃないんだな、と考えながらなんとか会社に辿り着いた克己は、いつものように窓を開け、空気清浄機とパソコンの電源を入れた。しばらく画面を見つめてから、おもむろに立ちあがる。
「……あの、籠田係長、ちょっと」
どうしたの、という籠田を手招きした克己は、衝立にぶつかりながら扉の外に出た。辛うじて物の輪郭がわかる廊下を数歩進んでから振り返り、おそらく籠田がいるであろう方に封筒――退職届を差し出した。
「すいません、もう、駄目……っぽいです」
前から話はしてあったと思うのだが、籠田からはいくらか怯んだような気配がした。
「い、いやさほら、雛芥子さん、確かにそういう話はありましたけど、いきなり辞めなくても、ほら……在宅でもいいし、体調いい日だけ出て来るとかでも」
「いえ……」
「短時間勤務とか、そういうのはできたりしないの?」
「えっと……」
受け取ってもらえない封筒のあたりを見下ろして、克己は言い淀んだ。
「目が、見えないんです。朝からなんですけど……パソコンの文字も、もう読めなくて。だから……突然で申し訳ないんですが、ちょっと……無理だと思います」
「今朝のことなら、なおさらそんな急に決めなくてよくないですか? とりあえず今日明日は休んで、一回病院行って、それから考えなおしてみたら……治療に専念したいんだったら休職という手もありますし」
「それは」
言いかけて克己は止めた。空しさが心の中に広がっていく。
(今まで、説明してきた……つもりだったんだけどな)
産毒症は、一度症状が進行したら戻らないこと。治らないこと。
「……分かり、ました」
もう一度説明する気も起きず、克己はそっと手を下ろした。じゃあそういうことで、ゆっくり休んでね、ともごもごと言いながら戻っていく籠田の気配を感じる。一呼吸置いてからその後を追った克己は、今度は衝立伝いに荷物を取り、廊下に戻った。
籠田に話す、というミッションを終えて気が抜けてしまったのか、先ほどより鞄が重くなってきたように感じる。
「おはよう、克己さん」
「ひゃっ」
突然聞こえてきたコウの声に、克己は文字通り飛び上がった。
「おっ、おは……おはようございます」
左右を見回し、おそらくコウであろう輪郭が見える方向に挨拶を返す。
「……克己さん、どうしたの?」
「えと、なん、なんでもないっ」
電車に置き去りにしたというのに、コウは怒るでもなく淡々と「同僚」としての態度で克己に接してきていた。だがそれがまた、自分の幼稚さを暗に指摘されているように克己には思えた。
なぜコウにあの時怒りを感じたのか――落ち着いた状態で考えた克己は、ある一つの結論に達していた。それは酷くシンプルなことだったのだが、克己にとっては認めたくない事柄でもあった。そのせいで、どうにも克己はあの日のことに触れられないままでいた。
「……っ」
そしてそれは、今日もまだ同じだった。
コウの横を通り抜け、エレベーターホールへと向かう。避けたつもりの右肩がコウに当たった。
「ちょ、っ……克己さん?」
エレベーターのボタンを探している様子を見られたくなくて、横にある階段に向かう。
そのまま駆け降りようとして――ふっと足から力が抜けた。
「か、克己さん! 大丈夫?」
上の方でコウの声が響いて、それから駆け降りてくる足音がする。辛うじて見える蛍光灯の明かりが変なところにあることに気づき、克己はようやく自分が階段から転げ落ちたことを理解した。
0
お気に入りに追加
6
あなたにおすすめの小説
小さなことから〜露出〜えみ〜
サイコロ
恋愛
私の露出…
毎日更新していこうと思います
よろしくおねがいします
感想等お待ちしております
取り入れて欲しい内容なども
書いてくださいね
よりみなさんにお近く
考えやすく
ヤンデレだらけの短編集
八
BL
ヤンデレだらけの1話(+おまけ)読切短編集です。
全8話。1日1話更新(20時)。
□ホオズキ:寡黙執着年上とノンケ平凡
□ゲッケイジュ:真面目サイコパスとただ可哀想な同級生
□アジサイ:不良の頭と臆病泣き虫
□ラベンダー:希死念慮不良とおバカ
□デルフィニウム:執着傲慢幼馴染と地味ぼっち
ムーンライトノベル様に別名義で投稿しています。
かなり昔に書いたもので、最近の作品と書き方やテーマが違うと思いますが、楽しんでいただければ嬉しいです。
【完結】君に愛を教えたい
隅枝 輝羽
BL
何もかもに疲れた自己評価低め30代社畜サラリーマンが保護した猫と幸せになる現代ファンタジーBL短編。
◇◇◇
2023年のお祭りに参加してみたくてなんとなく投稿。
エブリスタさんに転載するために、少し改稿したのでこちらも修正してます。
大幅改稿はしてなくて、語尾を整えるくらいですかね……。
イケメン彼氏は年上消防士!鍛え上げられた体は、夜の体力まで別物!?
すずなり。
恋愛
私が働く食堂にやってくる消防士さんたち。
翔馬「俺、チャーハン。」
宏斗「俺もー。」
航平「俺、から揚げつけてー。」
優弥「俺はスープ付き。」
みんなガタイがよく、男前。
ひなた「はーいっ。ちょっと待ってくださいねーっ。」
慌ただしい昼時を過ぎると、私の仕事は終わる。
終わった後、私は行かなきゃいけないところがある。
ひなた「すみませーん、子供のお迎えにきましたー。」
保育園に迎えに行かなきゃいけない子、『太陽』。
私は子供と一緒に・・・暮らしてる。
ーーーーーーーーーーーーーーーー
翔馬「おいおい嘘だろ?」
宏斗「子供・・・いたんだ・・。」
航平「いくつん時の子だよ・・・・。」
優弥「マジか・・・。」
消防署で開かれたお祭りに連れて行った太陽。
太陽の存在を知った一人の消防士さんが・・・私に言った。
「俺は太陽がいてもいい。・・・太陽の『パパ』になる。」
「俺はひなたが好きだ。・・・絶対振り向かせるから覚悟しとけよ?」
※お話に出てくる内容は、全て想像の世界です。現実世界とは何ら関係ありません。
※感想やコメントは受け付けることができません。
メンタルが薄氷なもので・・・すみません。
言葉も足りませんが読んでいただけたら幸いです。
楽しんでいただけたら嬉しく思います。
完結・虐げられオメガ側妃なので敵国に売られたら激甘ボイスのイケメン溺愛王が甘やかしてくれました
美咲アリス
BL
虐げられオメガ側妃のシャルルは敵国への貢ぎ物にされた。敵国のアルベルト王は『人間を食べる』という恐ろしい噂があるアルファだ。けれども実際に会ったアルベルト王はものすごいイケメン。しかも「今日からそなたは国宝だ」とシャルルに激甘ボイスで囁いてくる。「もしかして僕は国宝級の『食材』ということ?」シャルルは恐怖に怯えるが、もちろんそれは大きな勘違いで⋯⋯? 虐げられオメガと敵国のイケメン王、ふたりのキュン&ハッピーな異世界恋愛オメガバースです!
いっぱい命じて〜無自覚SubはヤンキーDomに甘えたい〜
きよひ
BL
無愛想な高一Domヤンキー×Subの自覚がない高三サッカー部員
Normalの諏訪大輝は近頃、謎の体調不良に悩まされていた。
そんな折に出会った金髪の一年生、甘井呂翔。
初めて会った瞬間から甘井呂に惹かれるものがあった諏訪は、Domである彼がPlayする様子を覗き見てしまう。
甘井呂に優しく支配されるSubに自分を重ねて胸を熱くしたことに戸惑う諏訪だが……。
第二性に振り回されながらも、互いだけを求め合うようになる青春の物語。
※現代ベースのDom/Subユニバースの世界観(独自解釈・オリジナル要素あり)
※不良の喧嘩描写、イジメ描写有り
初日は5話更新、翌日からは2話ずつ更新の予定です。
十七歳の心模様
須藤慎弥
BL
好きだからこそ、恋人の邪魔はしたくない…
ほんわか読者モデル×影の薄い平凡くん
柊一とは不釣り合いだと自覚しながらも、
葵は初めての恋に溺れていた。
付き合って一年が経ったある日、柊一が告白されている現場を目撃してしまう。
告白を断られてしまった女の子は泣き崩れ、
その瞬間…葵の胸に卑屈な思いが広がった。
※fujossy様にて行われた「梅雨のBLコンテスト」出品作です。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる