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68. 迷子

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「…時間は、大丈夫だな」
 ふとスマホの電源を入れて時間を確認する。日没までには十分と言っていいほど時間がある。推定あと1時間くらいだろうか、だけど少しだけ日が傾いてきたな、と。俺はスマホをポケットにしまいながらそんなことを考える。
 隣には顔を俯かせ、笑顔のない雫の姿がある。スマホを触っているわけでもなく、ただただ膝の一点をずっと眺めているかのように、静止している。窓から流れて見える景色にも、目をくれずに。
 そう、俺たちは今電車に乗っている。いつもなら混んでいる車内も、今日は珍しく人が少ないように感じる。向かいの窓から見える景色をぼーっと眺めていると、まるで久しぶりに息をしたかのように感じる雫から声がかかった。
「…ねぇ佑。どこに行くつもりなのよ。わざわざ電車なんかに乗って、こっち側に何かあるわけ?」
 姿勢正しいその体制のまま、雫は俺に尋ねてくる。姿勢は綺麗だが、言葉の中にどこか不満混じりな彼女の気持ちも重なってあるように思った。
「……まぁ、着いてからのお楽しみだよ」
「…そう」
 雫は、深くは言及してこなかった。いや、言及するほどの余裕もないと言った方が正しいだろうか。彼女の脳内は今、先輩に対しての申し訳なさ、後ろめたさといった類のものが無限に湧いて出ているに違いない。故に、今はもう心がいっぱいいっぱいなんだと思う。
 そう考えたら、俺についてきてくれただけでもありがたいと考えるべきだよな。膝についた拳を軽く握りながら、俺はそんなことを思った。
 俺たちを乗せる人の少ない電車は、定期的に揺れながら線路の上を走ってゆく。正直、確証はない。今から行くところによって、雫が元気になるかどうかなんて。でも、元気になる確率を少しでもあげるために、俺は場所を選んだ。あの日見た、あの場所を。
 俺は本当のところ、あの教室でカタをつけるつもりだった。その場に沸いてくる言葉で、雫を説得できると考えていた。だけど、現実は甘くなかった。最後に湧いて出た、蜘蛛の糸を頼りにする他なかった。
 俺は、心の中で密かに祈る。どうかうまくいってくれって。"戻って"くれ、雫って。
 今回は、俺とそんな彼女の2人だけ。周りには誰もいない。だからこそ、俺が彼女を救わなくちゃいけない。彼女に対する、恩返しも込めて──。



「おい、おい、雫?」
「……ふぇ?」
 頭の上から聞き慣れた声が聞こえる。いつのまにか閉じてしまっていた瞼をゆっくりと開く。窓から差し込む光を、やや眩しく思いながら、思わず開けたばかりの目を猫のように細めてしまう。
「…お、起きたか?次の駅で降りるから、降りる準備しておけよー」
「…うん」
 右に傾いた首を起こして私は佑に返事する。いたた、ちょっと寝違えちゃったかな…?と、そう思いながら、向かいの窓をよく見てみると、何かに反射して、自分の体に太陽の光が当たっていることに気がついた。もしかして、私たちが来た場所って…。
『えーご乗車ありがとうございます。次は──』
 車掌さんのアナウンスが電車内に響く。そういえば長山町って、割と都会な割にこういう電車とかは妙に田舎チックというか…。なんか年季が入ってる感があるのよね。まあ、そういう雰囲気は嫌いじゃないけど。
 心の中でそう呟いていると、隣に座っていた佑は軽く微笑して、
「…よし、じゃあ降りるぞ、雫」
「…うん」
 佑が立ち上がったのを見て、私も席を立つ。窓からは、相変わらず光が差し込んでいるけど、その光のせいで、前の景色がうまく視認できない。自分の目に当たる光をやや鬱陶しく感じながら、私は佑と共に乗っていた電車を降りる。
「うわっ!?」
 刹那、この場所に来た私たちを歓迎するかのような突風が、私たちを襲った。私は思わず、顔を腕で隠して、身構えてしまう。数歩先にいる佑も、やや前屈みになり、この突風を凌ごうとしていた。
「……ふぅ、びっくりした。もう大丈夫そうか、よし、行くぞ雫」
「…うん」
 ここは都会と呼ばれるところのはずなのに、この駅で降りた人は私たちだけだった。さっきの反射した光のせいで、目の前がまだチカチカしている。ここはどこなんだろう。でも、さっきの突風が吹いた瞬間、妙に潮っ気のある香りがした気がした。ということは、ここは──、
「……おっ。思ったよりもすぐだったな」
 駅のホームを降りた佑が出口で仁王立ちしている。どこか満足げな表情に見えるけど、なんで…?
「…待ってよ、佑」
「ごめんごめん、早く行きすぎたな。でも、早く見た方がいいぞ、ここからでも景色いいからなー!」
 佑はここからでも分かる笑顔を浮かべながら、私に手招きをしている。改札を潜り、佑に向かう足をやや早めながら、私は彼の元へ向かう。
 自分の近くに来た私を佑は見るや否や、佑は指を太陽の方向に向けて、言った。
「…ほら、見てみろよ!」
「……あっ」
 目のチカチカが収まったその瞬間。私の目の前には、あたり一面に広がる、広大な海があった。そっか。さっき、やけに眩しく感じたのは。この、海に光が反射してたからなんだ──。
「……すごい」
 私は思わず、そんな言葉を溢した。目の前の広大な海は、心地よい音と共に砂浜を飲み込もうとしている。それはまるで一つの作品を見ているように感じられ、私はその迫力に、胸の鼓動が不意に高まっていく。
 でも、なんでだろう。初めて来たように感じられるこの場所に、私は不思議と既視感があった。
 すると、そんな私の様子に、
「…雫も、この場所は知らなかったのか?」
「…う、うん。なんというか、凄いね…」
「そうだろー?…って言いたいところだけど」
 一度佑は、ハハっと小さく笑って、
「俺もこの町に引っ越してきたのは大体半年前くらいだし、この場所もある特集を見て知っただけだからさ。あまり大きく言えないんだよなー」
「そ、そうなの?」
「…うん。まあ、とりあえず浜辺に行こうぜ!ここからでも十分に感じるだろうけど、海の近くに行けばもっと感じるものは違うだろうしさ!」
 すると佑は、光の反射する方へと私を先導していく。私は、彼の後をゆっくりとついていくことにした。
 陽はやや傾いている様子で、日没まで後1時間ほどと言ったところだろうか。そんな陽は海だけでなく、浜辺にも反射しているように見受けられた。
 佑はなんで私をここに連れて来たんだろう。でも、ただただ単純にここに来たかったからという理由ではない気がする。いつの間にか、私の中にあった"早く家に帰りたい"、"1人で今は過ごしたい"という気持ちは、今吹く小さな潮風に流れるようにどこかに飛んでいってしまっていた。彼はこちらを振り向くことなく、歩き続ける。
 気がつくと、地面の感触が変わっていた。柔らかいものを踏んでいる感覚。ふと足元を見ると、陽に反射して黄金色に輝く浜辺に、足を踏み入れたことが分かった。
「…よし」
 刹那、佑はそう小さく呟くと、こちらをくるりと振り返り、
「とりあえず、座れよ。雫」
 と、先に砂浜に腰を下ろした佑が、自分の横のスペースをトントンと叩きながら座るのを促してきて──。



 この砂浜に座って雫に話を、色々と説得をしようと思ったのだが、振り向いた俺の目線の先には、まるで一番最初に喋った時のような表情をした雫がいた。
 彼女は少し不満そうに言う。
「……え?砂浜の上に腰を下ろせって言うの?」
「…え?ああ」
「…あのね。アンタ女子ってものを分かって無さすぎよ?普通嫌でしょ、砂の上に座るのって。なんでアンタは普通に座れるのよ」
 ムスッと頬を膨らませて、ややご立腹の様子の雫。確かに、彼女を説得しよう、説得しようとそればかり考えていたせいか、こういうことは全然考えてなかった…。
「……ごめん」
 とても彼女の顔を見れないと感じた俺は、ふと水平線に広がる、暮れかかったオレンジ色の空を眺める。……何をやってるんだ俺は。雫を説得するはずが、彼女の気分を損ねてしまっている。こうなってしまっては本末転倒じゃないか。そもそもとしての問題じゃないか…。
 とりあえず、ここが嫌だというのなら、どこか他の場所を探そう。こんな気持ちでいる時に、目の前の海と相対する場合ではない。
 そう考えた俺は、片手を付き、立ちあがろうと──
「…ほんと、信じられない。──はぁっ」
 瞬間、大きなため息と共に雫は俺の横に来て、スカートの裾を膝に寄せる。そして、ゆっくりと腰を下ろした。
「…え?」
「……何鳩が豆鉄砲食らったかのような顔してるの?」
「…だってさっき。さっきここに座るの嫌だって」
「…別に、嫌って言っただけで、座らないとは言ってないわよ……。それに、もし私のことを気遣ってここに連れてきてくれているのなら、私がわがまま言ってる場合じゃ無いでしょ」
「……………」
「な、何よ!じっと見ないで気持ち悪いっ!」
「…痛っ!いや殴るなよ!そんでまた肩かよ!」
 そういえばいつか、雫に殴られたところも肩だったなって。殴られるのは痛いはずなのに、何故か今回は特別痛いと感じなかった。
 ふと、さっきまで胸の中にあった、喉に詰まった魚の骨のような気持ち悪さは、もうそこから消え去り、心が軽くなったように感じた。潮風が気持ちよく身体をそよぐ。
「……んで、大丈夫か?やっぱり砂浜が嫌なら向こうに移動するか?」
「いいわよ。もう座っちゃったし、今更立つのもめんどくさく感じるし…」
「…そうか」
「…うんっ」
 砂浜に座ることを許してくれた様子の雫は、小さく頷いた。直後、俺たちの間に沈黙が生まれる。俺も雫もきっと今笑顔はなく、お互いがお互いの次の言葉を待っている。無意識に視線は視界の限りに広がる、海へと向いていた。
 目の前の浜辺を海から生まれた小さな波が行き来する。そして、遅れて音が聞こえてくる。耳に入ってくるのはこの音だけ。周りも、不思議と静かだ。俺たち以外にもここに誰かいるはずなのに、まるでそこだけ切り取って額縁に入れたかのような窮屈さをも感じてしまう。俺は、この沈黙をどこか気まずく思った。
 何か、話さないと。そうだ、ここには俺が彼女を連れてきたんだ。だから、話を。説得を。誰にも、頼ることなく──。
「…あのさ、しず──」

「うわあああああんっ!……ママ、ママっ。どこっ?ママーーーーっ!!」

「「…えっ?」」
 刹那、泣き叫ぶ少女のような声が聞こえた。その声に、俺と雫は一度顔を見合わせて、その声のする方へと身体を向ける。
 そこには、小柄という言葉にピッタリと合うかのような5歳児くらいの身体の小さな少女が、目元を手で覆いながら、よろよろと歩いている姿があった。目からは涙が、とめどなく溢れている。言葉からするに、親と逸れてしまったのだろうか。
「どうする、助けに行くか?雫──」
 俺たちは俺たちで、真剣な話をしようとしていた。だから、彼女と相談しようとしたけど。
 目線を横に戻した俺の視界に、雫はいなかった。慌てて先ほどの少女の方へと視線を戻すと、そこにはすでにその少女に駆け寄る雫の姿があった。
 そこで俺は何故だろうか。ふと、笑顔が溢れた。本当に理由は分からない。だけど、彼女のその行動をこの目で視認してから、表情が緩んだように感じた。
 雫だけ行動して、黙って見ている気はしなかった俺は、立ち上がって雫とその少女の元へと駆けて行き、色々と話せる限り事を尋ねた。
 少女の自分の名前を“るい“と小さな声で言い、目元を両手で押さえながら、買い物中の母と逸れたと言った。確かに、ここは駅からはすぐ海だけど、その少しだけ奥にスーパーがある。そして、母と逸れたるいちゃんは母を探そうとしてここまで来てしまったのだろう。
「……大丈夫だよ!俺たちも探すの手伝うから!」
 膝に手をついて、俺はそう言葉をかけた。
 迷子の子供にかけてあげる言葉にしてはあまりにも不安を募るような言葉だけど、俺が言えるものとしてはこれが限界だった。でも、隣にいる俺と同い年のはずの彼女は、俺とは全くと言っていいほど違った事をしたんだ。
 雫は、どこからかハンカチを取り出すと、ゆっくりと屈んで、少女と同じ目線になってから、
「……ほら、涙を拭いて?るいちゃんは強い子なんだから、泣いちゃダメよ?」
「……えっ?…るい、つよいこ?」
「うん!……ほらっ、涙止まったじゃない!それがあなたが強い何よりの証拠よ!」
 太陽にも負けない、いつか見たような笑顔をその少女に浮かべながら雫はそう言う。
「つよい?…るい、つよい?…お、おねちゃんよりも?」
「当たり前じゃない!私だったらずっとずーっと、泣いてると思うわ。でも、もう泣いてないるいちゃんはとっても強い子だよ!ほら、ママ探しに行こっ?」
「うん!るい、ママさがしに行く!おねちゃも、いっしょにきて!」
「ふふっ。分かった!」
「るい、おねちゃんとて、つなぎたい!」
「うん?じゃあ繋ごっか!はいっ」
 少女は雫の差し出した手を小さな手で頑張って握りながら、この砂浜を後にしようとする。すると、その少女がこちらにくるっと振り返って、
「おにちゃも!て、つなぐ!」
「え、俺も!?」
 急にそんな事を言い出したので、びっくりした俺はふと雫の方を見る。雫は、微笑しながら俺の方を見て、口を開く。
『つ、な、い、で、あ、げ、て』
 きっと、少女に聞かれないように口パクで俺にそう伝えたかったんだろう。理解した俺は、彼女の言葉に思わず苦笑しながら、ゆっくりと少女の手を握った。彼女の言葉には、声こそなかったが、この海辺にそよぐ潮風のような優しさが詰まっているように感じた。
 少女の手は少し力を加えれば、それだけで折れてしまいそうなほど小さな手で、だからこそ俺はその手を包み込むように、優しく触れるように、握り直す。
「るい、おねちゃとおにちゃといっしょにママさがしにいく!」
 5分前の、目から止まることを知らない涙を流していた少女の姿はどこにもなく、手を繋ぐ俺たちの間にいたのは、先ほど雫が見せたような笑顔を浮かべた少女の姿だった。
 手を繋いでいる少女は雫のことが気に入ったのか、彼女の方を向いて話していることが多かった。何か話題をふられるたびに、雫は顔に笑顔を浮かべる。今、彼女の心の中には先輩のことも少なからず必ずあるとは思うのだが、こんな笑顔を見てしまうと、そのようなものはもう気にしていないのかな、とも感じてしまう。
 身長の関係で、真ん中でバンザイをしている体制で俺たちと手を繋いでいる少女は何を思ったのか、急にこんなことを言い出した。
「おねちゃんたち、るいのママパパにそっくり!」
「「えっ?」」
「ママパパとるいもいっしょにでかけるときこうやっててつないででかけるの!」
「…そうなのね」
 一瞬、目線を上げた俺と雫の目が合う。後ろから陽で照らさせる彼女の表情に、俺は思わず顔を逸らしてしまう。なんで今、そんな表情ができるんだ。
 雫も俺と感じることが同じだったのか、向こうをプイッと向いて、しばらくそのまま歩いていた。まあこうなった原因は完全にこの少女の言葉からなのだが、まだ純粋な子供なんだろうし、しょうがない部分もあるよな…。
 間でニコニコ笑顔を浮かべる少女、るいちゃんと、両隣で妙な空気が流れた俺と雫。まあ、俺たちの空気は置いておいて、とりあえずこの少女に笑顔が戻ってよかった。泣いていた子と本当に同一人物なのかと疑うほどには、少女の顔には笑顔が貼られている。
 そんな少女の表情を見ていた俺と雫は、再び偶然目が合うと、直後、同時に吹き出してしまった。なぜだろう。分からないけど、なんだかおかしくて、でも。なんだか嬉しくて。
 俺と雫と、迷子のるいちゃんは、少女が親と逸れたというスーパーへと歩を進めるのだった。ふと振り返ると、太陽が水平線に潜りはじめようとしている──。
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