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8 再び山へ
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「修造、お前の飯はあるから遠慮するこたねえぞ」
起き上がった貞宗が、土間からのそのそと戻ってきた。頬についた菜っ葉を指先で弾き、修造の足元の膳を指差す。言われてみれば確かに、叔父夫妻と貞宗だけの食事のはずなのに膳だけ四つ並んでいる。陰膳、というやつだ。
「じゃあ、ええと……先に、着替えてきてもいいですかね……」
相手が狐ならどうでも良かったが、家族の前で女物の、しかもつんつるてんの襦袢でいるのは恥ずかしい。化粧だってそのままだ。じっと自分を追ってくる三対の目を感じながらようやく自分の服に着替えると、やっと人心地ついた気がした。
「すいません、これ以外は狐の屋敷に置いてきてしまいました」
「よかて、もう。使う予定もなかったし」
トヨに懐剣と襦袢だけを渡して膳の前に座る。手を合わせて食べ始めると、やっと宗二郎が口を開いた。
「何があったんだ」
「わかりません」
修造にも意味がわからないのでそう答える。だがそれではあまりにも情報不足な気がして、麦飯をかきこみながら簡潔に説明し直す。
「腹が立ったので殴ったら、狐が逃げていきました」
「それで、怒った狐に離縁されたのか。丸一日も保たずに出戻るとは相当だな」
そう言いつつも、宗二郎の口調は愉快そうだった。
「そうですね……いや、多分ですが、怒ってはいない……のではないかなと」
切なげな鳴き声と、狐の顔を思い出しながら修造は答えた。それに、本当に狐が怒っていれば今頃村は火の海になっているはずだ。
「……ああいう化け狐にも、誠実な奴っているんでしょうか」
「知らん」
宗二郎の答えは素っ気なかった。
「儂が知ってるのは、あいつはちゃんと儂を家まで送ってくれたということと、その代わりに修造が欲しいと結納の真似事までしてきて、羽織袴で迎えに来たことだけだ」
「そう……ですね」
気になるのなら、自分でまたあの狐と話してみるほかないようだ。菜っ葉の入った汁に口をつけると、「ははん」と貞宗が腕を組んだ。
「さては狐の抱き心地が忘れられないとみえるな」
「なんでそうなるんだ」
「あいつ全身ふわっふわの毛皮やったぞ、気持ちいいに決まっとる」
「……狐に会えたら、貞宗兄さんが抱きたがってるって伝えておくよ」
朝食を済ませ、土間においてあった猟銃を手に取る。一、二、三、四、五発、それから予備の一発をたもとに。弾を込めていると、「持っていくのか」と宗二郎の声が聞こえた。
「……はい」
何と思われているのか怖くて、振り向かずに答える。撃てないくせに猟銃を背負っていくなんて滑稽なのは分かっているが、どうしてもまだ手放せないのだ。
家を出て、華燭山を見上げる。雑草が生えてきて少し緑色になった山肌の上に、いつの間にか立派な屋敷が建っていた。あそこが昨晩連れていかれた狐の屋敷だろうと当たりをつけ、山に入る。
夜とはいえ一度行ったところだし、何より慣れ親しんだ華燭山中である、数刻もすれば着くだろう。そう考えながら歩き始めた修造だったが、すぐに自分の思い違いに気づくことになった。
歩いても歩いても、一向に屋敷に近づかないのである。道に迷っているとか、方向がおかしいとかではない……と思う。正しい方向に行っているはずなのだが、気づいたら元の道に戻ってしまっているのだ。
「ああもうっ」
化かされている。確信した修造は道端の石に腰を下ろした。こういう時には煙草で一服するといいと聞いたことがある。狐や狸はあの匂いが嫌いだから術が解けるらしい。だが、あいにく修造は煙草を嗜まなかった。あの煙がどうにも火事を思い起こさせて好きになれないのだ。
化かされているという確信には、もう一つ理由があった。山に入ってからこの方、ずっとちらちらと赤い耳や尻尾の先が見え隠れしているのである。
今も左の視界の端、生い茂った笹の中からぴょこりと真っ赤な耳が飛び出している。
「おい狐」
修造が声をかけると、がさりと笹が揺れて耳が引っ込む。だが、隠す気のない強い視線は消えない。
「いなり寿司作ってもらったぞ、食うか?」
竹薮を見ながら、背負っていたお弁当を取り出す。返事はないが、小さな行李を開ける仕草に、ごくりとつばを飲む音が聞こえるようだった。
「変なもんは入れてねえから安心しろよ」
ほら、と一つ口に放り込んだ後に、三角形のいなり寿司を藪に向かって投げる。ガサガサと食べているような気配に、もう二つ三つ投げ込む。
「気に入ったか?」
まあ、作ったのはトヨだが。甘い油揚げに包まれたいなり寿司を自分も頬張り、一息つく。さわさわさわ、と木陰の間を通り抜けていく風が、山歩きの間に汗ばんだ体を冷やしていく。
「いきなり殴ったりして、悪かったな」
持ってきたお茶を飲みながら、修造は藪に向かって話しかけた。ぴしり、と付近の空気が張り詰める。
起き上がった貞宗が、土間からのそのそと戻ってきた。頬についた菜っ葉を指先で弾き、修造の足元の膳を指差す。言われてみれば確かに、叔父夫妻と貞宗だけの食事のはずなのに膳だけ四つ並んでいる。陰膳、というやつだ。
「じゃあ、ええと……先に、着替えてきてもいいですかね……」
相手が狐ならどうでも良かったが、家族の前で女物の、しかもつんつるてんの襦袢でいるのは恥ずかしい。化粧だってそのままだ。じっと自分を追ってくる三対の目を感じながらようやく自分の服に着替えると、やっと人心地ついた気がした。
「すいません、これ以外は狐の屋敷に置いてきてしまいました」
「よかて、もう。使う予定もなかったし」
トヨに懐剣と襦袢だけを渡して膳の前に座る。手を合わせて食べ始めると、やっと宗二郎が口を開いた。
「何があったんだ」
「わかりません」
修造にも意味がわからないのでそう答える。だがそれではあまりにも情報不足な気がして、麦飯をかきこみながら簡潔に説明し直す。
「腹が立ったので殴ったら、狐が逃げていきました」
「それで、怒った狐に離縁されたのか。丸一日も保たずに出戻るとは相当だな」
そう言いつつも、宗二郎の口調は愉快そうだった。
「そうですね……いや、多分ですが、怒ってはいない……のではないかなと」
切なげな鳴き声と、狐の顔を思い出しながら修造は答えた。それに、本当に狐が怒っていれば今頃村は火の海になっているはずだ。
「……ああいう化け狐にも、誠実な奴っているんでしょうか」
「知らん」
宗二郎の答えは素っ気なかった。
「儂が知ってるのは、あいつはちゃんと儂を家まで送ってくれたということと、その代わりに修造が欲しいと結納の真似事までしてきて、羽織袴で迎えに来たことだけだ」
「そう……ですね」
気になるのなら、自分でまたあの狐と話してみるほかないようだ。菜っ葉の入った汁に口をつけると、「ははん」と貞宗が腕を組んだ。
「さては狐の抱き心地が忘れられないとみえるな」
「なんでそうなるんだ」
「あいつ全身ふわっふわの毛皮やったぞ、気持ちいいに決まっとる」
「……狐に会えたら、貞宗兄さんが抱きたがってるって伝えておくよ」
朝食を済ませ、土間においてあった猟銃を手に取る。一、二、三、四、五発、それから予備の一発をたもとに。弾を込めていると、「持っていくのか」と宗二郎の声が聞こえた。
「……はい」
何と思われているのか怖くて、振り向かずに答える。撃てないくせに猟銃を背負っていくなんて滑稽なのは分かっているが、どうしてもまだ手放せないのだ。
家を出て、華燭山を見上げる。雑草が生えてきて少し緑色になった山肌の上に、いつの間にか立派な屋敷が建っていた。あそこが昨晩連れていかれた狐の屋敷だろうと当たりをつけ、山に入る。
夜とはいえ一度行ったところだし、何より慣れ親しんだ華燭山中である、数刻もすれば着くだろう。そう考えながら歩き始めた修造だったが、すぐに自分の思い違いに気づくことになった。
歩いても歩いても、一向に屋敷に近づかないのである。道に迷っているとか、方向がおかしいとかではない……と思う。正しい方向に行っているはずなのだが、気づいたら元の道に戻ってしまっているのだ。
「ああもうっ」
化かされている。確信した修造は道端の石に腰を下ろした。こういう時には煙草で一服するといいと聞いたことがある。狐や狸はあの匂いが嫌いだから術が解けるらしい。だが、あいにく修造は煙草を嗜まなかった。あの煙がどうにも火事を思い起こさせて好きになれないのだ。
化かされているという確信には、もう一つ理由があった。山に入ってからこの方、ずっとちらちらと赤い耳や尻尾の先が見え隠れしているのである。
今も左の視界の端、生い茂った笹の中からぴょこりと真っ赤な耳が飛び出している。
「おい狐」
修造が声をかけると、がさりと笹が揺れて耳が引っ込む。だが、隠す気のない強い視線は消えない。
「いなり寿司作ってもらったぞ、食うか?」
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「変なもんは入れてねえから安心しろよ」
ほら、と一つ口に放り込んだ後に、三角形のいなり寿司を藪に向かって投げる。ガサガサと食べているような気配に、もう二つ三つ投げ込む。
「気に入ったか?」
まあ、作ったのはトヨだが。甘い油揚げに包まれたいなり寿司を自分も頬張り、一息つく。さわさわさわ、と木陰の間を通り抜けていく風が、山歩きの間に汗ばんだ体を冷やしていく。
「いきなり殴ったりして、悪かったな」
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