上 下
54 / 165
第二章  神代の剣~朴念仁の魔を断つ剣~

第二十七話  氷結

しおりを挟む
 右足首に激痛が走っていた。

 その痛みに、大量の脂汗を浮かべながら、少女の美しい顔が歪む。

 土気色になった唇は微かに震え、悲痛のうめきが漏れていた。

 巨大なトカゲが左前足で仰向けに倒れたホーチィニの右足首を踏みつぶし、赤い双眸で痛みに苦しむ得物を見据えている。

 魔物化したトカゲは、やはり人間を捕食することだけを本能としていた。

 先ほどまで威勢のよかった得物を無力化し、そのどこから食らいつこうかと舌舐めずりしている。


 捕食する得物は新鮮で、若いメスだ。

 一気に頭部などを食らいついては面白みがない。

 適度に歯ごたえのありそうな、白い太ももの辺りから食いちぎるか。

 それとも、栄養価が高くぷりぷりとして弾力のある臓物はらわたからいただくか。

 特にメスの子宮などは、血液をたっぷりと含んでいて美味だ。

 しかも、おどいをするにあたっては、メスは本能的に子宮を守ろうと必死にもがく。

 それをむさぼり、得物が浮かべる悲痛と絶望の色をスパイスにするのもオツなものだ。



 ほとんど知能のないトカゲが愉悦に目を細める。

 その愉悦は、魔物化したときに巨大化した脳が発達し芽生えたものなのか、それとも、その魔法を編み込んだ者のおぞましい悪意が作用したのかはわからない。

 ともかく、トカゲは捕らえた獲物をいかにいたぶりつつ捕食するかを考えて、あふれ出てくる強酸のよだれを歪むあぎとから垂らし始めた。

 薄手のスカートがまくり上がり、露わになったホーチィニ大腿部、その白い肌に強酸が滴り落ちる。

「あああああ――ッ」

 酸が肌を焼く痛みに、たまらずホーチィニは絶叫しつつ、狂ったように頭部を振り乱す。

 三つ編みにしていた黒髪は、トカゲの血が混ざった泥をかぶって無惨に乱れ、脂汗と溢れてしまった涙で頬にその髪が張り付いた。

 自分の肌を焼いた酸の悪臭と、皮膚の焼ける嫌な匂いが彼女の鼻腔に流れ込み、思わず吐き気を催す。

 こみ上げる不快さと、神経が焼け切れそうなほどの痛み。

 先ほど視界に捉えた愛する男の無惨な姿。

 いっそ、舌をかみ切って自害したいほどだった。

 もしくは、自尊を捨てて泣きじゃくりたい。

 それでも、彼女は絶望には絶対に屈したくはなかった。

 最後の最後まで、あのおとこが好きでいてくれた自分自身を固持し続ける。

「汚いわ……汚い体液なんかを……こともあろうに、私の足にかけるなんてッ」

 振り絞るように悪態を漏らし、ホーチィニは凍てつくような鋭い視線でトカゲを見上げた。




     ☆




 確かな手応えを感じた右拳を見つめ、人狼は静かに息を吐き出した。

 その胸には大穴が空き、鮮血が吹き出た跡があるが、既に出血は止まっている。

 肺の一部と、何よりも心臓を失っていたが、魔法により様々な生物の長所を集めて合成した怪物は、ほとんど戦えない状態ではあったものの生きていた。

 体中の血管に近接する筋組織が細かく鳴動するよう伸縮し続け、血流を維持している。

 傷口は強引に筋肉で締め付け止血し、森の中に漂う活力を頭部に埋め込まれた魔力コアが収集し、生命力に変換し続けていた。

 しかし、傭兵隊長にやられた傷は完全に致命傷だ。

 故に、いくら魔力コアが生命力を生み出していても、人狼に宿る命の火は間もなく消え去るだろう。

 人狼自身もそのことを理解していたが、悔いはない。

 最後にあの傭兵隊長と戦い、その結果としてこの命を失うこととなったとしても満足のいくものだった。

 致命傷を受けつつも、合成種族キマイラとしてのしぶとさを生かし、勝利を確信していたであろうナスカを残る力で殴り飛ばして、なんとか勝つことが出来た。

 銀髪の少女のことが気にかかるが、最も警戒すべき相手の一人はここで葬ることに成功している。

 残る敵のうち、司祭の女と女弓兵については、昼間の戦闘を見た限り、彼女たちにあの凶悪な魔物達を単独で葬る力はないはずだ。

 あとは、この場にいない蒼髪の剣士と赤髪の剣士の二人だが……。

 銀髪の少女はその魔力だけでなく、剣士としても秀でている。

 二人の剣士のことは、昼間の戦況と共に、別れる前に彼女にも伝えてあった。

 聡明な彼女ならば、一人で真っ正面からやり合うことがないよう行動することだろうし、そうなれば、あの悪魔の女から受けた依頼も、きっとやり遂げるだろう。

 そう考え至って、ふと人狼は少し離れた位置で戦闘していたトカゲと宮廷司祭の方に視線を移した。



 戦闘は既に決着がついているようだ。

 人狼は、トカゲの右後方になる位置に立って見ていた。

 司祭もかなりの善戦をしたようで、巨大なトカゲは全身を朱に染めている。

 その巨体の下に、司祭が仰向けに倒れていた。

 先ほど、彼女の悲鳴が聞こえてきたが、ここからだとトカゲの巨体でその表情は覗えない。

 だが、司祭の動きはなく、その右足首はトカゲの前足で踏みつぶされており、すぐにでもトカゲが彼女の肉体を食いちぎって終わることだろう。


 ふと、人狼は胸が痛む思いを得ていた。

 ナスカにやられた傷が痛んだのではない。

 トカゲは眼下の得物に対し、すぐにとどめを刺さないでいる。

 恐らくは、捕獲した得物をどういたぶりつつ捕食するかとでも考えているのだろう……。

 その『得物』とは自分と死力を尽くし戦った賞賛すべき男が守ろうとした女だ。

 命を助けることは出来ないが、せめて苦しまずに楽にしてやり、その亡骸も、あの男と共に埋葬してやりたい。

 それが、互いの誇りにかけて戦った戦士としての情けではないか。

 しかし、今の人狼にあのトカゲを倒してその暴虐を止める術はなかった。

 彼女の肉体は、この後、見るも凄惨なかたちで解体されつつあのトカゲにむさぼり食われることになるだろう。

「これも、戦いに呪われた者の罰ですか……」

 諦めるように呟き、人狼は目を閉じると――――今度は全身にやたらと寒気を感じるようになった。

 止血しているとはいえ、先ほどの負傷で大量の血液を失っている。

 そのせいで、体温が維持できなくなっているのかも知れない。


――いや、違う。


「これは……」

 人狼は目を見開き、冷ややかな冷気が流れてくる前方、トカゲと司祭がいる方を凝視した。




     ☆




 ホーチィニの見上げる先で、巨大なトカゲが動きを完全に止めていた。

 先ほどまで、得物を捕食しようと荒くなっていた呼吸も、あふれ出していた唾液すらも止まっている。

 いや、凍り付いているのだ。

 トカゲの全身に刻まれていた傷口も、滲んでいた鮮血は凍り付き、ホーチィニの右足首を踏んでいた左前足は、皮膚が結露して凍結している。

「痛みの感覚がないのが命取りだったわね」

 ホーチィニは冷たく呟き、さらにトカゲを睨め付ければ、その巨体は左前足の氷結が一気に全身へ広がった。

 完全に凍り付いたトカゲから、痛む右足を強引に引き抜き、ホーチィニは片足でなんとか立ち上がる。

「ナスカ以外に私をはずかしめようとしたこと、地獄で悔い改めなさい」

 突き刺すように言い放つホーチィニが右手の鞭を振るうと……。

 凍り付いたトカゲの巨体はガラス細工のように、もろく粉々に崩れ落ちた。

「なんと……貴女にこれほどの力があるとは驚きです」

 口から白い息を吐き出しながら、人狼が驚愕を露わにしている。

 その人狼を、ホーチィニが見据えてきたが、さらに人狼は側の森林から聞こえた声により、愕然とすることとなる。


「《凍結波ブリザード・ウェーブ》のサイキック……水の精霊を根源にするホーチの奥の手だ」

 敵を前に安堵で涙ぐむ司祭の顔。

 声のした方向に振り返れば、人狼の視界に、こちらへゆっくりと近づく傭兵隊長の姿があった。

「馬鹿な……私の拳は確かに貴方の胴を砕いたはず。あの手応えで生きていられるはずはない」

 人狼の声が震えていた。

「ああ……いい一撃だったぜ。実際、まだあばらとかぼろぼろだしな」

 よく見ると、ナスカは左の脇腹を左手で押さえているし、右足は少し引きずっているようだ。

「私達がなんの準備もしないで、貴方の襲撃を待っていたと思うの?」

 司祭が目に浮かんだ涙を手で払いつつ告げてくる。

 その彼女のスカートは所々破れていて、見え隠れする大腿部の爛れた傷跡が、信仰術を使っている風ではないのに白銀色の光を漏らしつつ急速に治癒していくのが見えた。

「ディン、アンタとやり合うには、オレもそれなりの覚悟が必要だったんでな。アンタの襲撃の前にな、龍闘気を存分に使えるように、ホーチに頼んで肉体補修の信仰術をあらかじめかけてもらってたのさ。……正直、すんげー痛かったけどな、術の行使に必要だった鞭打ちなんか百回以上だぜ……」

 苦笑いするナスカだったが、その説明に補足するように、人狼の背後から「百三十七回……」というホーチの呟きが聞こえた。

「なるほど……どうりで昼間の戦闘よりもお強かったわけです。本来なら自己崩壊する程の龍闘気を解放していたわけですか。司祭の信仰術――おそらくは、徐々に肉体の損傷を治癒し続けるたぐいの法術を発動させていながら……ですが、それですと――」

「ああ。とつに残った龍闘気を体内に溜めたおかげで致命傷にはならなかったが、アンタの一撃のダメージは大して回復してねえよ……今のアンタと同じ、ほとんど戦えねえ」

 そう言って、ナスカは右手に握っていた長剣を正中に構えた。

「おっしゃっていることと行動が一致されていませんな」

 そう言いつつ、人狼も左手に持ったままだった戦斧を両手で持ち直した。

「ダメよッ」

 痛む右足を上げたまま、左足だけの片足跳びで、ホーチが二人の間に割り入るが、ナスカが厳しい視線をその彼女に向け、

「邪魔はするなッ、ホーチ。それに……お前、まだ治りきってないだろ、その足とかな。今やってる《治癒ヒール》のサイキックを途中で止めると、その傷跡、残っちまう。そんなの嫌だぞ、オレ。お前の足を思う存分ほおりするのがオレのささやかな夢なんだからな」

「そんな風に茶化したってダメなものはダメだもんッ……もう、私の信仰術だって効果消えちゃってるし、ナスカ絶対無理するんだもんッ……絶対絶対やだぁ」

 子供のように泣き出しながら、ホーチィニは片足跳びのままナスカのカラダに抱きついてきた。

 その彼女を優しく左手で受け止めて、ナスカは苦笑いを浮かべつつ人狼に視線を投げかける。

 ナスカの視線を受け止め、人狼も口元を緩めた。

「かないませぬな……。実は私も女性の涙に弱い方でして……それに、どうやら私の負けのようです」
 
 そう言って、人狼は戦斧を地面に手放し、ナスカとは反対の方向に視線を移す。


 人狼の視界には、トカゲの凍り付いた肉片が散らばるその先に、金髪の女弓兵と抜刀した蒼髪の剣士の姿があった。

しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

寝室から喘ぎ声が聞こえてきて震える私・・・ベッドの上で激しく絡む浮気女に復讐したい

白崎アイド
大衆娯楽
カチャッ。 私は静かに玄関のドアを開けて、足音を立てずに夫が寝ている寝室に向かって入っていく。 「あの人、私が

[R18] 激しめエロつめあわせ♡

ねねこ
恋愛
短編のエロを色々と。 激しくて濃厚なの多め♡ 苦手な人はお気をつけくださいませ♡

校長室のソファの染みを知っていますか?

フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。 しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。 座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る

愛していました。待っていました。でもさようなら。

彩柚月
ファンタジー
魔の森を挟んだ先の大きい街に出稼ぎに行った夫。待てども待てども帰らない夫を探しに妻は魔の森に脚を踏み入れた。 やっと辿り着いた先で見たあなたは、幸せそうでした。

ヒューストン家の惨劇とその後の顛末

よもぎ
恋愛
照れ隠しで婚約者を罵倒しまくるクソ野郎が実際結婚までいった、その後のお話。

私はお母様の奴隷じゃありません。「出てけ」とおっしゃるなら、望み通り出ていきます【完結】

小平ニコ
ファンタジー
主人公レベッカは、幼いころから母親に冷たく当たられ、家庭内の雑務を全て押し付けられてきた。 他の姉妹たちとは明らかに違う、奴隷のような扱いを受けても、いつか母親が自分を愛してくれると信じ、出来得る限りの努力を続けてきたレベッカだったが、16歳の誕生日に突然、公爵の館に奉公に行けと命じられる。 それは『家を出て行け』と言われているのと同じであり、レベッカはショックを受ける。しかし、奉公先の人々は皆優しく、主であるハーヴィン公爵はとても美しい人で、レベッカは彼にとても気に入られる。 友達もでき、忙しいながらも幸せな毎日を送るレベッカ。そんなある日のこと、妹のキャリーがいきなり公爵の館を訪れた。……キャリーは、レベッカに支払われた給料を回収しに来たのだ。 レベッカは、金銭に対する執着などなかったが、あまりにも身勝手で悪辣なキャリーに怒り、彼女を追い返す。それをきっかけに、公爵家の人々も巻き込む形で、レベッカと実家の姉妹たちは争うことになる。 そして、姉妹たちがそれぞれ悪行の報いを受けた後。 レベッカはとうとう、母親と直接対峙するのだった……

マッサージ師にそれっぽい理由をつけられて、乳首とクリトリスをいっぱい弄られた後、ちゃっかり手マンされていっぱい潮吹きしながらイッちゃう女の子

ちひろ
恋愛
マッサージ師にそれっぽい理由をつけられて、乳首とクリトリスをいっぱい弄られた後、ちゃっかり手マンされていっぱい潮吹きしながらイッちゃう女の子の話。 Fantiaでは他にもえっちなお話を書いてます。よかったら遊びに来てね。

僕の家族は母様と母様の子供の弟妹達と使い魔達だけだよ?

闇夜の現し人(ヤミヨノウツシビト)
ファンタジー
ー 母さんは、「絶世の美女」と呼ばれるほど美しく、国の中で最も権力の強い貴族と呼ばれる公爵様の寵姫だった。 しかし、それをよく思わない正妻やその親戚たちに毒を盛られてしまった。 幸い発熱だけですんだがお腹に子が出来てしまった以上ここにいては危険だと判断し、仲の良かった侍女数名に「ここを離れる」と言い残し公爵家を後にした。 お母さん大好きっ子な主人公は、毒を盛られるという失態をおかした父親や毒を盛った親戚たちを嫌悪するがお母さんが日々、「家族で暮らしたい」と話していたため、ある出来事をきっかけに一緒に暮らし始めた。 しかし、自分が家族だと認めた者がいれば初めて見た者は跪くと言われる程の華の顔(カンバセ)を綻ばせ笑うが、家族がいなければ心底どうでもいいというような表情をしていて、人形の方がまだ表情があると言われていた。 『無能で無価値の稚拙な愚父共が僕の家族を名乗る資格なんて無いんだよ?』 さぁ、ここに超絶チートを持つ自分が認めた家族以外の生き物全てを嫌う主人公の物語が始まる。 〈念の為〉 稚拙→ちせつ 愚父→ぐふ ⚠︎注意⚠︎ 不定期更新です。作者の妄想をつぎ込んだ作品です。

処理中です...