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幕間 常駐医・磯部薫の回想録
89 不動祐一郎と篠原茉莉①
しおりを挟む茉莉ちゃん、篠原茉莉との出会いは、なんとホテルロイヤルのエレベーターの中。そう、私が祐一郎に最後のキスを仕掛けているまさにその真っ最中、地下駐車場からエレベーターに乗り込んできたのだ。
人が乗り込んできた気配に、祐一郎は私を引きはがしにかかったけれど、そうは問屋が卸さない。
人前で、こんなディープキスを繰り広げているなんて、正気の沙汰ではないと私自身も思う。でも、このキスだけは、思う存分させてほしかった。
最初で、最後のキスだから。
エレベーターが最上階に着くと、真っ赤な顔でうつむいていた女の子は、速足でエレベーターを飛び出していった。
なんだか、純情そうな子だったから、変なものを見せつけてしまって申し訳なかったな。ごめんね。いつもは、こんな恥ずかしいことしてないのよ。
心の中で詫びて、電話で予約しておいた席に行くと、隣の席でさっきの女の子が修羅場を演じている場面に遭遇してしまった。
彼女の前には黒縁メガネのサラリーマン風の優男と、お嬢様風のロングヘアの女が敵意むき出しで座っていた。
誰が見ても、修羅場だ。
案の定、男は付きあっている女性が妊娠したから、婚約を白紙に戻したいと言い出した。
我知らず、ため息が漏れた。
何も、こんな人目があるところで、自分が妊娠させた女を同席させて別れ話をしなくてもいいだろうに。
あの男は、女の子が絶対断れない状況を作っている。人目があれば、裏切ったことを大声で責めることも泣きわめくこともできない。男の言い分を大人しく聞き入れるしかないだろう。
卑怯な小心者め。
私だったら、二人目がけてコップの水をぶちまけてやるのに。女の子はたった一人で、ただ静かにこの修羅場を耐えていた。
ねえ、あなた。こんな最低野郎と結婚しないですんでよかったのよ。
結局、女の子は大声を上げることもなく、速足でその場を逃げるように去って行った。その後ろ姿のあまりの頼りなさに、このホテルの常駐医としての使命感がメラメラと燃え上がった。
「祐一郎、ぼーっとしてないで、彼女の後追うわよ」
隣の席の二人に聞こえないよう祐一郎に顔を近づけて耳元に囁きを落とすと、彼は虚を突かれたように目を見開いた。
「……え?」
「大事なお客様を、あんな状態でほっとけないでしょ!」
祐一郎を伴って女の子の後を追えば、彼女はエレベーターには乗らずに同じ階にあるトイレに駆け込んだ。
万が一の時には呼ぶからと、祐一郎にはトイレの入り口で待機してもらい、彼女が入ったであろう個室の前に立った。中からは、嗚咽と、涙を拭っているのだろう、カラカラとトイレットペーパーを引き出す音が、聞こえてくる。
私は、すぐに声をかけずに少し待つことにした。
泣けるのなら、泣いてしまった方がいい。涙を流すことで、心にかかった大きなストレスが軽減されると言われている。無理にガマンするよりも、思いっきり泣いてしまった方が立ち直りが早いのだ。
十五分待って、私はドアをノックした。
女の子は、すぐに慌てたように「すみません」と言ってトイレから出てきた。その目は、泣きはらしたように真っ赤に充血しているのに、顔色は真っ青だ。これはもしかしたら、貧血を起こしているのかも。
「あなた、大丈夫?」
「え……? あ、はい。大丈夫です。占領しちゃってすみません……。どうぞ」
そう言って一歩足を踏み出した途端、彼女の体は斜め前にふらりと倒れていく。
「ちょっ、ちょっとあなた!?」
両腕でがっしり小柄な彼女の体を抱えて、外で待機している祐一郎を大声で呼べば、彼は慌てた様子でトイレの中に駆け込んできた。
「たぶん貧血だと思うけど、医務室に運んでくれる?」
「分かった」
頷くと、祐一郎は軽々と女の子を抱き上げた。
まるでシンデレラを抱きあげる王子様のように――。
その時、私にはある予感があった。
おそらく、この二人は出会うべくして出会った。たぶん、この出会いは必然だと。
そして、その予感は、時を待たずに現実のものとなっていく。
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