ペトリコールと怪女たち

カシノ

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メアリさんの留守番電話

007

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 午前六時。
 控えめなアラームで目を覚まし、くたびれた肩を上に伸ばす。関節の解れる音と一緒に大きな欠伸がやってきて、卵を飲み込めそうなほど口が開いた。

「ふぅ」

 生理反射で流れた涙が寝起きで乾燥した頬に吸い込まれる。やけに暗い室内とカーテン越しの水音が陰鬱な雨を告げていた。
 もっとも、わたしの生活に天気はあまり関係ない。
 在宅業務が中心なので外出の必要はほとんどなく、日用品の購入もネット通販で事足りる。
 強いて言えば、いつもより一、二分、彼の寝覚めが遅れてしまうことだろうか。
 音を立てないよう壁に体を貼り付ける。
 心音さえも殺して耳を澄ませると、ベッドの軋みが微かに聞こえた。彼の日常に触れているという実感に思わず口元が緩む。

「おはよう、包介くん」

 すっかり慣れた挨拶を囁く。
 わたしの声が厚い鉄筋コンクリートを通り抜けて包介くんの耳に届くことはない。それでも、この一言がないと一日が始まらない。
 ここに越してから二ヶ月と少し。
 彼の部屋を特定してから欠かさずの日課だった。

「……よし」

 数分、伝わってくるような気がする温かみを堪能してから、そっと体を離す。
 朝は忙しい。できることなら起きる時間も揃えたいけど、早起きして用意を済ませなければ、みっともない格好を包介くんに晒すことになってしまう。
 湿気と寝汗を閉じ込めた布団を捲り上げ、冷ややかな室内に両の手足を放り出す。
 温度差に背中がぶるりと震えるが、眠気覚ましにちょうどいい。
 薄く垂れた鼻水を拭い、フローリングに足を下ろす。

「ひゃっ」

 ひゃっこい。
 五月も半ばを過ぎたが、じめついた湿気に冷やされた床は間抜けな声が漏れる程度には冷たかった。
 爪先立ちのまま廊下を進み、居間に入る。
 まずは朝食。一人用の冷蔵庫からヨーグルトと買い貯めた紙パックの野菜ジュースを取り出して、食器棚の上に置いたバナナの房から一本もぐ。
 それらをカウンターの上に並べたところで口内のベタつきが気になった。うがいをしに洗面所に向かう。

「……はあ」

 そこで今日初めて、自分の顔を見た。
 わたしは容姿に恵まれている。
 母は性格こそ醜いが見た目だけは美人の類だ。父親の顔は覚えていないが、恐らく上手く二人の特徴を受け継いだわたしは、可愛さと綺麗さを両立させた美人だと自負している。
 それでも、寝起きの姿は見苦しいという他ない。
 くすんだ色の金髪はあちこちがはね上がり、寝不足気味の目の下は暗い隈で囲われている。姿勢の悪さも陰気な雰囲気を後押ししていて、とても人前に出られる姿ではない。

「……はあ」

 これが加齢の影響か。それとも、若さにかまけて自分磨きを怠った罰なのか。
 どちらにせよ、かつての自分を取り戻すことはできず、上回ることはもうない。
 漏れ出た二度目の溜め息は深く、胃がもたれそうなほど重かった。
 でも、過去を羨んでいる暇はない。予定の時間は刻一刻と迫り、万全の体制を整えるには反省すら惜しい。
 冷水で顔を丸洗いして落ち込んだ自分に喝を入れる。

「よし」

 切り替えの速さは経験から得るしかない。
 歳をとることは衰えるだけではないと納得して、手柄杓で溜めた水でうがいする。少しだけさっぱりした。
 バスタオルで顔を拭って居間に戻り再びキッチンに立つ。
 食卓用のテーブルはあるが、座るのも面倒だ。立ち食いしてしまおう。
 食事に必要なのは栄養と速さ。
 碌な咀嚼もせずにバナナを口に押し込み、飲み込むのと同時にヨーグルトをかき入れる。
 ストローを乱雑に差し入れた野菜ジュースを一気に飲み干してしまえば、それでわたしの朝食は終わった。
 さて、本番はここからだ。
 包介くんの出発予定まで後二時間弱。
 それだけの時間を、すべて身嗜みを整えるのに使う。これも習慣になったことだ。
 化粧に髪型、服装や匂い。
 どれだけ時間を掛けても掛け過ぎるということはない。やればやるだけ足りない部分が浮き出てくる。
 言葉では長く感じる二時間も実際に過ごせばあっという間だ。いつもどこかに不安を覚えながら、それでも時間は迫っているので仕方なしに出掛けている。

「……はあ」

 準備万端の完璧なわたしなら、きっとすぐに思い出してくれるのに。
 つい二ヶ月前、包介くんの告げた一言は思い出すたびにわたしの心を締め付ける。
 会いたい気持ちに蓋をせずもっと早く訪ねていれば、結果は違ったかもしれない。恥を捨てて学生服を着ていったなら多少は可能性があったように思う。
 今更後悔して変わる話ではないが、考えずにはいられない。
 また暗い気持ちになってしまった。
 まるで進展のない現状がそうさせているのか。思い出の場所を写した写真を渡したり、それとなく昔の話題を振ってみたりはしているのだが、効果は芳しくない。
 状況を変える一手がそこらに転がっていたらいいのに。
 無責任な幸運を期待する浅はかな自分を嗤う。
 立て掛けた鏡に映る卑屈な笑みを見て、成果のない一日を予感した。



 ◇◆◇



 無難な青か、攻めぎみのピンクか。
 化粧は何度か経験するうちに自分なりのルールを見つけられたが、コーディネートにはいつも頭を悩ませられる。
 ひと月ほど前、包介くんが可愛いと褒めてくれたロリータドレスと、フリル多目のワンピースを見比べる。
 服の印象は重要だ。
 陰気な表情をしていてもパッと見は明るく見える。コンクリートの灰色が蔓延する現代風景の中で極彩色を身につければ、それだけで目を惹く存在になれる。
 もちろん、悪い意味で目立つ可能性はあるし、そもそもわたしは風景に溶け込むよう努力してきた人種だから、メリットはほとんどない。
 わたしが慣れない服装を選ぶのは、二度と包介くんに忘れられたくないという意思の表れだ。
 服を合わせた姿を鏡で確認して、結局は青のロリータドレスに落ち着いた。
 やっぱりピンクはハードルが高い。まあ、黒やグレーのパーカーばかりを着ていた頃よりは成長した、と思いたい。
 寝巻き代わりのTシャツをいそいそと脱ぐ。ムッとした熱気を感じたのは、寝汗をかきやすい体質のせいだろう。
 これから夏が近づくにつれ、暑さは更に増していく。今後は汗臭くならないよう一層の注意を払うことを決めながら洋服に袖を通していると、壁の向こうからトタトタと忙しない足音が聞こえてきた。

「やばい」

 包介くんの足音。
 この速さはもうじき家を出る音だ。
 でも、時刻はまだ七時半にもなっていない。包介くんの普段の登校時間は八時前後のはず。
 明らかに早い。何か異常事態が起きたのか。
 けど、今は考えを巡らせている場合じゃない。理由はともあれ、包介くんはもうすぐ登校しようとしているのだ。
 大急ぎで洋服に着替えて、玄関に向けて一直線に走る。
 身なりを再確認する余裕はない。パンプスを履きながら靴箱の上に置いた封筒を手に取り、口実のために用意した空き缶入りのゴミ袋を拾い上げる。
 玄関前に出かける準備を固めて置いたのは正解だった。ほとんどロスなく外廊下に飛び出す。

「あれっ」

 いない。
 灰色の雲が広がるばかりで、奥のエレベーター乗り場にも包介くんの姿はない。
 でも、諦めるには早い。
 視力の悪い目を凝らして、エレベーターの階数表示を睨む。
 ランプは動いていない。かかった時間を考えても、包介くんがまだ出掛けていない可能性は高い。
 荒くなった鼻息を抑えながら前髪を整えていると、秒と待たずして隣の玄関扉が開かれた。
 やっぱり。
 予想通りの展開に口元が緩む。次いで、ひょっこりと姿を現した彼の美貌にわたしは深く息を呑んだ。
 小ぶりだが筋の通った鼻。柔らかそうな桜色の唇。吸い付きたくなるほっぺた。
 所々赤の差す白い肌はシンプルな黒い学生服と絶妙なコントラストをなしており、包介くんの儚さを見事に演出している。
 もふもふした髪の毛は湿度のせいか、いつもより癖が強い。高価な羽毛にも勝る彼の髪に包まれたのなら、どれだけ幸せな時間を過ごせるだろうか。抱き枕にできれば一夜で十年は若返る。
 ああ、今日も可愛い。
 尊い横顔に見惚れていると、玄関扉が閉まるのに合わせて包介くんと目があった。
 深い黒。月明かりを映す夜の海のような神秘的な色。
 彼の瞳から放たれる視線はわたしの時を止めるには充分過ぎて、だからこそ初動が遅れてしまった。

「おわぁっ!!」

 包介くんが突然足元を崩し、後方に大きく仰け反る。
 咄嗟に体が前傾するが、しばし呼吸を忘れたためか動きに若干の違和がある。
 間に合わない。
 あのすべすべな手に傷でも残ってしまったら、まさしく全人類の損失である。
 訪れる悲劇から目を背けるように目蓋を閉じたが、予期していた衝突音も包介くんの悲鳴も聞こえてこない。
 恐る恐る確認すると、彼は傘を後方に突っ張ることで何とかバランスを取っていた。
 よかった。
 押し寄せる安堵感に暫し放心し、いつのまにか体勢を立て直した包介くんを見てやるべきことを思い出す。
 今日の分の写真を渡すのを忘れていた。
 封筒に皺がないか一瞥してから包介くんに手渡す。

「……これ」
「いつもすみません」
「……別に、平気だから」

 真っ白なハカギサイズの封筒。
 中に込めたのは、かつての風景を細部までこだわって再現した写真だ。
 平日の朝、出会うたびに手渡すという行為をここに越して二週間が過ぎた頃から続けているが、未だにわたしからの封筒だとは言い出せていない。
 事実を突きつけられることに怯えてしまい、誤って届けられていたと嘘を吐いてしまったのだ。それから訂正の機会を見極められず、進展もないのにずるずると続けてしまっている。
 包介くんにとっても、いい迷惑だろう。封筒を手にした彼の表情は渋い。

「……開けないの、それ」
「え? ああ、そうですね。でも多分、いつもと同じだと思いますよ」

 どこか投げやりに封筒を開いた包介くんが写真に目を通す。
 一昨日わたしが撮ってきた図書館の写真だ。
 まだギリギリのところで存続していたあの場所は相変わらずの無人ぶりだったが、却って都合が良かった。
 角度や光の加減など、人目を気にせずに微調整を繰り返した一枚は当時の光景にかなり近い。
 だが、包介くんの顔は依然として険しい。
 右のこめかみを叩く人差し指には苛立ちが表れている。普段は優しげな光を堪えた瞳には暗い陰が落ち、感情が見えない。

「あの、大丈夫?」
「……あっ、すみません」

 堪らず声をかけると包介くんはぱっと顔を上げた。
 申し訳なさそうに下がった眉を見て安堵する。こめかみを叩くのは集中した時の癖なのだろうか。
 珍しい一面を知れて嬉しい反面、あまり見たくはないと思う。やっぱり包介くんには、いつも笑顔でいてもらいたい。

「それじゃあ、僕はこれで。本当に、何度もすみません」
「えっ」

 まずい。包介くんが行ってしまう。
 朝の目的は写真を渡すだけではない。むしろ、ここからが本番なのだ。

「あっ、あのっ、わたしも一緒に行く……」

 言って、言い訳のために持ち出したゴミ袋を後ろ手で揺らす。
 小まめにゴミ出しするほど几帳面な性格ではないが、用もなく同行を申し出られる大胆さは持ち合わせていない。わたしなりの理由付けだった。
 了承してくれた包介くんが廊下奥のエレベーターに向かって歩き出す。
 小さな背中。
 でも、わたしの知っている背中より厚みは増している。
 同年代と比べると華奢だろうけど、たしかに感じる彼の成長に目頭が熱くなる。
 これが母性か。
 かつて包介くんが与えてくれた暖かさが、今度はわたしに宿っている。
 言葉で自覚した途端に抱き締めたい衝動に駆られて、理性にヒビが入る音が聞こえた。
 エレベーターを待つ無防備な背中にそっと近づく。
 腕を伸ばせば全身を収められる距離。
 筋骨の硬質さと女性的な流線美を兼ね備えた彼の体を包み込めたのなら、この世に蔓延るすべての不安が取り払われる気がする。
 わたしの爪先が包介くんの踵に触れそうな距離にまで近づいたところで軽快なベル音と共にエレベーターが到着した。
 我に返り、間違いを犯さずに済んだことにほっとする。ちょっぴり惜しい気がするのは気にしない方がいいかもしれない。
 包介くんはそそくさと乗り込むと、片手で扉を抑えてくれた。
 手慣れた動作には、人を選ばず心遣いを振りまいてきた彼の紳士性が見て取れる。

「あ、ありがとぅ……」

 お礼を述べながら包介くんの真後ろを陣取る。腕が触れ合いそうな横並びも捨てがたいが、真後ろなら思う存分彼を観察できる。
 まったく、エレベーターは最高だ。
 他人と閉ざされた空間を共有するなんて息は詰まるし緊張するしで一秒と留まりたくないが、包介くんが一緒なら何時間でも過ごせる。半日くらいなら閉じ込められてもいい。
 包介くんで満たされた空間に多幸感を覚えながら、彼の愛らしいつむじを眺める。
 毛量が多いので正確な形は判別できないが、毛の流れはわたしと同じ右回りだ。共通点を一つ見つけるたび、彼の心を知れたような気がして嬉しくなる。
 鼻で深呼吸して甘いシャンプーの香りを少しでも多く吸収しようと躍起になっていると、エレベーターがグンと遅くなる。次いで、無慈悲なベル音が一階の到着を知らせた。
 終わってしまった。
 幸せの時間はあっという間に過ぎてしまう。
 包介くんと会えるのはまた明日。わたしを現実に引き戻すエレベーターの扉が恨めしい。
 せめてもの慰めにと包介くんに半歩近づき、赤外線で伝わる体温を肌に感じていると、開き切った扉から見たくもない女の姿が目に入った。
 セーラー服を着た汚らしい赤茶頭。まな板のような胸をしたその女は太々しく腕を組み、舐め腐った佇まいをしている。
 赤錆あかさび
 下の名前は興味がないので知らない。ただ、この女が包介くんにどう接しているかはよく知っている。
 あの冬、包介くんと再会したあの日。
 この女さえいなければ、何もかもが上手くいっていたのに。
 陽気に当てられた頭は急速に冷やされ、苛立ちや怨みが混ざったドロドロした感情が沸々と湧いてきた。
 こちらを睨む生意気な目が本当に癪に触る。貧相な体しやがって。ぶちのめしてやろうか。
 赤錆がチンピラじみた喧しい足取りで自動ドアの前に立つ。
 それから、表面を拳で叩いた。
 脅しのつもりなのか。ガラスを認識できない低脳な猿にしか見えない。
 無言の睨み合いを続ける。
 だが、赤錆にオートロックの壁を越えることはできない。圧倒的なアドバンテージがわたしにはある。

「す、すみません。お先に失礼します」
「あっ」

 愉悦に浸っていると、包介くんが先にエレベーターを降りてしまった。駆け足で赤錆の元に向かい、絶対の門が開いてしまう。
 クソ。
 握りしめた拳の中で骨が軋む音がする。

「い゛だぁーーー!!」

 突如として響いた、耳をつんざく悲鳴。
 包介くんの股座から薄汚れたスニーカーの裏地が覗く。
 彼の大事なところが蹴り上げられている。

「ほ、包介くん! だ、大丈夫!?」

 あれはまずい。
 蹴り上げられた瞬間、包介くんの体が数センチ浮いたように見えた。
 それほどの衝撃を急所に叩き込まれ、無事に済むはずがない。大急ぎで駆け寄って覗き込んだ彼の顔は冷えた泥の色をしていて、深刻な痛みが手に取るように感じられた。
 救急車。
 ポケットの携帯に手が伸びるが、包介くんの微笑みに静止させられる。
 わたしには想像のつかない激痛に苛まれ、立つことすらままならない状態で、それでも心配させまいと浮かべた笑み。
 どうして包介くんはこんなにも優しいのだろう。
 自分が一番辛いのに、誰かのために身を削る。
 誰よりも温かい彼がこれほど酷い目に遭っていいのか。いいはずがない。
 包介くんは救われるべきだ。
 そのためにわたしは、この虫ケラを駆除しなければならない。
 滾る使命感と共に一歩踏み出して茶髪のクソガキを見下ろす。

「誰ですか」

 耳障りな鳴き声。
 先手を取ったつもりか。腹立たしい。こんな幼稚な声をした奴に負けるわけにはいかない。

「く、桑染メアリですけど」
「メアリ? ……ああ、外人ですか。日本では普通のことなんで気にしないでください」
「が、外国人じゃないし、普通じゃないことぐらい知ってる!」
「ふーん、そうなんですか。まあ、若者の常識なんで、おばさんが知らないのも無理ないですね」
「おっ、おばさんじゃない! まだ二十二だもん!」
「やっぱりおばさんじゃん」

 クソ、クソ、クソ。
 世間知らずのクソガキが。
 クソ生意気な口ききやがって。

「ハッ、もう終わり? 話になんないわ」

 小馬鹿にした流し目と、短く乾いた笑い。
 勝ち誇った態度を境に、最後の糸がプチンと切れた。

「……ちん」
「は?」
「おおおおちんちんは大切! 蹴ったりはダメ!!」

 包介くんのおちんちんを粗末に扱ったこと。それだけは絶対に許せない。
 わたしは性欲を律することを心掛けている。もしも手を出せば関係に修復の効かない亀裂が入るからだ。
 しかし、わたしも人間である以上、包介くんの裸体に思いを馳せたことはある。
 きめ細かな白い肌はすべすべした最高の触り心地で、乳首は淡いピンク色。少女のようでいて意外に骨張っている体つき。
 そして、彼の男の子を最も強く主張する神秘のシンボル。
 それこそがおちんちん。
 この世に唯一つのそれを穢され辱められた事実に、わたしは激怒したのだ。
 腹の底から叫んだ充実感で鼻から熱い息を吐き出される。
 わたしの勝利である。やはり、包介くんのおちんちんは貴い。
 言葉に出すだけで、赤錆のような醜い心を持った化け物をも浄化してしまう。
 おちんちん、と言葉に出すだけで。
 思考が現実に追いつき、ようやく惨状を理解する。
 わたしは何を言っているんだ。
 卑猥な言葉を力の限り叫び、それを名誉と錯覚していた。
 誰がどう見てもいかれた女である。
 時間が止まる。
 赤錆も阿呆面で固まっている。
 動くものは小刻みに震える包介くんの腰だけだ。

「ご、ごごごごめんなさいっ!」

 わたしは脇目も振らずに逃げ出した。



 ◆◇◆

 

 夕刻にもなれば流石に頭も冷える。
 そうだったらよかったのに、必死に仕事に打ち込んでみても凍りついた空気感は薄れることなく、脳に色濃く映し出されている。
 思い出してもらうことが目的なのに、新たにとんでもない印象を与えてしまった。
 学生の頃とは違う、できる大人のイメージをコツコツと積み上げていくはずが大失敗だ。
 朝っぱらから男性器の俗称を全力で叫ぶなんて、淫らにもほどがある。
 もう最悪。しにたい。
 湧き上がる羞恥を堪え切れず体をベッドに投げ出す。
 今日だけでもう四度は顔を押し付けた枕は抱き締めすぎてクタクタになってしまったが、構わずに感情をぶつける。
 足をバタつかせ、ゴロゴロと転がって、思う存分埃を撒き散らしたところでふと我に返った。

「今日、どうしよう」

 もうすぐ包介くんが帰ってくる。
 普段なら外廊下で出迎えてみたり、エレベーターで待ち伏せてみたりするのだが、あんなことがあった手前、顔を合わせづらい。
 包介くんは何事もなかったように振る舞ってくれるだろうが、わたしがどんな顔をしたらいいか分からない。
 今日は自粛すべきか。
 いや、でも、日を置いても気まずさは解決しないし、それならばいっそ早くに清算した方が楽かもしれない。
 いやいや、やっぱり、今日は避けた方が。
 そうは言っても、けど、でも。
 しばらく不毛な自問を繰り返したが、答えは出なかった。
 取り敢えず、一度包介くんを見てから決めるという逃げの結論に落ち着いて、屈んだ姿勢で玄関扉に躙り寄る。
 隙間だけ開けて、外廊下に誰もいないことを確認する。
 音を立てないように扉を押し開き、這うようにして近づいた塀から頭半分覗かせると、ノタノタと歩くピンク色した傘が目に入った。
 間違いない。赤錆の傘だ。
 包介くんの姿は見えないが、恐らくあの傘の下にいるだろう。
 相合傘だなんて、まったくいやらしい。ガキが色気付くな。
 心の中で呪詛を唱えていると傘の下から黒色の学ランが飛び出した。
 上からでは顔は見えないが、あの愛らしい頭頂部は包介くんに違いない。小走りでエントランスに向かう様子は赤錆から逃げているようにも見える。ざまあみろ。
 だが、今はそんなことを喜んでいる場合ではない。注目すべき点は別にある。
 包介くんの右手に左手に提げられていた袋。
 あれは、コンビニのビニール袋だ。
 おかしい。
 包介くんのお母さんは色々と気を使う人で、食生活に関しても徹底している。買い食いに関しても厳しく管理している彼女が、安易にインスタントを許可するとは思えない。
 ということは、今晩、お義母さんは何らかの事情で夕食を用意できなかったのではないか。
 必然、帰りも遅いはずで、では、包介くんはどうなるのか。
 孤食。
 不健康な蛍光灯の白色に照らされて、黙々とコンビニ飯を食べる彼の姿がありありと想像できた。
 あれほど虚しい時間はない。物を噛むうちに自分が何をしているのか、何のために顎を動かしているのか分からなくなってくる。
 そうして食べることが億劫になり、料理を作る気すら失せ、次第に味覚は死んでいく。
 現にわたしはそうなった。
 この年になると、バカ舌の治療は絶望的だ。作業と化した食事という行為からは何の魅力も見出せない。ただ面倒で無駄な時間としか感じられなくなってしまった。
 わたしは、包介くんに同じ道を歩んで欲しくはない。
 保護者でも恋人でもない、忘れられた友人が慮ることではないと思う。一度拒絶されたのなら尚更だ。
 それでも、やらなければならないと思った。
 思い付きで動いた挙句、何度も酷い目を見たというのに、わたしはまるで懲りていなかった。
 多分、性分なのだろう。
 勉強はそれなりにできるが、こればかりは学ばない。迫り上がる熱情を堪えることができない。
 わたしは包介くんが好きだ。
 好きだから、我慢できない。お節介でも止まらない。
 子供じみた言い訳だし、子供にしか許されない言い分だけど、我慢できる好きは好きじゃない。
 好きだから、してあげたい。
 それが自然だ。わたしに唯一備わった、人として当たり前の感情だ。
 エレベーターの昇る音を聞いて、急いで自室に戻る。
 重い玄関扉が閉め切られた時には、今朝の羞恥は消えていて、代わりに緩くて大きな心臓の音が胸の中で響いていた。



 ◇◆◇ 



 隣の玄関扉が閉まってから十数分。
 壁に耳をあてじっと待ったが、話し声は聞こえてこない。
 おそらく、わたしの読みは当たっている。
 時刻は黒橡さんの普段の帰宅時間にも届いていないが、そういうことにしておかないといつまでも決心がつかない。
 代わり映えしない状況に舞い込んだ絶好のチャンス。今やらなくていつやるんだ。
 スマートフォンの連絡帳から包介くんの名前を選ぶ。
 ゴミ袋から細切れの連絡網を回収しておいてよかった。直接家を訪ねるより電話の方が気は楽だ。
 緑色の発信ボタンを押そうとして、指先が震えていることに気づく。
 ここまできて怖じ気付いたのか。情けなさに自嘲が漏れる。
 だが、引くつもりは毛頭ない。
 数度、大袈裟な深呼吸を繰り返して心を落ち着ける。動悸はまるで治らないが、落ち着いたことにする。

「えいっ」

 ようやく発信ボタンを押せた。
 コール音が鳴り始め、呼吸は潜めるように細く、鼓動だけが大きくなっていく。

 一回、二回、三回。

 コールは続くが包介くんは出ない。
 もしかしておトイレ中だろうか。しかし、壁の向こうから水を流す音は聞こえず、ならば、このまま待ち続けた方がいいかもしれない。

 四回、五回、六回。

 包介くんは出ない。家には間違いなくいるはずなのにどうしてだろう。

 七回、八回、九回。

 そこまでコールが続いたところで、とうとう留守番電話サービスに切り替わってしまった。案内音声がお決まりの説明を単調に読み上げていく。
 どうして出てくれないのだろう。そこまで考えてハッとする。
 わたしは当然包介くんの電話番号を知っているが、彼からすれば見知らぬ相手から唐突に電話がかかってきた状況だ。
 わたしなら必ず居留守を使うし、防犯意識の高いお義母さんなら相手が確認できるまでは電話を取らないように教えているだろう。
 考えが足りなかった。力が抜けてスマートフォンが落ちかけるが、はたと思い直す。
 この状況は逆に利用できるのではないか。
 これまで、わたしが包介くんとどういう関係でどれだけ彼に救われたかを伝えられる場面は何度もあった。
 しかし、いざ対面すると愛念が前に出すぎて興奮しているうちに機会を逃してしまい、次こそはと心に決めてはいるものの何一つ進展していないのが現状だ。
 だが、どうだろう。
 留守番電話という一方向からのコミュニケーションであれば、意思をきちんと伝えられるのではないか。
 会話には流れがある。
 空気などという目に見えないものを読み取る技術を要求されるが、伝言ならその心配はない。
 それに、メールや手紙と違ってはっきりと感情をのせられる。
 わたしがどう感じて、何を伝えたいか。ありのままの想いを正確に告げられる。
 そうだ。きっと今この瞬間が、勇気を振り絞って前に進む時なんだ。
 わたしはもう充分逃げた。
 諦めきれずに包介くんを求めたくせに、彼の暖かさを感じるだけで満足していた。
 その程度の気持ちで彼の側にいられるはずがない。
 今朝の赤錆の優越に浸った薄ら笑いが過ぎる。自分が一番包介くんに近い女だと本気で思ってる顔だった。
 でも、わたしだって包介くんへの想いの深さで誰かに負けるつもりはない。
 だからわたしはここに来たんじゃないのか。包介くんの隣にいるために生きているんじゃないのか。
 だったら、準備がどうとか、時間がどうとか言っている場合じゃない。
 今を変えるチャンスは行動を重ねた末の偶然でしかない。
 その一つ一つがかけがえのないもので、次は存在しない。
 今しかない。今じゃなきゃダメなんだ。
 心を決めると同時に長いハウラ音が鳴り終わる。
 台本はない。
 ぶっつけ本番、やるしかない。

「あっ、あのっ、と、突然ごめんなさ、い」

 声を整える時間はなく、想像よりもずっと掠れた声が出た。乾いてブツ切りの、受話器が拾えるかも怪しい震え具合だ。
 くだらない。引き際はとうに過ぎた。
 体面を気にする余裕があるなら言葉を紡げ。

「おっ、おっ、お電話は、は、初めてだよね。わ、わたしのこと、おっ、覚えてるかなぁ……あっ、いやっ、嫌味とかそんなつもりはないんだけど……えへっ」

 取り繕いの愛想笑い。
 自覚するするほどに肥大した緊張を頭の隅にある冷えた部分で認める。惨めな自分を嗤いたい。
 それでも止めない。
 思いつくままに口を走らせる。

「あ、そっ、それでね、さっき上から、コンビニの袋を提げてるのが見えたから、えっと、今日はご飯、一人なのかなって思って」

 ここからだ。
 ここから、今のわたしが包介くんにとってどれほどの存在かはっきりする。
 嫌われていれば返答はないだろう。
 だけどもし、欠片でも好意があるのなら。
 胸いっぱいに空気を取り込んだ後、たっぷり時間をかけて吐き出す。
 恐れか勇みか、スマートフォンを握る手の筋肉が痙攣するがどうでもいい。頭と口が動くなら、想いを告げない理由にはならない。

「……だから、ね。ほ、包介くんさえ良ければなんだけど、そ、そそそそのっ、今から、そっちに行ってもいいですか。……あっ、最初にお名前言うの忘れてた。え、えへへ。わっ、わたし、メアリです。あっ、そ、それでね、わたし、今家にいるの。だから、えーっと、包介くんの家か、わ、わたしの家か、どっちがいいかなぁ、なんて」

 言えた。言ってしまった。
 一念発起の末に訪れたのは後悔だった。
 目的を達したからか、熱で浮かされていた頭が冷静さを取り戻す。
 自身を客観視できるだけの平静は包介くんとの現状の関係を強く思い起こさせ、突飛な提案を持ちかけた事実を自覚せざるを得なかった。

「……急に、気持ち悪いよね。包介くんはわたしのこと覚えてなくて、それなら多分、あんまり知らない人がご飯に誘ってくるんだもん。へ、変、だよね」

 言い訳ばかりが口を衝く。
 やらない後悔よりもやって後悔、なんて嘘っぱちだ。取り返しがつかない分、始末に負えない。
 また、失ってしまう。
 自分本位はやめようと誓ったはずなのに。
 同じ過ちは絶対にしないように、慎重に少しずつあの暖かな関係に近づいていくはずだったのに。
 またしても、一時の感情で不意にした。
 熱量にかまけて想いを正当化し、我慢の苦しみから逃げ出した。
 成長してない。
 いや、成長なんて次元ではない。理性とか辛抱とか、人として当たり前の抑制力が欠落している。
 こんなわたしが包介くんに相応しいはずがない。
 学歴や経済力で埋まるような差ではない。
 本質の位が違う。近づくだけで迷惑になる。害でしかない。今すぐ目の前から消えることが一番の恩返しだ。
 そんなこと分かってる。
 分かってるけど。

「……だけど、だけどね、分かって欲しいの。わたしは包介くんにすっごく感謝してるし、包介くんがいるからわたしはここにいる。今のわたしがある。わたしを作ってくれたのは包介くんなんだ」

 どうしても彼を諦められない。
 胸いっぱいの愛情が、伝えたい熱情が止めどなく溢れてくる。
 スマートフォンを耳に当てたまま自室に向かい、ベッドに腰を下ろす。
 壁に背を付けると、硬い鉄筋コンクリートの奥に確かな人肌を感じる。
 包介くんがそこにいると確信する。

「ねぇ、包介くん。わたし、わたしね」

 あなたが好き。

「わたし、今、包介くんの後ろにいるの」
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