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第四章  ざわめく水面~朴念仁と二人の少女~

エピローグ~ざわめく水面~

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 濃密な魔力を秘めた紫の瞳が、ダーン達をへいげいする。

 僅かに虚空に浮かび上がった魔神の女からの視線は、それに身をさらすだけで、体の不調をきたすほどであった。

「ふ、ふんッ。それじゃあ、何をしに来たって言うのよ?」

 未だに全身に駆け巡る不安と戦慄を拭いきれないでいるものの、ルナフィスがなんとかうそぶくが、その彼女に紫の瞳を向けて、リンザーは特に練り上げた悪意を視線に込める。

 その途端、ルナフィスの心臓が一瞬止まりかけ、声にならない悲鳴が彼女の薄い唇を震わせた。

「ルナフィス君!」

 すぐそばにいたケーニッヒが慌ててルナフィスとリンザーの間に自らの体を立たせると――――

 まるで首を締め付けられていたところから解放された直後のように、ルナフィスは激しく咽せて小さな体を痙攣させた。

「あ~ら……ルナフィスちゃん、どうしちゃったのぉ? いつもはもっと元気に生意気なのに、今日は随分と弱っちいわねぇ。ん~、もしかしてぇ今ので、ちびっちゃったかしらん。ごめんね~、なんなら換えの下着持ってこようか? きゃはははッ」

 悪意とさげすみに満ちた愉悦の声が、岩床にひざまずくルナフィスのを打つ。

 悔しさをこらえ、下唇を噛みながら視線をあげるが、銀髪の少女にはこの悪意の塊にまともに対峙できる気がしなかった。

「やれやれ……今のルナフィス君は貴女とは相性が最悪なだけだろうに。彼女はこれまで《魔》を受け入れてきたんだ。並の戦士どころか、子供並みに《魔》への反発力を持たないんだからね。それがわかっていて、わざわざ彼女に悪意ある《魔》の波動をあてるとは、随分と大人げないじゃないか。それとも、やはり彼女には特別なこだわりがあるのかな?」

 ルナフィスをかばうように立っていたケーニッヒがその顔に微笑みを浮かべたまま、柔らかな声でリンザーに話しかけた。

 すると、なぜかルナフィスの感じていた嫌悪感が薄らいで、体が少し楽になる。

「ふ~ん……。器用なお兄さんと思っていたけど、やっぱりアンタただ者じゃないわねぇ。私の《魔》に干渉するなんて……。その魔導は、おおよそ人間風情が使い切れるものじゃないわン……。もしかして、魔界こっちで暴れてる《狼を連れた雷撃娘》あたりと同類かしらぁ?」

 リンザーの推測するような言葉に、ケーニッヒは僅かに眉根をあげて、首を横に振る。

「それはちょっと否定しておきたいなぁ……あんな過激で、胸はないのに度胸なら異界一つ火の海にするくらいある化け物とは一緒にされたくない。――――あ。……スレーム会長、何です? その妙な機械……『録音REC』って表示されているけど、何に使うの? ねえ、あれ? どうしてそんなに邪悪な微笑を?」

 言葉の途中から、ケーニッヒがスレームの方に視線を向けてなにやら慌て始め、さすがのリンザーもワケがわからずきょとんとする。

「あー……と、とにかく」

 リンザーは仕切り直しとばかりに、言葉を切ってわざとらしく咳払いをする。

「今回は、私の負けでいいわン。ホントはルナフィスちゃんの持っているその紅い宝玉を受け取るついでに、巨乳ちゃんと蒼髪のいい男の二人に賛辞の言葉でもあげようと思って来たんだけどね」

 そう言って、リンザーはルナフィスが手にしていた紅い宝玉に一度視線を走らせて、そのままダーン達を流し見る。

貴女あなたにお褒めいただいても、あんまり嬉しくないわ。でも、どーしてもというなら、その言葉を聞いてあげるから、早めに終わらせて帰ってくれる?」

 ステフは負けじと言い放ち、手にした《白き装飾銃アルテッツァ》の銃把を握り直す。

「そーねぇ……ルナフィスちゃんがこれ以上下着汚しちゃわないように、早めにおいとましてあげるわン。それにしても、この今の私を前にして、そこまでたんりよくを持っていられるのは、人間の小娘にしてはたいしたものねン。益々、貴女あなたのこと欲しくなったわ」

 ルナフィスやステフ達から離れるように虚空を歩き始めて、軽快で人を小馬鹿にした口調のまま、リンザーは言葉を続ける。

「今回のコト……ホントに驚いたわよン。私が用意した《四連魔核共鳴励起》は、アンタ達が異界と呼ぶ私の故郷でも、最強クラスの魔核技術よ。その技術をもって、今ルナフィスちゃんが持っている《魔導結晶ルーン・コア》を制御したのが今回の実験体なんだけど。まあ、私もその《魔導結晶ルーン・コア》だけは拾い物でよくわかんない物だったから、ちょっと惜しいけどソレ、あなた達にあげるわ」

 リンザーの魔力に警戒して動くことができないダーン達を尻目に、リンザーは彼らから離れて、武道台となっていた岩床の縁に降り立った。

 不吉に赤い髪が風にそよぎ、その向こうには陽炎のように揺らぐ湖の対岸の町並みが見えた。

「拾い物……ね」

 手の中の宝玉が《魔導結晶ルーン・コア》というアイテムであることを知っても、ルナフィスにとっては用途不明の物であることに変わりはなかったが――――
 なぜか手にしていると妙に懐かしい気分になっていて、彼女はこんな時であるのに、そのことが随分と気がかりだった。

 そんなルナフィスの姿をいちべつした後、リンザーは再びステフの方に向き直る。

「ウフフッ……ホントに大した娘ね。その男……確かダーン・エリンっていったわね。その剣士の力と成長の早さは凄まじい物だったわ。本気で私の軍にスカウトしたいくらいよ……まあ、今回はそれに気がつくのが遅れてしまったようで、そういう意味で男を見る目は私の負けね……。そうそう、先日のサジヴァルド・デルマイーユを圧倒した戦術も、今思えば大した物よ――――さすがはリドルの娘ってとこかしら」

 湖上を渡ってきた風が涼やかにステフの体を冷やす。

 リンザーの言葉は声の調子を今までのふざけた物から、少し威厳のある声色に変わってきた。

 そのせいかどうかはわからないが――――

 リンザーの言葉を聞くステフに妙なこわばりが生まれていた。


――やめて……。


 少女の声にならないこんがんは、誰にも届かない。


「一国のあるじっていうことでは、私も貴女あなたと同じ立場かしらね。だから、今回の一連の戦果には素直にくちしいわよ。まして、貴女あなたは同盟国とはいえ、他国の傭兵で最強クラスの剣士を手中にしている。あなたたちの『信頼』からくる戦術も見事だったわ。さっすが、いきなり愛称で自分の名を呼ばせちゃうだけあるわ」


――やめて……よ。お願いだから……今、こんなところで……。


 少女は懇願しつつ、思わず目を閉じてしまった。


 その耳に、容赦なく――――

 悪魔の女がつむぐその言葉が聞こえてしまう。


 悪意という名の《一石》が投げ込まれる。


「是非ともご教授願いたいわね、アークの第一王女……ステファニー・ティファ・メレイ・アーク……。他国の男を自分の手駒として思い通りに操る方法とやらを。しかも、そのように『信頼』を築くには、一体どんな誘惑をしたのかしらぁ? 本来なら、貴女あなたの隣にいるだけでも、他国の男なんかは生きた心地がしないでしょうに」

 リンザーの悪意に満ちた微笑みが、さらに愉悦にゆがむ。

 その場の誰もが言葉を発することができずに立ち尽くした。

 アーク王家の事情を知るケーニッヒとスレームは苦虫を噛み潰したような顔を顕わにし、カレリアは姉の姿を不安げに見つめ、おおよその事態を把握したルナフィスも、所在なさげにダーンを見つめる。

 当事者の二人は――――

 ステフは表情を消し、うつろにリンザーを見ていた。
 いや、隣にいるはずのダーンを視界に入れられず、ただ前を見ていたに過ぎない。

 ダーンは、知らなかったはずのステフの素性を聞かされたのに、驚いた風ではなく、ただ長剣を固く握りしめて、リンザーを凝視していた。

 その姿は、やりきれない怒りに満ちていた。

 ルナフィスは不安に思案する。

 その怒りは、一体誰に向けられたものなのかと。


「あっれぇ? なんか、微妙な雰囲気ねぇ。ん? んん? もっしかしてぇ~、ダーンちゃん知らなかったのぉ? アークの巨乳お姫様、ステファニーちゃんのコト……まあ、アーク国内でもステファニー姫のコトなんかは一般人には秘密らしいからね~。へんな虫がついちゃったら、それだけで世界最大の王国の利権やら何やらがた~いへんなコトになっちゃうしぃ。ああ、そうかそうか。知らなかったから、ダーンちゃんもお姫様に馴れ馴れしい態度とっちゃってたんだねぇ~」

「随分と……悪趣味が極まるね、リンザー君……」

 再び人を小馬鹿にしたような声色のリンザーに、金髪を逆立てるかのような剣幕でケーニッヒがめ付ける。
 一方、リンザーの言葉を半ば下を向いて聞いていたダーンも、怒気に溢れた闘気をくゆらせていた。

「あらあら……随分と怒らせちゃったかしらン。クックックッ……ざまあないわね、アークの小娘。今日のところはせいせいしたから見逃してあげるわ……。いずれその身、必ずやこのリンザー・グレモリーがもらい受けるわよ。それと――――ダーン・エリン、貴様も次の機会にはきっちりと挽き肉にしてやるから……クックク……ハーハハハハッ」

 愉悦に極まった高笑いを残し、リンザーは紅い煙となってその場から姿を消した。


 その後――――


 時間にして数秒は、誰も言葉を発しなかった。

 当事者達以外、誰もが二人に口出ししてはならないと感じていたのだ。

 こういったことは、本人達でなければ解決できないし、今まで彼らを見てきたその場の誰もが、彼と彼女の間柄を、その信頼の強さを信じていた。

 きっと、このように第三者、しかも悪意ある言葉で敵から告げられなければ、ここからアーク首都に向かう道中に、ステフ自身からその身分や想いについてダーンに打ち明けられていたことだろう。

 そうなれば、きっと問題はなかった。

 その点では、さすがに悪魔と称される魔神である。

 彼らの抱える事情を的確に読み取り、最悪のタイミングで最凶の暴露をしてくれた。


 ステフは一度胸の宝玉に左手をあてて、深呼吸する。

 ソルブライトも、一度彼女に秘話機能を使って何か言いかけたが、やはり言いよどんだ。

 ステフにも最低限のけじめをつけようという覚悟があった。

 彼女はスカートの中にあるホルスターへ《白き装飾銃アルテッツァ》を収納すると、ダーンの方にゆっくりと振り返った。

 ダーンは、その彼女の気配を察したのか、彼も長剣を鞘に収めるとゆっくりと彼女に振り返る。

 琥珀と蒼穹の視線が交錯する。

 ただし、これまでの一週間あまりの付き合いで、その交錯した視線がこれほど冷めていたことはあっただろうか……。

 それを感じ、ソルブライトに重い不安がのしかかる。


「ダーン……その、ごめんなさい。……あたし――――」


「姫、そのようなおづかいはどうぞなされませんよう……。貴方様のお立場を鑑みれば、ご身分をお隠しになるのは至極当然のこと。事情を知らなかったとはいえ、これまでの数々の非礼、どうかご容赦のほどを」

 落ち着いた冷めた声、それがいつものように頭上からではなく、ステフの眼下から響いてきた。

 身長差があるダーンの声は、立っているといつも上から聞こえてきたのに奇妙なことだ。

 そんな風に考えつつ、ステフは現実を受け入れたくなくて、自分の前に片膝をついて頭を垂れているダーンの姿を見ないよう、視線を空に向けている。

 そこには、正中から僅かに西に傾きかけた太陽のまぶしい輝き。

 少女の視界には、蒼穹とそこに流れる白い雲が映っていたが――――その景色が僅かにゆがんで見えた。

 上を向いたまま一度まぶたを閉じ、少女は瞳に溢れかかった熱をがんの奥に飲み干すと、あきらめたように視線を下げる。

 そこに、これまでよく王宮で見かけた景色があった。

 自分の存在を腫れ物のように扱い、ただかしずくことで事なきを得る男達の姿。

 この数日――――いや、この七年、見たくなかった景色がここに現実となっていた。


「……これまで、よく戦っていただきました。アテネの剣士ダーン・エリン、は貴方に最大限の感謝をしています。本当にありがとう……」


 その言葉は、アーク王国第一王女が同盟国の傭兵に送るものとして、それ以上ないほどに完璧で最良の賛辞だった。


 ただし――――


 少女の心はいつまでも波立っていた。

 決して収まることないさざ波がいつまでも。

 抑えようのない波は、小さく幾重にも押しては返す。

 まるで、静かな鏡のような水面に小石を投げ入れたときのように。

 ゆらゆらと、どうしようもなく、ただゆらゆらとざわめき続けているのだった。



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