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愚者の構え
第8話
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王は杯に鼻を近づけた。香りを嗅ぐ。
「カサの参事会を取り込むか。よけいなカネがかかるが、致し方ない。よし、聖女の話はしまいだ。年は二十五、娼婦も顔負けの好き者、癒やしの技も真っ赤な嘘だった。〈黒き心〉のかけらをよこせ」
「奇跡はいまも起きておりますよ。聖女が招き入れし聖霊が、とある蛮族の女に癒やしの力を授けたのです」
「旅籠にいるというのは嘘か。見ろ、女狐がうっかり漏らしおった」
ベアは答えない。王はいらついている。迷っている。愚かな田舎者ではないとお認めくださっている。
気を張って耳をそばだてる。いつ男たちがなだれ込んでくるかわからない。もしくは弓矢か。祭壇の奥、南の袖廊。潜んでいる気配はない。
王は杯を傾けた。熱い息を吐く。酔いがまわったふりをしている。
「あまり安売りするなよ。奇跡、また奇跡、では、ありがたみもなにもなくなる」
「いいえ。いつでも癒えるという確信はなにものにも変えがたい。人はあるべき生の姿に立ち返るのです。神が約束されたとおりの姿に」
「ならば明日からはおまえが癒やしてまわれ。女はしばらく預ける。だがヌーヴィルから出ることはかなわんぞ。フラニアで事を済ませるまで民を喜ばせるのだ」
「よろしいのですか。王が不在のあいだ、権力は望まずとも聖女の元に集まるでしょう。王を討つのはわたしではありません。人の欲です」
王は勢いよく立ち上がった。ベアは身構えた。
きびすを返した。石の床を歩きまわる。行っては戻り、行っては戻る。
「おまえはそれとなく謀反を煽る。裏切り者の諸侯をあぶり出し、わたしに密告する。どうだ」
「よろしいかと存じます。ですがわたしを信じていただけていないご様子」
「おまえの瞳からにじみ出る野心だ。使えるものは親でも使う、そんな目だ」
男が南から駆けてきた。一人だ。平服、丸腰。
王は顔を上げた。立ち止まった。
「なんだ」
男は数歩前でひざまずいた。
「尊き国王陛下。わたしは第三教区の守護副隊長を務めております、ミジェールと申す者です。蛮族の女を捕らえましたので、わたしが報告に上がりました」
「どこにいた。どのようにして捕らえた。化け物がついていただろう」
「おっしゃるとおりです、陛下。女は大男と連れ立ち表をうろついておりました。隙を見て拘束し、路地に入り、裏手から」
「わかった。よくやった。あとで顔を出せ。望みのものを取らせる」
王はベアに顔を向けた。獅子のまなこで女狐の本心を探る。一件落着と喜んだりはしない。
「この嘘つきめ。残念だがこれまでのようだ。わたしはフラニアに向かう。おまえはヌーヴィルに残る。癒やしをいつ何時行うか、すべてはわたしの弟が決める」
「陛下ご自身の目で確認されるまでは喜ばれないほうがよろしいかと存じます」
「喜んでなどおらん。もう行け。旅籠でおとなしくしていろ。あとで使いをやる」
ガモが面を上げた。垢まみれの虱たかりが風呂に入ってさっぱりしている。髭を整えて髪を切った。公爵の私生児は宮廷に出入りしてもおかしくない美男子だ。
王がガモに言った。
「女はわたしが預かる。牢に入れず、ここに連れてこい」
「かしこまりました、陛下」
ガモは優雅に立ち去った。ケッサはどこでなにをしているのやら。
カイは船着き場のそばの界隈に入った。飲み屋街だ。かしいだ木の建物がごちゃごちゃと立ち並んでいる。通りは建物のせいで薄暗い。残飯と汚物でじめついている。豚を放して食わせればいいのにと思った。あいつらは自分の糞でも食う。
船乗りらしい酔っ払いが居酒屋を出入りする。飲みながらうろつく。小便を垂れる。わめきながらどつき合う。腐り水と安酒のにおいで胸が悪くなる。歩きながら芝居小屋の看板を見上げた。中から女の叫び声が聞こえてくる。なんの芝居をしているのだろう。軒下の暗がりに入った。柱がはっきりと傾いていた。アデルの手を引いて軒を出た。振り向いて見上げる。張り出した二階の露台を間に合わせの柱で支えているだけだった。いつ崩れ落ちてもおかしくない。
道がほぼぬかるみになった。溜まりが湯気を上げて悪臭を放っている。カイはアデルを背負った。ろくな旅籠ではなさそうだ。王の嫌がらせかもしれない。
コートにつづいて穴倉のような路地に入った。とたんにむせた。ありとあらゆる悪臭を煮詰めて石の上で乾かしたようなにおいがする。石壁に勝手口のような戸口が開いていた。人の気配があった。都の人は村の牛小屋よりくさいところで暮らしている。
低い石のアーチをくぐり抜けた。道はさらに狭くなる。石の隙間といった風情だ。足元はぐちゃぐちゃしたなにかでまみれている。アデルが悲鳴を上げた。巨大な鼠がすばやく横切った。
角を折れると行き止まりに突き当たった。壁の向こうから溝を伝って汚水が流れ込んでくる。カイはアデルを下ろした。くさそうに顔をしかめながら礼を言った。
「あんた、すっかり騎士らしくなったね。聞いて。わたし、村に戻りたくないの。考えたんだけど」
右手の扉がきしみながらひらいた。カイは短剣を抜いた。城にあるような分厚い楢だ。
茶色い坊主頭が顔を出した。ボーモンだった。
「入れ。尾行はあったか」
「わかりません。気にしてなかったので」
「ここはおれが取ったんだ。古い砦を改装したのだとか。中はまともだ。王が用意した旅籠にはセルヴがいる」
中に入った。真っ暗だった。ボーモンが蝋燭の炎で導く。靴底が土を噛む。柱と背の低いアーチだらけだ。倉かなにかだろう。きっと裏口から地下に入った。
「師匠がケッサさんを守ってるんですね」
「いや、クロードが二階からこっそり連れ出した。ベアの指示だ。陽動作戦というわけだな。だれにも言うなという命令だったが」
「どこに隠れてるんですか」
「聞いていない。きみは聞いているか」
カイは首を振った。コートが振り向いて言った。
「おれは、ガモと橋の監獄に行くと聞いたぞ。潜入して、恋人を助け出すんだ」
「嘘に決まっているだろう。そもそも囚われの恋人という話も怪しいものだ。悪いがケッサは」
「嘘じゃない。おまえはなにも知らないんだ。おまえこそでたらめを聞いたんだ」
階段を上がって廊下に出た。二階の大部屋はがらんとしていた。汚い背嚢に鎧兜、武器が壁にずらりと立てかけてある。ほかの冒険者は遊びにいったのだろう。
コートは子豚を抱えて厨房に行った。アデルは壁に背を預けてすわった。汚れた裾を気にしている。ベアはそれぞれにちがう話を吹き込んだ。だからコートは一人でいる。潜入には目立ちすぎるとでも言ったにちがいない。実際目立つ。王も二人の仲を知っている。だからケッサと一緒にいないほうがいい。
カイが聞いた話もちがっていた。セルヴを護衛につけてかたっぱしから癒やしてまわる。聖女の使徒のひとりとして。都の民が熱狂すれば王は観念してわたしを解放するだろう。
思わず頭を振った。そうは思えない。アデルがこちらを見上げている。みな愚か者になっている。ベアの望みどおりに。
「カサの参事会を取り込むか。よけいなカネがかかるが、致し方ない。よし、聖女の話はしまいだ。年は二十五、娼婦も顔負けの好き者、癒やしの技も真っ赤な嘘だった。〈黒き心〉のかけらをよこせ」
「奇跡はいまも起きておりますよ。聖女が招き入れし聖霊が、とある蛮族の女に癒やしの力を授けたのです」
「旅籠にいるというのは嘘か。見ろ、女狐がうっかり漏らしおった」
ベアは答えない。王はいらついている。迷っている。愚かな田舎者ではないとお認めくださっている。
気を張って耳をそばだてる。いつ男たちがなだれ込んでくるかわからない。もしくは弓矢か。祭壇の奥、南の袖廊。潜んでいる気配はない。
王は杯を傾けた。熱い息を吐く。酔いがまわったふりをしている。
「あまり安売りするなよ。奇跡、また奇跡、では、ありがたみもなにもなくなる」
「いいえ。いつでも癒えるという確信はなにものにも変えがたい。人はあるべき生の姿に立ち返るのです。神が約束されたとおりの姿に」
「ならば明日からはおまえが癒やしてまわれ。女はしばらく預ける。だがヌーヴィルから出ることはかなわんぞ。フラニアで事を済ませるまで民を喜ばせるのだ」
「よろしいのですか。王が不在のあいだ、権力は望まずとも聖女の元に集まるでしょう。王を討つのはわたしではありません。人の欲です」
王は勢いよく立ち上がった。ベアは身構えた。
きびすを返した。石の床を歩きまわる。行っては戻り、行っては戻る。
「おまえはそれとなく謀反を煽る。裏切り者の諸侯をあぶり出し、わたしに密告する。どうだ」
「よろしいかと存じます。ですがわたしを信じていただけていないご様子」
「おまえの瞳からにじみ出る野心だ。使えるものは親でも使う、そんな目だ」
男が南から駆けてきた。一人だ。平服、丸腰。
王は顔を上げた。立ち止まった。
「なんだ」
男は数歩前でひざまずいた。
「尊き国王陛下。わたしは第三教区の守護副隊長を務めております、ミジェールと申す者です。蛮族の女を捕らえましたので、わたしが報告に上がりました」
「どこにいた。どのようにして捕らえた。化け物がついていただろう」
「おっしゃるとおりです、陛下。女は大男と連れ立ち表をうろついておりました。隙を見て拘束し、路地に入り、裏手から」
「わかった。よくやった。あとで顔を出せ。望みのものを取らせる」
王はベアに顔を向けた。獅子のまなこで女狐の本心を探る。一件落着と喜んだりはしない。
「この嘘つきめ。残念だがこれまでのようだ。わたしはフラニアに向かう。おまえはヌーヴィルに残る。癒やしをいつ何時行うか、すべてはわたしの弟が決める」
「陛下ご自身の目で確認されるまでは喜ばれないほうがよろしいかと存じます」
「喜んでなどおらん。もう行け。旅籠でおとなしくしていろ。あとで使いをやる」
ガモが面を上げた。垢まみれの虱たかりが風呂に入ってさっぱりしている。髭を整えて髪を切った。公爵の私生児は宮廷に出入りしてもおかしくない美男子だ。
王がガモに言った。
「女はわたしが預かる。牢に入れず、ここに連れてこい」
「かしこまりました、陛下」
ガモは優雅に立ち去った。ケッサはどこでなにをしているのやら。
カイは船着き場のそばの界隈に入った。飲み屋街だ。かしいだ木の建物がごちゃごちゃと立ち並んでいる。通りは建物のせいで薄暗い。残飯と汚物でじめついている。豚を放して食わせればいいのにと思った。あいつらは自分の糞でも食う。
船乗りらしい酔っ払いが居酒屋を出入りする。飲みながらうろつく。小便を垂れる。わめきながらどつき合う。腐り水と安酒のにおいで胸が悪くなる。歩きながら芝居小屋の看板を見上げた。中から女の叫び声が聞こえてくる。なんの芝居をしているのだろう。軒下の暗がりに入った。柱がはっきりと傾いていた。アデルの手を引いて軒を出た。振り向いて見上げる。張り出した二階の露台を間に合わせの柱で支えているだけだった。いつ崩れ落ちてもおかしくない。
道がほぼぬかるみになった。溜まりが湯気を上げて悪臭を放っている。カイはアデルを背負った。ろくな旅籠ではなさそうだ。王の嫌がらせかもしれない。
コートにつづいて穴倉のような路地に入った。とたんにむせた。ありとあらゆる悪臭を煮詰めて石の上で乾かしたようなにおいがする。石壁に勝手口のような戸口が開いていた。人の気配があった。都の人は村の牛小屋よりくさいところで暮らしている。
低い石のアーチをくぐり抜けた。道はさらに狭くなる。石の隙間といった風情だ。足元はぐちゃぐちゃしたなにかでまみれている。アデルが悲鳴を上げた。巨大な鼠がすばやく横切った。
角を折れると行き止まりに突き当たった。壁の向こうから溝を伝って汚水が流れ込んでくる。カイはアデルを下ろした。くさそうに顔をしかめながら礼を言った。
「あんた、すっかり騎士らしくなったね。聞いて。わたし、村に戻りたくないの。考えたんだけど」
右手の扉がきしみながらひらいた。カイは短剣を抜いた。城にあるような分厚い楢だ。
茶色い坊主頭が顔を出した。ボーモンだった。
「入れ。尾行はあったか」
「わかりません。気にしてなかったので」
「ここはおれが取ったんだ。古い砦を改装したのだとか。中はまともだ。王が用意した旅籠にはセルヴがいる」
中に入った。真っ暗だった。ボーモンが蝋燭の炎で導く。靴底が土を噛む。柱と背の低いアーチだらけだ。倉かなにかだろう。きっと裏口から地下に入った。
「師匠がケッサさんを守ってるんですね」
「いや、クロードが二階からこっそり連れ出した。ベアの指示だ。陽動作戦というわけだな。だれにも言うなという命令だったが」
「どこに隠れてるんですか」
「聞いていない。きみは聞いているか」
カイは首を振った。コートが振り向いて言った。
「おれは、ガモと橋の監獄に行くと聞いたぞ。潜入して、恋人を助け出すんだ」
「嘘に決まっているだろう。そもそも囚われの恋人という話も怪しいものだ。悪いがケッサは」
「嘘じゃない。おまえはなにも知らないんだ。おまえこそでたらめを聞いたんだ」
階段を上がって廊下に出た。二階の大部屋はがらんとしていた。汚い背嚢に鎧兜、武器が壁にずらりと立てかけてある。ほかの冒険者は遊びにいったのだろう。
コートは子豚を抱えて厨房に行った。アデルは壁に背を預けてすわった。汚れた裾を気にしている。ベアはそれぞれにちがう話を吹き込んだ。だからコートは一人でいる。潜入には目立ちすぎるとでも言ったにちがいない。実際目立つ。王も二人の仲を知っている。だからケッサと一緒にいないほうがいい。
カイが聞いた話もちがっていた。セルヴを護衛につけてかたっぱしから癒やしてまわる。聖女の使徒のひとりとして。都の民が熱狂すれば王は観念してわたしを解放するだろう。
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