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二番目の輝き
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「人少ないね」
ソユーズがぽつりと呟いた言葉は、正確には少し違う。
船内にはもう、僕らの他に誰もいない。
乗客が降りたのは一ヶ月前に通った荒地の星が最後である。
「あの人、大丈夫かな」
かつて希少な鉱物が採掘できたらしいその星は、すでに終わっていた。
鉱脈は枯れ果て、過去を捨て切れない老人達がシェルターに引き籠るだけの星である。
下船した男は父親を迎えに来たと話していたが、その頬は酷く痩せこけ、どちらが介護を要するか判断に窮するほど衰弱していた。
「……死ぬために来たんじゃないか」
あの様子ではそう長くないだろう。
父親の話は建前で、本当は死に場所を求めていたのかもしれない。
「またそうやって。後ろ向きなことばっかり言ってると幸せが逃げちゃうよ」
「逃げる幸せなんて残ってない」
僕は、あの枯れ果てた星と同じだ。
思い入れのないあの男への苦言が漏れ出てしまったのは、萎んだ背中に自分を重ねているからだろう。
他人に苛立ちをぶつけたところでどうなる訳でもないというのに。
頑な僕を前に、ソユーズは呆れて溜め息を吐く。
不甲斐なさから視線を逸らした窓には、代わり映えのない宇宙の黒が緩やかに流れていた。
乗客用のダミー映像だ。
そも、窓などという構造は船体に脆弱性を持たせるだけで、数を開ければ超光速推進に耐えられない。
それでも旅客船である手前、旅の醍醐味の一つを削ることはできず、苦肉の策として採用されたそうだ。
宇宙船マニアを称する男の受け売りである。彼は今どき珍しいレンズ型の眼鏡をかけていて、とうに流行りの過ぎたチェック柄のシャツが印象的な男だった。
「あ、また木星だ」
木星は太陽系の第五惑星で、この船の行く先とは関係ない。ディスプレイに流れる映像は実際の航路には則しておらず、星間旅行が普及した初期に作成されたプロモーション映像である。
もう何百回目にもなるループはいっそ不快感を齎すが、それこそが格安船の証なのかもしれない。
旧式のパイロットシステムによる自動運転。食事は三種類のオートミール。港に掲示されていたが、この船は直に廃船となるらしい。
「アポロは太陽系でどの星が一番好き?」
「……地球かな」
「無難だねぇ」
人類が生まれた星だ。
特別好きという訳ではないが、他の星のことはよく知らない。ただの消去法だ。
「そういうソユーズはどうなんだよ」
「私? 私は太陽が好き」
「明るいのは苦手じゃなかったか」
「うん。でも、アポロは太陽の神様なんでしょ?」
ソユーズが悪戯っぽく笑う。
せめてもの抵抗に無表情を装うけれど、自分でも顔に熱が上がっているのに気が付く。
馬鹿みたいだ。この先に待ち受けるものが何か、僕は知っているのに。
少しでも体温を下げるため、不自然にならない程度に深い呼吸を繰り返す。
一度、二度。
三度目でようやく動悸は落ち着いた。
「動揺し過ぎ」
「そんなことない」
頬杖をついてディスプレイを見る。
倣って視線を流したソユーズの横顔は陶磁のような白さで、宇宙の黒によく映えた。
ただ、映像を眺めるだけの時間が続く。
旅に出てから今日に至るまで、三ヶ月の月日を要した。
初めの一ヶ月は船内も人で賑わっていたが、乗り換えの回数が片手で収まらなくなった頃には寂れた星の間を移動するばかりであった。雑談にも限りがあり、黙り込むことも少なくない。
最初は沈黙が苦痛であった。
無言の時間は自身のつまらなさを象徴するようで、取り繕いの声を上げれば失言が重なり、後悔ばかりが募っていく。
それでもソユーズとの時間は、たとえ意味がなくとも失いたくない。彼女がどう思っているかは知る由もないが。
独りよがりな幸福が彼女を理解できない理由だとしたら、僕は本当に救えない男だ。
「あ」
まもなくベテルギウスを通過します。
ソユーズの短い声につられて顔を上げると、船内の案内表示が切り替わっていた。
間もなくとは言葉ばかりで、実際に通過するには後一時間はかかるはずだが、これまでの道程を鑑みれば確かに間もない時間かもしれない。
「ようやくだね」
「……ああ」
「最後かもしれないし、せっかくだからなんかで遊ぼ」
「何かって?」
「うーん」
ソユーズが席を立ち、備品棚を漁る。
棚には乗客の娯楽として幾つかのボードゲームが並べられているが、いずれも古典的で、格安の宇宙船らしい品揃えである。
しかし、殺風景な船内で暇を潰すには他に方法もなく、退屈な長旅の救いにはなっていた。
「オセロにしよ」
限られた時間で楽しむにはうってつけのゲームだ。
僕が頷くと、ソユーズがテーブルに緑の盤面を置く。
「わたし白」
僕が黒でソユーズが白。
色で実力が変わる訳ではないが、彼女は何故か白を好む。暗黙の了解だった。
「先攻、後攻。どっちにする?」
「わたし後」
「珍しいな。いつも先攻なのに」
「後攻の方が有利なんでしょ?」
「まあ、そうだけど」
促されるままに石を置き、白を一つひっくり返す。
序盤も序盤、悩む場面はどこにもないが、ソユーズは僕の指先をやけに注視している。
「ねえ」
「何?」
「結構オセロやったけどさ、いっつもアポロが勝ってたよね」
「同じくらいだろ。僕もそんなに強くないし」
「絶対アポロの方が強いよ。だからさ、わたしが勝ったら教えて」
「何を?」
「願い事。わたしばっかりなんて不公平じゃない」
ベテルギウスには願いを叶える力がある。
宇宙航路開拓の最盛期、そういう噂が広まった。
当然、ただの恒星にそんな力はない。旅行会社が意図的に広めたデマである。
しかし、表面約三千五百度の灼熱の星に融解間際の距離まで近付けるのは正しく技術の賜物であり、嘘と知りながら人々は己の目で赤い光を観測するその日を焦がれ、開拓の時を待ち続けていた。
ベテルギウス。冬のダイヤモンドの一角。現行する航路の中で、唯一辿り着ける恒星。
僕がこの星に願うとすれば、嘘が暴かれないように、だろうか。
この期に及んで保身を思う自らの浅ましさが嗤える。
「いいよ。ソユーズが勝ったら教える」
「やった。約束だよ」
投げやりな気分で放った言葉だが、ソユーズはやる気十分といった様子で前のめりになる。
石を打つ軽い音が静寂な船内に響き、裏返る石が一枚から二枚、三枚へと増えていく。
中央が埋まり始めた頃、ソユーズは不意に思い出したように口を開いた。
「アポロはさ」
「何?」
「どの星が一番好き?」
「さっきも答えただろ」
「そうじゃなくて。今まで通った星の中で」
頬を膨らませてソユーズは問い直す。
難しい質問だ。
好きと言うのを躊躇うほどにはトラブル続きの道中であった。
幻想的な景観の傍では欲に塗れた悪臭が臭い立ち、痩せた土地でこそ微かな人情が色濃く映って見える。かと思えば、その日限りの幸福を求めた破落戸が、貴いそれらを食い物にする。
おそらく、諸手を挙げて褒め称えられるような星は存在しないだろう。暮らせるかどうかで判断するなら幾つか候補は挙がるものの、好き嫌いとは別の話だ。
「……分からない」
考えるほどに思考が迷路に引き摺り込まれる。
自分の好みすら即答できない優柔不断さにお決まりの自己嫌悪に陥りかけた時、パチンと石を打つ音が僕を現実へ引き戻した。
「でっかい木が沢山生えてた星は?」
「……ああ。あそこか」
巨大な木々が生え並ぶ森と、絵の具を溶かし込んだような深い青色の湖が広がる星があった。
肌に張り付く冷たい湿気と、光を遮る薄灰色の靄が立ち込める景色は陰鬱そのものであるが、葉の揺れる音さえ聞こえる静寂が心を落ち着かせる。都会の喧騒から離れるには最適な富裕層向けの観光惑星であった。
だが、気配を感じぬ静けさは、ある種の者にとっては絶好の狩場になり得る。
「人殺しの精神異常者がいただろ。もう一度行きたいとは思わないな」
観光客の失踪事件。
若い女性ばかりが消息を断つという不穏な事件を聞き回る男がいた。
古布のコートに無精髭を生やした男は、どうやら娘を失ったらしい。
血走った目で誰彼構わず問い詰める様子は、身なりのよい観光客で賑わっていた船内ではあまりに異質で、関わるべきでないことは明らかだった。
男は僕らにも事件の関連を疑ってかかってきたが、目的地までの道すがらに寄っただけの星の事情なぞ知ったことではない。簡素に答えると男は荒々しい足取りで立ち去ったが、厄介なことにソユーズの好奇心に火がついた。
事件の真相を調べたい。
思い付きにしては危険極まりなく、止めるべき欲求である。
しかし、この星には次の乗換便が到着するまでの三日間の滞在で、通りすがりの観光客に刑事の真似事ができるはずもない。大人しくモーテルに引き籠るだけの予定が少しばかり刺激的になったとして、命に関わる事態には到底至らないだろう。
そういう軽い心づもりで彼女の提案に頷いた僕は、一先ず目についた小高い丘に聳える病院に向かうことを決めた。
総人口に反してやけに大きなそれは、床や壁、調度品に至るまでが白に塗り尽くされており、清潔を通り越して目に痛い。いっそ病的ともいえる統一性は、患者の特殊性にあった。
この星には森閑な自然の他に、精神病患者の受け入れという事業がある。
澄んだ空気が精神に良い影響を与えるとはいうが、受付の事務員によれば十年以上入院している患者もいるらしい。
受付の事務員は随分と噂話が好きなようで、ともすれば守秘義務に反しそうな個人情報まで囁き出した時、どこかで見た顔が背後を通り過ぎた。
僕なら勘違いで済ますだけだが、ソユーズは違った。
船で隣の席だった方ですよね。
声をかけられ振り返った老夫婦は確かに隣に座っていた乗客で、上品な笑みを浮かべながらも細められた瞼から覗く瞳は、はっきりと拒絶の意思を訴えていた。
ソユーズも気づいていただろう。だが、何かを嗅ぎ取った彼女は言外の意思なぞ意に介さず、無遠慮に質問を投げ続け、遂には老夫婦の名前と病院を訪ねた理由を聞き出した。
彼らは息子の見舞いに来たと言った後、用事があると逃げるようにその場を後にしたので、それ以上のことを聞くことはできなかったが、足りない情報はお喋りな事務員が補足した。
老夫婦の息子は五年前に病院を脱走した。
当然、老夫婦も承知しているが、彼らは捜索届も出さず、毎年病院を訪れては息子が戻ってきていないか確認し、依然行方知らずだと告げると心底安堵した様子で立ち去るそうだ。
親に忌避される患者は、病院ではありふれた存在なのだろう。一端の観光客でしかない僕等にできることはない。
刑事の真似事に見切りをつけるようソユーズを言い包め、遠回りでモーテルに戻る途中の出来事だった。
先の見えない深い森の奥から、連続して弾ける音がした。
咄嗟に蹲る僕とは違い、ソユーズは音のする方向へ走り出す。
慌てて追いかけ、ようやく追いついた先には一軒の小屋があった。崩れかけたそれは随分昔に放棄されたようで、壁は剥がれかけ屋根には穴が空いていたが、取り立てて珍しくもない。
しかし、微かに残る火薬の臭いと、それを覆い尽くすほどの腐った肉と排泄物の混ざった強烈な悪臭が、明らかな異常を示していた。
僕等はすぐにその場を離れ、警察を呼んだ。
最初は億劫そうにしていた警官も異臭を嗅ぐと顔つきが変わった。次々と駆けつける応援と入れ替わるように、事情聴取のため連行されたので直に目の当たりにすることはなかったが、小屋の中は筆舌に尽くし難い凄惨さであったようだ。
幾重にも折り重なる裸に剥かれた女性の腐乱死体。その上に、頭を半分噛みちぎられ事切れたボロボロのコートを羽織った男と、十数発の弾丸を受けてなお息をする筋肉と脂肪で膨れ上がった巨漢が倒れ伏していたそうだ。
民間人に気を遣う余裕がなかったのか、惨状を事細かに語る警官の話し声が耳に入ってしまい、現場の状況を鮮明に想像した僕は嘔吐しかけた。
「嫌な事件だったね」
「ああ。……あの老夫婦にも、随分嫌な思いをさせられた」
事件対応に追われ手が回らない警察は、簡単な口頭注意だけで僕等を解放した。
いずれにせよ、明日にはこの星を発つ必要がある。疲れ果てた僕は泥のように眠った。
翌朝、鼻の奥にこびりつく死臭に憂鬱になりながら訪れた宇宙港で、件の老夫婦を見かけた。
僕等とは別の便のターミナルで待つ彼らは楽しげに談笑していて、一瞬目が合ったが、すぐに逸された。
あからさまな振る舞いであるが、もう二度と関わることもない。気にするだけ無駄だと首を背けた先には、昨日逮捕されたばかりの狂気の連続殺人鬼を取り上げたニュースが、ディスプレイに大きく映し出されていた。
そして、犯人として巨漢の顔写真と実名が表示された瞬間、驚愕した。
巨漢の姓は老夫婦と同じだった。
珍しい姓だ。無関係ということはない。アナウンサーが続けて語る巨漢の生い立ちは、病院で事務員から聞いた内容とまったく同じで、老夫婦の失踪した息子であることは明らかだった。
だというのに、老夫婦はニュースを見聞きしたうえで、笑顔を崩さず、何でもないふうにゲートに消えていった。
自分達の子供が身勝手な欲望で何人も殺したというのに、素知らぬ顔で奴等は立ち去ったのだ。
思い返しても腹が立つ。
感情は石を置く指先にも表れ、存外に強い音が鳴る。左端の一列が黒に染まった。
「じゃあ、あのカジノがあった星は?」
「賭け事はやらないって知ってるだろ。騒々しいのも好きじゃない」
「でもほら、ベネラちゃんだっけ? いい感じだったじゃん」
「気まぐれだよ。性格も真逆だし」
「頑固なのは一緒だと思うけど」
「……僕は別に頑固じゃないだろ」
だが、ベネラは間違いなく頑固な女性だった。
宇宙でも有数の歓楽街でひと旗揚げようと単身移住した女だ。意思が強くなければ成せない決断である。
「ディーラーさんなんだっけ。カジノに行かせたわたしに感謝して欲しいな」
ベテルギウスまでの運賃は用意していたが、潤沢ではない。
乗換の便を待つだけの滞在予定であったが、節約ばかりの貧乏旅に少しでも彩りを、とソユーズにカジノへの入場料と一回限りの軍資金を渡され、背中を押されるままにたった一人、初めての博打に臨むことになった。
僕に、運なぞという不確かなものに身を委ねる度胸はない。
しかし、端金を握り締めて挑戦した賭け事は結果だけ見れば大勝利であった。
大富豪には程遠いが、チップの数はそこらの参加者に見劣りしない高さまで積み上がる。
自然と顔が綻んでいたのだろう、邪な連中に目をつけられるのは必然である。
調子いいですね。
そう声を掛けてきた身ぎれいな男の目は笑っていない。心算が透けて見える二流の詐欺師だった。
持ち掛けられたポーカーに乗ったのは、イカサマを暴こうなどという勇ましい理由ではない。幸運が続き過ぎたので、一度痛い目に遭っておかないと落ち着けない性分からだ。
一度目も二度目も僕が勝った。そして、追い詰められたフリをして賭け金を吊り上げようと口を回す男を白い目で見ながら臨んだ三戦目。
男は遂にイカサマを仕掛けたらしい。
優れた動体視力も賭け事の知識もない僕がそれに気が付いたのはディーラーのベネラのおかげだった。
お客様、と低い声色で言った彼女の顔は氷像のように冷たい。
哀れにもイカサマを見破られた男は屈強なガードに連れて行かれ、後には何も残らなかった。
危ないところだったわね。
ディーラーとして寡黙であろうと努めていたベネラだが、危機感のない僕に一言物を申さなければ気が済まなかったらしい。
席が空いたのをいいことにあれこれと注意してきたが、今回の勝負に至っては彼女の助力は裏目となった。
男のイカサマはカードの摺り替えだ。隠し持ったそれと交換するだけの単純な仕掛けをベネラに隠し通せていたなら、スリーカードが出来上がっていた。
だが、僕の手元ではフラッシュが揃っていた。イカサマが成功したところで男は負けていた。
ベネラの顔色は真っ青に変わり、長く深いお辞儀をしてからは一言も発しなかった。
胴元としてイカサマを見逃せないのは当たり前だ。客の損得以前にルールであるから、気にはならない。
引き上げるにも丁度いいタイミングだろう。
温かくなった懐を抱えて店を後にすると、私服に着替えたベネラが大急ぎで走り寄ってきた。
お詫びがしたい。
汗に塗れ息も絶え絶えの彼女はそれでも無表情を装い、そう告げた。
小銭をたかりに来たのではないかと疑ったが、必死な走りとポーカーフェイスのちぐはぐさが妙に面白く、一杯くらいならさして財布も痛まないとベネラについていくことを決めた。
辿り着いたのは大通りに面した小洒落たバーである。夜こそが本来の姿であろうこの星は、煌びやかなネオンの光で昼と見紛うほどに照らされ、人の往来も多い。バーに出入りする客もそれなりにいて、尻の毛まで毟るような危険な香りはしない。
サックスの効いたジャズが流れる店内は知らない世界である。まごつく僕に焦れたベネラはそっと腕を引いてカウンター席に座った。
ベネラは無愛想な割によく喋る女性だった。
話題の振り方が絶妙で、口下手な僕でも上手くコミュニケーションがとれたと錯覚するほどだ。二つしか歳は違わないと彼女は言うが、それ以上に人生経験に差があると思った。
だから、口車に乗せられ無意味な勝負を受けてしまった。
ベネラが興味を持ったのは、僕とソユーズの旅の目的である。
ベテルギウスに願いを叶えてもらうのだと冗談めかして説明したが、彼女は納得しなかった。
どうして。何のために。
心の内を語ったところで誰に理解されるものでもない。誰にも話すまいと決めていたが、激しい質問攻めと慣れない酒が僅かに意思を揺らがせた。
もしも明日の出航が延期になれば正直に話す。
通常通りに運行すれば、二度と旅の目的を追求しない。
この星から伸びる航路は安定している。予定の乱れは滅多に起きず、勝ちは決まっているようなものだ。
ベネラの追求から逃れられるならばと僕は安易に賭けに乗り、そして負けた。
宇宙嵐が到来したのだ。
港で立ち尽くす僕等を見て、ベネラは満足そうに鼻を鳴らした。僕の運はあの晩に枯れ果ててしまったらしい。
とはいえ、負けは負けである。
ソユーズに席を外してもらい、僕は近場のファストフード店で簡単に事情を話した。
この旅の経緯について。
ベネラは泣いたが、驚きはしなかった。
たった一日の付き合いだが、彼女は表情に乏しいだけで感受性が豊かなのは知っていた。
ただ、吐いた嘘の責任もとれず、自ら破滅へ歩き出した愚かな男のために流すにはあまりに純粋で、勿体ないくらい綺麗な雫だった。
「まあ、ベネラも今頃はいつも通りやってるよ」
彼女との出会いは間違いなく幸運であるが、所詮は一度きりのものだ。ふと思い出すことはあっても、人生観は変わらない。
現に僕は変わらず破滅への道を辿り、今まさに終わりに到達しようとしているのだから。
石を打ち、斜めの線上をひっくり返す。
盤上には黒が目立ち、白の置き場が限られてきた。
「うーん。他にアポロが好きそうな星、あったかなあ」
「そういうソユーズはどうなんだよ。どの星が一番お気に入りなんだ?」
「わたし? わたしは」
悩む素振りを見せたソユーズは口を開きかけて、慌てて閉じる。
「……アポロが勝ったら教えてあげる」
「このままだと僕が勝ちそうだけど」
「巻き返すからいいの。それよりほら、あの寒かった星はどう? ずっと雪が降ってたところ」
「……ああ。あそこか」
二週間前に立ち寄った星だ。
毎日気温が氷点下を下回る過酷な環境であり、見渡す限り平な雪原が広がっていた。
人口も少なく、これといった名産品もない。地下の栽培施設で食料は確保しているようだが、高齢化により年々担い手も減っているという。
緩やかに終わりへ向かっている星だ。住人は暗い未来を知りながら、足掻くこともせず、ただじっとその時を待っていた。
「何もない星だったな」
活気も、出会いも、繋がりも。
あの星で得たものは何一つない。
「でも、夜空は綺麗だったでしょ?」
日が沈めば更に気温は下がり、産毛さえも凍りつく。誰もが屋内に引き篭もる冷え込みであったが、深夜、ソユーズに寝床から連れ出されロッジの軒下で夜空を見上げた。
灯りの少なさと乾燥した冷たい風がそうさせるのか、星空が近い。肌の感覚は痺れていたが思考は冴えを増していき、肺を循環する澄んだ空気が心地いい。温い体温との差が細胞の一つ一つを粟立たせる。
永遠に続く宇宙と静寂。
耳鳴りがする無音の中で、星の光に照らされた彼女の横顔を忘れることはないだろう。
活気も、出会いも、繋がりも。
何一つない星だったが、あの星だけはもう一度行きたいと思う。
「……好きかもしれない」
「ふふふ。よかった」
ソユーズは安心したように笑った。
愛想笑いの多い彼女が本心を口にしたのは、随分と久しぶりだった。
「よし。それじゃあ、これで最後だね」
盤面に空いた最後の1マスに、白い石が打たれた。隣接する石を縦、横、斜めと裏返していく。
ソユーズの一手は均衡を取り戻し、白と黒、盤上はどちらが多いか一目では分からない入り混じった状態である。
二人で数を声に出しながらそれぞれの石を積み上げる。
「あー、また負けた」
六枚差で黒が多い。僕の勝ちだ。
口では悔しがるものの、ソユーズの表情は明るい。もともと勝敗に興味はなかったのだろう。
「じゃあ、教えてくれよ」
「なにを?」
「ソユーズの一番好きな星。僕が勝ったら教えてくれるんだろ」
「そうだった。そうだなぁ、わたしが一番好きなのは」
『長らくのご搭乗、まことにありがとうございます』
言いかけたところでアナウンスが入る。
プログラムされた自動音声だ。乗客の眠りを妨げないためか音量は小さいが、自然に会話は止まった。
『当機は只今、ベテルギウスのすぐ側で停船しています。ベテルギウスはオリオン座の右肩にあたる赤い恒星として知られており、直径は太陽のおよそ千倍、表面温度は三千五百度にもなる赤色超巨星です。従来の機体であれば近寄ることのできない高温ですが、ご安心ください。当機は約五千度まで耐えることができ、フレアによる電子機器への影響もありません』
事細かな説明は、観光名所として売り出そうとしていた航路開拓当時の名残がある。速さを求める現代とは異なり、頑強性をアピールする謳い文句は時代を感じさせる。
『さて、皆様はベテルギウスには願いを叶える力がある、という言い伝えをご存知でしょうか。かの恒星が放つ赤い光には特別な力があると信じられており、当機に格納された小型艇の高解像度カメラにて、その光を安全に観測することができます。ご搭乗の皆様も、祈りを捧げてみてはいかがでしょうか。それでは、ベテルギウスの姿をご覧ください』
重い扉が動く音がする。小型艇の格納庫が開いたのだろう。
「やっとだね」
ディスプレイの映像がカメラに切り替わる。
映し出されたのは、永遠に続く宇宙だった。
黒の画用紙に白の絵の具を点々と垂らしたような立体感のない闇が漠然と広がっている。赤い光なんてものはどこにもない。
ベテルギウスは死んだ。人類が地球から眺めていた頃にはすでに。
膨れ上がり爆発したベテルギウスは鉄の塊を残して赤い光を失った。
僕らは六百五十年前の光を求めて旅をしていた。
願いが叶う星なんて、ない。
「……ソユーズ」
「やっぱりそうなんだ」
「知ってたのか?」
「当たり前じゃん。子供じゃないのよ」
「それじゃあ初めから」
「うん。アポロが嘘吐いてわたしを部屋から連れ出したことくらい、最初から分かってた」
あっけからんとソユーズは言った。
まるで気にしていない口振りはかつての彼女のようであるが、ディスプレイを見つめる瞳の奥には落胆が滲んでいる。
「じゃあなんで来たんだよ! 信じてないなら、どうして」
「アポロが誘ったんでしょ?」
「そうだけど、そうじゃないだろ!」
「もう、落ち着きなって。いつまでも落ち込んでちゃダメだなって思っただけ」
「……そんなに簡単に話すなよ」
「終わったことだから。ていうか、アポロはジオットのこと、全然知らないでしょ?」
ジオット。二年前に亡くなったソユーズの恋人。
僕が生きているあいつと会ったのはたったの二回だ。
一度目は大学生の頃。
帰省した時に手を繋いで歩く二人とバッタリ出くわしてしまった。
明るい髪色に小洒落たファッション。耳には銀のピアスが煌めき、調子づいた表情が鼻につく。
日の下を歩くことを当然と思っている男だ。目に入るもの全てに劣等感を抱いて生きてきた僕とは正反対の存在だった。
そいつが、ずっと片想いしていた幼馴染と知らないうちに付き合っていた。
失恋のショックで冷や汗をかくだけの僕を前に、ジオットは簡素な挨拶を済ませると早々に去っていき、残された僕は一人立ち尽くすしかなかった。
二度目に会った時、ジオットは病室のベッドに転がっていた。
鍛えた体は萎み、窶れた顔で作った笑みには一切の覇気がない。一目でもう長くないだろうことを察した。
ソユーズを頼む。
交わした言葉はそれだけだ。
それからしばらくしてジオットは死に、ソユーズは部屋に閉じこもった。
「わたしのことより、嘘吐いたこと謝ってよ」
「それは……ごめん。でも、僕は」
おばさんに言われて何度も訪ねたがソユーズが出てくることはなく、久しぶりに顔を見れたのは彼女が手首を切った翌日の病室だった。
肌は別人のように白くなり、視線はぼうっと壁に向けられている。枯れた白木みたいに痩せ細った手足は満足に動かすことも叶わず、風が吹けば塵になって消えてしまうと思った。
ソユーズを繋ぎ止める何かが必要だ。
そうしなければ、彼女はジオットに連れていかれてしまう。
もう二度とソユーズを失いたくない一心で、咄嗟に嘘を吐いた。
願いが叶う星、ベテルギウス。物心つく前に聞いたコマーシャル。
出まかせと知りながら、僕は縋るしかなかった。
「騙すつもりは、なかったんだ」
「ふーん。じゃあなんで?」
「……君を助けられると思った」
ベテルギウスまで三ヶ月ある。
共に時間を過ごし、星を旅して、多くの出会いに恵まれたのなら、ソユーズの視界を晴らすことができると思った。
「変えられると、思ったんだ」
けれど、変えられなかった。
彼女の喪失を埋められず、僕は手をこまねいていただけだ。嘘を吐いた挙句、何も為すことはできなかった。
僕にジオットの代わりは務まらない。
「ソユーズ、君は」
「オセロの約束、まだだったね」
彼女は音もなく立ち上がる。
重力を感じさせない足取りは、波に揺蕩う海月のように美しく、頼りない。
「わたしもアポロと同じ。雪の降る、あの星の夜空が好き」
振り返った彼女はゆるりと微笑む。
見慣れたはずの笑顔が、今は酷く懐かしい。
「ジオットが最後に連れてってくれたの」
「……それはまた、ずいぶん遠くまで行ったもんだな」
「うん。そうだね」
彼女は短く息を吐き、思い出すように息を吸う。
頤を上げた横面は、首筋の細さが目立つ。
「わたしの旅はあそこで終わり。だから、答えはもう決まってた」
彼女が無造作にポケットに手を入れ、キーカードを取り出した。
艦長用のIDパスだ。操縦士のいない無人船に、形式的に用意されたもの。
宇宙に繋がる隔壁を開くための、唯一の鍵。
「ソユーズ!!」
間に合わない。
後ろ手に認証を通した彼女は隔壁の向こうに倒れ込む。無重力に従う彼女を遮るものは何もない。
「やめろっ!!」
彼女は死ぬつもりだ。宇宙に身を投げ、ジオットの後を追うつもりだ。
必死に腕を伸ばすが、目の前で隔壁が閉じる。
「くそ、くそ、くそ!!」
開け。今すぐに。
無駄と知りながら、隔壁を何度も叩く。皮が破れ、骨の痛みが熱に変わり感覚が朧げになろうとも。
「くそっ……」
泣いている暇なんてない。
そんなことは分かっている。なのに、止まらない。視界がぼやけて、こぼれた涙が拳を濡らす。
何度叩いても隔壁は動かない。壁の向こうで減圧システムの動く音がする。
「僕は……僕は、君が、君のことが」
涙と血に塗れた手が鋼の扉の上を滑り、膝が床に突き刺さる。
もう、満足に腕を上げることもできない。すぐそこで死にゆく彼女を前に、項垂れることしかできない。
何が助けるだ。何がベテルギウスだ。
僕は彼女のために、何一つできない。
ディスプレイにソユーズの姿が映り込む。
消えてしまいそうだった彼女は、しかし、宇宙の黒に溶けることはない。生気を失い青白くなった肌は真空の中でこそ彼女の存在を証明している。
曲がらず、一途で、真っ直ぐな。
僕が憧れた彼女が、宇宙に浮かんでいる。
「君が好きだ」
終ぞ伝えられなかった言葉を口にする。
目を閉じたままの彼女が徐々に遠ざかっていく。
「ずっと、ずっと、好きだったんだ」
握り締めた拳がソユーズに触れることはもうない。
僕は乾いていく彼女を、ただ眺めていた。
ソユーズがぽつりと呟いた言葉は、正確には少し違う。
船内にはもう、僕らの他に誰もいない。
乗客が降りたのは一ヶ月前に通った荒地の星が最後である。
「あの人、大丈夫かな」
かつて希少な鉱物が採掘できたらしいその星は、すでに終わっていた。
鉱脈は枯れ果て、過去を捨て切れない老人達がシェルターに引き籠るだけの星である。
下船した男は父親を迎えに来たと話していたが、その頬は酷く痩せこけ、どちらが介護を要するか判断に窮するほど衰弱していた。
「……死ぬために来たんじゃないか」
あの様子ではそう長くないだろう。
父親の話は建前で、本当は死に場所を求めていたのかもしれない。
「またそうやって。後ろ向きなことばっかり言ってると幸せが逃げちゃうよ」
「逃げる幸せなんて残ってない」
僕は、あの枯れ果てた星と同じだ。
思い入れのないあの男への苦言が漏れ出てしまったのは、萎んだ背中に自分を重ねているからだろう。
他人に苛立ちをぶつけたところでどうなる訳でもないというのに。
頑な僕を前に、ソユーズは呆れて溜め息を吐く。
不甲斐なさから視線を逸らした窓には、代わり映えのない宇宙の黒が緩やかに流れていた。
乗客用のダミー映像だ。
そも、窓などという構造は船体に脆弱性を持たせるだけで、数を開ければ超光速推進に耐えられない。
それでも旅客船である手前、旅の醍醐味の一つを削ることはできず、苦肉の策として採用されたそうだ。
宇宙船マニアを称する男の受け売りである。彼は今どき珍しいレンズ型の眼鏡をかけていて、とうに流行りの過ぎたチェック柄のシャツが印象的な男だった。
「あ、また木星だ」
木星は太陽系の第五惑星で、この船の行く先とは関係ない。ディスプレイに流れる映像は実際の航路には則しておらず、星間旅行が普及した初期に作成されたプロモーション映像である。
もう何百回目にもなるループはいっそ不快感を齎すが、それこそが格安船の証なのかもしれない。
旧式のパイロットシステムによる自動運転。食事は三種類のオートミール。港に掲示されていたが、この船は直に廃船となるらしい。
「アポロは太陽系でどの星が一番好き?」
「……地球かな」
「無難だねぇ」
人類が生まれた星だ。
特別好きという訳ではないが、他の星のことはよく知らない。ただの消去法だ。
「そういうソユーズはどうなんだよ」
「私? 私は太陽が好き」
「明るいのは苦手じゃなかったか」
「うん。でも、アポロは太陽の神様なんでしょ?」
ソユーズが悪戯っぽく笑う。
せめてもの抵抗に無表情を装うけれど、自分でも顔に熱が上がっているのに気が付く。
馬鹿みたいだ。この先に待ち受けるものが何か、僕は知っているのに。
少しでも体温を下げるため、不自然にならない程度に深い呼吸を繰り返す。
一度、二度。
三度目でようやく動悸は落ち着いた。
「動揺し過ぎ」
「そんなことない」
頬杖をついてディスプレイを見る。
倣って視線を流したソユーズの横顔は陶磁のような白さで、宇宙の黒によく映えた。
ただ、映像を眺めるだけの時間が続く。
旅に出てから今日に至るまで、三ヶ月の月日を要した。
初めの一ヶ月は船内も人で賑わっていたが、乗り換えの回数が片手で収まらなくなった頃には寂れた星の間を移動するばかりであった。雑談にも限りがあり、黙り込むことも少なくない。
最初は沈黙が苦痛であった。
無言の時間は自身のつまらなさを象徴するようで、取り繕いの声を上げれば失言が重なり、後悔ばかりが募っていく。
それでもソユーズとの時間は、たとえ意味がなくとも失いたくない。彼女がどう思っているかは知る由もないが。
独りよがりな幸福が彼女を理解できない理由だとしたら、僕は本当に救えない男だ。
「あ」
まもなくベテルギウスを通過します。
ソユーズの短い声につられて顔を上げると、船内の案内表示が切り替わっていた。
間もなくとは言葉ばかりで、実際に通過するには後一時間はかかるはずだが、これまでの道程を鑑みれば確かに間もない時間かもしれない。
「ようやくだね」
「……ああ」
「最後かもしれないし、せっかくだからなんかで遊ぼ」
「何かって?」
「うーん」
ソユーズが席を立ち、備品棚を漁る。
棚には乗客の娯楽として幾つかのボードゲームが並べられているが、いずれも古典的で、格安の宇宙船らしい品揃えである。
しかし、殺風景な船内で暇を潰すには他に方法もなく、退屈な長旅の救いにはなっていた。
「オセロにしよ」
限られた時間で楽しむにはうってつけのゲームだ。
僕が頷くと、ソユーズがテーブルに緑の盤面を置く。
「わたし白」
僕が黒でソユーズが白。
色で実力が変わる訳ではないが、彼女は何故か白を好む。暗黙の了解だった。
「先攻、後攻。どっちにする?」
「わたし後」
「珍しいな。いつも先攻なのに」
「後攻の方が有利なんでしょ?」
「まあ、そうだけど」
促されるままに石を置き、白を一つひっくり返す。
序盤も序盤、悩む場面はどこにもないが、ソユーズは僕の指先をやけに注視している。
「ねえ」
「何?」
「結構オセロやったけどさ、いっつもアポロが勝ってたよね」
「同じくらいだろ。僕もそんなに強くないし」
「絶対アポロの方が強いよ。だからさ、わたしが勝ったら教えて」
「何を?」
「願い事。わたしばっかりなんて不公平じゃない」
ベテルギウスには願いを叶える力がある。
宇宙航路開拓の最盛期、そういう噂が広まった。
当然、ただの恒星にそんな力はない。旅行会社が意図的に広めたデマである。
しかし、表面約三千五百度の灼熱の星に融解間際の距離まで近付けるのは正しく技術の賜物であり、嘘と知りながら人々は己の目で赤い光を観測するその日を焦がれ、開拓の時を待ち続けていた。
ベテルギウス。冬のダイヤモンドの一角。現行する航路の中で、唯一辿り着ける恒星。
僕がこの星に願うとすれば、嘘が暴かれないように、だろうか。
この期に及んで保身を思う自らの浅ましさが嗤える。
「いいよ。ソユーズが勝ったら教える」
「やった。約束だよ」
投げやりな気分で放った言葉だが、ソユーズはやる気十分といった様子で前のめりになる。
石を打つ軽い音が静寂な船内に響き、裏返る石が一枚から二枚、三枚へと増えていく。
中央が埋まり始めた頃、ソユーズは不意に思い出したように口を開いた。
「アポロはさ」
「何?」
「どの星が一番好き?」
「さっきも答えただろ」
「そうじゃなくて。今まで通った星の中で」
頬を膨らませてソユーズは問い直す。
難しい質問だ。
好きと言うのを躊躇うほどにはトラブル続きの道中であった。
幻想的な景観の傍では欲に塗れた悪臭が臭い立ち、痩せた土地でこそ微かな人情が色濃く映って見える。かと思えば、その日限りの幸福を求めた破落戸が、貴いそれらを食い物にする。
おそらく、諸手を挙げて褒め称えられるような星は存在しないだろう。暮らせるかどうかで判断するなら幾つか候補は挙がるものの、好き嫌いとは別の話だ。
「……分からない」
考えるほどに思考が迷路に引き摺り込まれる。
自分の好みすら即答できない優柔不断さにお決まりの自己嫌悪に陥りかけた時、パチンと石を打つ音が僕を現実へ引き戻した。
「でっかい木が沢山生えてた星は?」
「……ああ。あそこか」
巨大な木々が生え並ぶ森と、絵の具を溶かし込んだような深い青色の湖が広がる星があった。
肌に張り付く冷たい湿気と、光を遮る薄灰色の靄が立ち込める景色は陰鬱そのものであるが、葉の揺れる音さえ聞こえる静寂が心を落ち着かせる。都会の喧騒から離れるには最適な富裕層向けの観光惑星であった。
だが、気配を感じぬ静けさは、ある種の者にとっては絶好の狩場になり得る。
「人殺しの精神異常者がいただろ。もう一度行きたいとは思わないな」
観光客の失踪事件。
若い女性ばかりが消息を断つという不穏な事件を聞き回る男がいた。
古布のコートに無精髭を生やした男は、どうやら娘を失ったらしい。
血走った目で誰彼構わず問い詰める様子は、身なりのよい観光客で賑わっていた船内ではあまりに異質で、関わるべきでないことは明らかだった。
男は僕らにも事件の関連を疑ってかかってきたが、目的地までの道すがらに寄っただけの星の事情なぞ知ったことではない。簡素に答えると男は荒々しい足取りで立ち去ったが、厄介なことにソユーズの好奇心に火がついた。
事件の真相を調べたい。
思い付きにしては危険極まりなく、止めるべき欲求である。
しかし、この星には次の乗換便が到着するまでの三日間の滞在で、通りすがりの観光客に刑事の真似事ができるはずもない。大人しくモーテルに引き籠るだけの予定が少しばかり刺激的になったとして、命に関わる事態には到底至らないだろう。
そういう軽い心づもりで彼女の提案に頷いた僕は、一先ず目についた小高い丘に聳える病院に向かうことを決めた。
総人口に反してやけに大きなそれは、床や壁、調度品に至るまでが白に塗り尽くされており、清潔を通り越して目に痛い。いっそ病的ともいえる統一性は、患者の特殊性にあった。
この星には森閑な自然の他に、精神病患者の受け入れという事業がある。
澄んだ空気が精神に良い影響を与えるとはいうが、受付の事務員によれば十年以上入院している患者もいるらしい。
受付の事務員は随分と噂話が好きなようで、ともすれば守秘義務に反しそうな個人情報まで囁き出した時、どこかで見た顔が背後を通り過ぎた。
僕なら勘違いで済ますだけだが、ソユーズは違った。
船で隣の席だった方ですよね。
声をかけられ振り返った老夫婦は確かに隣に座っていた乗客で、上品な笑みを浮かべながらも細められた瞼から覗く瞳は、はっきりと拒絶の意思を訴えていた。
ソユーズも気づいていただろう。だが、何かを嗅ぎ取った彼女は言外の意思なぞ意に介さず、無遠慮に質問を投げ続け、遂には老夫婦の名前と病院を訪ねた理由を聞き出した。
彼らは息子の見舞いに来たと言った後、用事があると逃げるようにその場を後にしたので、それ以上のことを聞くことはできなかったが、足りない情報はお喋りな事務員が補足した。
老夫婦の息子は五年前に病院を脱走した。
当然、老夫婦も承知しているが、彼らは捜索届も出さず、毎年病院を訪れては息子が戻ってきていないか確認し、依然行方知らずだと告げると心底安堵した様子で立ち去るそうだ。
親に忌避される患者は、病院ではありふれた存在なのだろう。一端の観光客でしかない僕等にできることはない。
刑事の真似事に見切りをつけるようソユーズを言い包め、遠回りでモーテルに戻る途中の出来事だった。
先の見えない深い森の奥から、連続して弾ける音がした。
咄嗟に蹲る僕とは違い、ソユーズは音のする方向へ走り出す。
慌てて追いかけ、ようやく追いついた先には一軒の小屋があった。崩れかけたそれは随分昔に放棄されたようで、壁は剥がれかけ屋根には穴が空いていたが、取り立てて珍しくもない。
しかし、微かに残る火薬の臭いと、それを覆い尽くすほどの腐った肉と排泄物の混ざった強烈な悪臭が、明らかな異常を示していた。
僕等はすぐにその場を離れ、警察を呼んだ。
最初は億劫そうにしていた警官も異臭を嗅ぐと顔つきが変わった。次々と駆けつける応援と入れ替わるように、事情聴取のため連行されたので直に目の当たりにすることはなかったが、小屋の中は筆舌に尽くし難い凄惨さであったようだ。
幾重にも折り重なる裸に剥かれた女性の腐乱死体。その上に、頭を半分噛みちぎられ事切れたボロボロのコートを羽織った男と、十数発の弾丸を受けてなお息をする筋肉と脂肪で膨れ上がった巨漢が倒れ伏していたそうだ。
民間人に気を遣う余裕がなかったのか、惨状を事細かに語る警官の話し声が耳に入ってしまい、現場の状況を鮮明に想像した僕は嘔吐しかけた。
「嫌な事件だったね」
「ああ。……あの老夫婦にも、随分嫌な思いをさせられた」
事件対応に追われ手が回らない警察は、簡単な口頭注意だけで僕等を解放した。
いずれにせよ、明日にはこの星を発つ必要がある。疲れ果てた僕は泥のように眠った。
翌朝、鼻の奥にこびりつく死臭に憂鬱になりながら訪れた宇宙港で、件の老夫婦を見かけた。
僕等とは別の便のターミナルで待つ彼らは楽しげに談笑していて、一瞬目が合ったが、すぐに逸された。
あからさまな振る舞いであるが、もう二度と関わることもない。気にするだけ無駄だと首を背けた先には、昨日逮捕されたばかりの狂気の連続殺人鬼を取り上げたニュースが、ディスプレイに大きく映し出されていた。
そして、犯人として巨漢の顔写真と実名が表示された瞬間、驚愕した。
巨漢の姓は老夫婦と同じだった。
珍しい姓だ。無関係ということはない。アナウンサーが続けて語る巨漢の生い立ちは、病院で事務員から聞いた内容とまったく同じで、老夫婦の失踪した息子であることは明らかだった。
だというのに、老夫婦はニュースを見聞きしたうえで、笑顔を崩さず、何でもないふうにゲートに消えていった。
自分達の子供が身勝手な欲望で何人も殺したというのに、素知らぬ顔で奴等は立ち去ったのだ。
思い返しても腹が立つ。
感情は石を置く指先にも表れ、存外に強い音が鳴る。左端の一列が黒に染まった。
「じゃあ、あのカジノがあった星は?」
「賭け事はやらないって知ってるだろ。騒々しいのも好きじゃない」
「でもほら、ベネラちゃんだっけ? いい感じだったじゃん」
「気まぐれだよ。性格も真逆だし」
「頑固なのは一緒だと思うけど」
「……僕は別に頑固じゃないだろ」
だが、ベネラは間違いなく頑固な女性だった。
宇宙でも有数の歓楽街でひと旗揚げようと単身移住した女だ。意思が強くなければ成せない決断である。
「ディーラーさんなんだっけ。カジノに行かせたわたしに感謝して欲しいな」
ベテルギウスまでの運賃は用意していたが、潤沢ではない。
乗換の便を待つだけの滞在予定であったが、節約ばかりの貧乏旅に少しでも彩りを、とソユーズにカジノへの入場料と一回限りの軍資金を渡され、背中を押されるままにたった一人、初めての博打に臨むことになった。
僕に、運なぞという不確かなものに身を委ねる度胸はない。
しかし、端金を握り締めて挑戦した賭け事は結果だけ見れば大勝利であった。
大富豪には程遠いが、チップの数はそこらの参加者に見劣りしない高さまで積み上がる。
自然と顔が綻んでいたのだろう、邪な連中に目をつけられるのは必然である。
調子いいですね。
そう声を掛けてきた身ぎれいな男の目は笑っていない。心算が透けて見える二流の詐欺師だった。
持ち掛けられたポーカーに乗ったのは、イカサマを暴こうなどという勇ましい理由ではない。幸運が続き過ぎたので、一度痛い目に遭っておかないと落ち着けない性分からだ。
一度目も二度目も僕が勝った。そして、追い詰められたフリをして賭け金を吊り上げようと口を回す男を白い目で見ながら臨んだ三戦目。
男は遂にイカサマを仕掛けたらしい。
優れた動体視力も賭け事の知識もない僕がそれに気が付いたのはディーラーのベネラのおかげだった。
お客様、と低い声色で言った彼女の顔は氷像のように冷たい。
哀れにもイカサマを見破られた男は屈強なガードに連れて行かれ、後には何も残らなかった。
危ないところだったわね。
ディーラーとして寡黙であろうと努めていたベネラだが、危機感のない僕に一言物を申さなければ気が済まなかったらしい。
席が空いたのをいいことにあれこれと注意してきたが、今回の勝負に至っては彼女の助力は裏目となった。
男のイカサマはカードの摺り替えだ。隠し持ったそれと交換するだけの単純な仕掛けをベネラに隠し通せていたなら、スリーカードが出来上がっていた。
だが、僕の手元ではフラッシュが揃っていた。イカサマが成功したところで男は負けていた。
ベネラの顔色は真っ青に変わり、長く深いお辞儀をしてからは一言も発しなかった。
胴元としてイカサマを見逃せないのは当たり前だ。客の損得以前にルールであるから、気にはならない。
引き上げるにも丁度いいタイミングだろう。
温かくなった懐を抱えて店を後にすると、私服に着替えたベネラが大急ぎで走り寄ってきた。
お詫びがしたい。
汗に塗れ息も絶え絶えの彼女はそれでも無表情を装い、そう告げた。
小銭をたかりに来たのではないかと疑ったが、必死な走りとポーカーフェイスのちぐはぐさが妙に面白く、一杯くらいならさして財布も痛まないとベネラについていくことを決めた。
辿り着いたのは大通りに面した小洒落たバーである。夜こそが本来の姿であろうこの星は、煌びやかなネオンの光で昼と見紛うほどに照らされ、人の往来も多い。バーに出入りする客もそれなりにいて、尻の毛まで毟るような危険な香りはしない。
サックスの効いたジャズが流れる店内は知らない世界である。まごつく僕に焦れたベネラはそっと腕を引いてカウンター席に座った。
ベネラは無愛想な割によく喋る女性だった。
話題の振り方が絶妙で、口下手な僕でも上手くコミュニケーションがとれたと錯覚するほどだ。二つしか歳は違わないと彼女は言うが、それ以上に人生経験に差があると思った。
だから、口車に乗せられ無意味な勝負を受けてしまった。
ベネラが興味を持ったのは、僕とソユーズの旅の目的である。
ベテルギウスに願いを叶えてもらうのだと冗談めかして説明したが、彼女は納得しなかった。
どうして。何のために。
心の内を語ったところで誰に理解されるものでもない。誰にも話すまいと決めていたが、激しい質問攻めと慣れない酒が僅かに意思を揺らがせた。
もしも明日の出航が延期になれば正直に話す。
通常通りに運行すれば、二度と旅の目的を追求しない。
この星から伸びる航路は安定している。予定の乱れは滅多に起きず、勝ちは決まっているようなものだ。
ベネラの追求から逃れられるならばと僕は安易に賭けに乗り、そして負けた。
宇宙嵐が到来したのだ。
港で立ち尽くす僕等を見て、ベネラは満足そうに鼻を鳴らした。僕の運はあの晩に枯れ果ててしまったらしい。
とはいえ、負けは負けである。
ソユーズに席を外してもらい、僕は近場のファストフード店で簡単に事情を話した。
この旅の経緯について。
ベネラは泣いたが、驚きはしなかった。
たった一日の付き合いだが、彼女は表情に乏しいだけで感受性が豊かなのは知っていた。
ただ、吐いた嘘の責任もとれず、自ら破滅へ歩き出した愚かな男のために流すにはあまりに純粋で、勿体ないくらい綺麗な雫だった。
「まあ、ベネラも今頃はいつも通りやってるよ」
彼女との出会いは間違いなく幸運であるが、所詮は一度きりのものだ。ふと思い出すことはあっても、人生観は変わらない。
現に僕は変わらず破滅への道を辿り、今まさに終わりに到達しようとしているのだから。
石を打ち、斜めの線上をひっくり返す。
盤上には黒が目立ち、白の置き場が限られてきた。
「うーん。他にアポロが好きそうな星、あったかなあ」
「そういうソユーズはどうなんだよ。どの星が一番お気に入りなんだ?」
「わたし? わたしは」
悩む素振りを見せたソユーズは口を開きかけて、慌てて閉じる。
「……アポロが勝ったら教えてあげる」
「このままだと僕が勝ちそうだけど」
「巻き返すからいいの。それよりほら、あの寒かった星はどう? ずっと雪が降ってたところ」
「……ああ。あそこか」
二週間前に立ち寄った星だ。
毎日気温が氷点下を下回る過酷な環境であり、見渡す限り平な雪原が広がっていた。
人口も少なく、これといった名産品もない。地下の栽培施設で食料は確保しているようだが、高齢化により年々担い手も減っているという。
緩やかに終わりへ向かっている星だ。住人は暗い未来を知りながら、足掻くこともせず、ただじっとその時を待っていた。
「何もない星だったな」
活気も、出会いも、繋がりも。
あの星で得たものは何一つない。
「でも、夜空は綺麗だったでしょ?」
日が沈めば更に気温は下がり、産毛さえも凍りつく。誰もが屋内に引き篭もる冷え込みであったが、深夜、ソユーズに寝床から連れ出されロッジの軒下で夜空を見上げた。
灯りの少なさと乾燥した冷たい風がそうさせるのか、星空が近い。肌の感覚は痺れていたが思考は冴えを増していき、肺を循環する澄んだ空気が心地いい。温い体温との差が細胞の一つ一つを粟立たせる。
永遠に続く宇宙と静寂。
耳鳴りがする無音の中で、星の光に照らされた彼女の横顔を忘れることはないだろう。
活気も、出会いも、繋がりも。
何一つない星だったが、あの星だけはもう一度行きたいと思う。
「……好きかもしれない」
「ふふふ。よかった」
ソユーズは安心したように笑った。
愛想笑いの多い彼女が本心を口にしたのは、随分と久しぶりだった。
「よし。それじゃあ、これで最後だね」
盤面に空いた最後の1マスに、白い石が打たれた。隣接する石を縦、横、斜めと裏返していく。
ソユーズの一手は均衡を取り戻し、白と黒、盤上はどちらが多いか一目では分からない入り混じった状態である。
二人で数を声に出しながらそれぞれの石を積み上げる。
「あー、また負けた」
六枚差で黒が多い。僕の勝ちだ。
口では悔しがるものの、ソユーズの表情は明るい。もともと勝敗に興味はなかったのだろう。
「じゃあ、教えてくれよ」
「なにを?」
「ソユーズの一番好きな星。僕が勝ったら教えてくれるんだろ」
「そうだった。そうだなぁ、わたしが一番好きなのは」
『長らくのご搭乗、まことにありがとうございます』
言いかけたところでアナウンスが入る。
プログラムされた自動音声だ。乗客の眠りを妨げないためか音量は小さいが、自然に会話は止まった。
『当機は只今、ベテルギウスのすぐ側で停船しています。ベテルギウスはオリオン座の右肩にあたる赤い恒星として知られており、直径は太陽のおよそ千倍、表面温度は三千五百度にもなる赤色超巨星です。従来の機体であれば近寄ることのできない高温ですが、ご安心ください。当機は約五千度まで耐えることができ、フレアによる電子機器への影響もありません』
事細かな説明は、観光名所として売り出そうとしていた航路開拓当時の名残がある。速さを求める現代とは異なり、頑強性をアピールする謳い文句は時代を感じさせる。
『さて、皆様はベテルギウスには願いを叶える力がある、という言い伝えをご存知でしょうか。かの恒星が放つ赤い光には特別な力があると信じられており、当機に格納された小型艇の高解像度カメラにて、その光を安全に観測することができます。ご搭乗の皆様も、祈りを捧げてみてはいかがでしょうか。それでは、ベテルギウスの姿をご覧ください』
重い扉が動く音がする。小型艇の格納庫が開いたのだろう。
「やっとだね」
ディスプレイの映像がカメラに切り替わる。
映し出されたのは、永遠に続く宇宙だった。
黒の画用紙に白の絵の具を点々と垂らしたような立体感のない闇が漠然と広がっている。赤い光なんてものはどこにもない。
ベテルギウスは死んだ。人類が地球から眺めていた頃にはすでに。
膨れ上がり爆発したベテルギウスは鉄の塊を残して赤い光を失った。
僕らは六百五十年前の光を求めて旅をしていた。
願いが叶う星なんて、ない。
「……ソユーズ」
「やっぱりそうなんだ」
「知ってたのか?」
「当たり前じゃん。子供じゃないのよ」
「それじゃあ初めから」
「うん。アポロが嘘吐いてわたしを部屋から連れ出したことくらい、最初から分かってた」
あっけからんとソユーズは言った。
まるで気にしていない口振りはかつての彼女のようであるが、ディスプレイを見つめる瞳の奥には落胆が滲んでいる。
「じゃあなんで来たんだよ! 信じてないなら、どうして」
「アポロが誘ったんでしょ?」
「そうだけど、そうじゃないだろ!」
「もう、落ち着きなって。いつまでも落ち込んでちゃダメだなって思っただけ」
「……そんなに簡単に話すなよ」
「終わったことだから。ていうか、アポロはジオットのこと、全然知らないでしょ?」
ジオット。二年前に亡くなったソユーズの恋人。
僕が生きているあいつと会ったのはたったの二回だ。
一度目は大学生の頃。
帰省した時に手を繋いで歩く二人とバッタリ出くわしてしまった。
明るい髪色に小洒落たファッション。耳には銀のピアスが煌めき、調子づいた表情が鼻につく。
日の下を歩くことを当然と思っている男だ。目に入るもの全てに劣等感を抱いて生きてきた僕とは正反対の存在だった。
そいつが、ずっと片想いしていた幼馴染と知らないうちに付き合っていた。
失恋のショックで冷や汗をかくだけの僕を前に、ジオットは簡素な挨拶を済ませると早々に去っていき、残された僕は一人立ち尽くすしかなかった。
二度目に会った時、ジオットは病室のベッドに転がっていた。
鍛えた体は萎み、窶れた顔で作った笑みには一切の覇気がない。一目でもう長くないだろうことを察した。
ソユーズを頼む。
交わした言葉はそれだけだ。
それからしばらくしてジオットは死に、ソユーズは部屋に閉じこもった。
「わたしのことより、嘘吐いたこと謝ってよ」
「それは……ごめん。でも、僕は」
おばさんに言われて何度も訪ねたがソユーズが出てくることはなく、久しぶりに顔を見れたのは彼女が手首を切った翌日の病室だった。
肌は別人のように白くなり、視線はぼうっと壁に向けられている。枯れた白木みたいに痩せ細った手足は満足に動かすことも叶わず、風が吹けば塵になって消えてしまうと思った。
ソユーズを繋ぎ止める何かが必要だ。
そうしなければ、彼女はジオットに連れていかれてしまう。
もう二度とソユーズを失いたくない一心で、咄嗟に嘘を吐いた。
願いが叶う星、ベテルギウス。物心つく前に聞いたコマーシャル。
出まかせと知りながら、僕は縋るしかなかった。
「騙すつもりは、なかったんだ」
「ふーん。じゃあなんで?」
「……君を助けられると思った」
ベテルギウスまで三ヶ月ある。
共に時間を過ごし、星を旅して、多くの出会いに恵まれたのなら、ソユーズの視界を晴らすことができると思った。
「変えられると、思ったんだ」
けれど、変えられなかった。
彼女の喪失を埋められず、僕は手をこまねいていただけだ。嘘を吐いた挙句、何も為すことはできなかった。
僕にジオットの代わりは務まらない。
「ソユーズ、君は」
「オセロの約束、まだだったね」
彼女は音もなく立ち上がる。
重力を感じさせない足取りは、波に揺蕩う海月のように美しく、頼りない。
「わたしもアポロと同じ。雪の降る、あの星の夜空が好き」
振り返った彼女はゆるりと微笑む。
見慣れたはずの笑顔が、今は酷く懐かしい。
「ジオットが最後に連れてってくれたの」
「……それはまた、ずいぶん遠くまで行ったもんだな」
「うん。そうだね」
彼女は短く息を吐き、思い出すように息を吸う。
頤を上げた横面は、首筋の細さが目立つ。
「わたしの旅はあそこで終わり。だから、答えはもう決まってた」
彼女が無造作にポケットに手を入れ、キーカードを取り出した。
艦長用のIDパスだ。操縦士のいない無人船に、形式的に用意されたもの。
宇宙に繋がる隔壁を開くための、唯一の鍵。
「ソユーズ!!」
間に合わない。
後ろ手に認証を通した彼女は隔壁の向こうに倒れ込む。無重力に従う彼女を遮るものは何もない。
「やめろっ!!」
彼女は死ぬつもりだ。宇宙に身を投げ、ジオットの後を追うつもりだ。
必死に腕を伸ばすが、目の前で隔壁が閉じる。
「くそ、くそ、くそ!!」
開け。今すぐに。
無駄と知りながら、隔壁を何度も叩く。皮が破れ、骨の痛みが熱に変わり感覚が朧げになろうとも。
「くそっ……」
泣いている暇なんてない。
そんなことは分かっている。なのに、止まらない。視界がぼやけて、こぼれた涙が拳を濡らす。
何度叩いても隔壁は動かない。壁の向こうで減圧システムの動く音がする。
「僕は……僕は、君が、君のことが」
涙と血に塗れた手が鋼の扉の上を滑り、膝が床に突き刺さる。
もう、満足に腕を上げることもできない。すぐそこで死にゆく彼女を前に、項垂れることしかできない。
何が助けるだ。何がベテルギウスだ。
僕は彼女のために、何一つできない。
ディスプレイにソユーズの姿が映り込む。
消えてしまいそうだった彼女は、しかし、宇宙の黒に溶けることはない。生気を失い青白くなった肌は真空の中でこそ彼女の存在を証明している。
曲がらず、一途で、真っ直ぐな。
僕が憧れた彼女が、宇宙に浮かんでいる。
「君が好きだ」
終ぞ伝えられなかった言葉を口にする。
目を閉じたままの彼女が徐々に遠ざかっていく。
「ずっと、ずっと、好きだったんだ」
握り締めた拳がソユーズに触れることはもうない。
僕は乾いていく彼女を、ただ眺めていた。
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大衆娯楽
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トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。
いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。
考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。
赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。
言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。
たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。
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