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第1章 人生最悪の一日の終わりに、おいしいマフィンを
10 裏切りの婚約者③
しおりを挟む「っ……」
喉の奥から込み上げる嗚咽が、狭いトイレの個室に響く。
泣くまいと思うのに。涙は止めどなく溢れ出して、上気した頬の熱を奪いながら、膝の上でギュっと握りしめた手の甲にポタポタとしたたり落ちた。
『初めまして、高崎です。篠原社長に、こんな可愛らしいお嬢さんがいたんですね』
父の会社に届け物をしに行ったとき、偶然出会った担当だと言う銀行マンは、そう言って優しそうな笑みを浮かべた。
『君のお父さんは、凄い人だね。尊敬に値する人物だよ』
父を真剣に褒めてくれるのが、嬉しかった。
『今度、食事でもしませんか?』
初めてデートに誘われた日は、天にも昇る気持ちだった。
『結婚を前提に付き合ってくれませんか?』
どんどん近くなる距離に、いつか結ばれる日が来るのを信じて疑わなかった。
初めての、恋。
実ると信じていた、恋。
それがこんなふうに、あっけなく終わりを告げるんなんて……。
『ウケケケ。最初から不釣り合いだったんだよ~。会社も倒産♪ 大学も中退♪ 婚約者にはポイっと捨てられて♪ 可愛そうな茉莉りん~♪』
手のひらサイズの黒悪魔茉莉が、黒いコウモリの羽をはばたかせて愉快そうに、私の周りで踊っている。いつもなら、すかさず飛び出してくる白天使茉莉は出てこない。出てこられない。
力の限り声を上げて泣いたなら、この胸の痛みは少しは和らぐのだろうか?
ああ、涙って際限ない。
涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった顔を、備え付けのトイレットペーパーで拭い、『ちーん!』と鼻をかんでは、便器に落とし込む。
カラカラカラ。チーン!
カラカラカラ。チーン!
永遠に続きそうな、その無限ループを破ったのは、ドアのノック音だった。
コンコン、コンコン。コンコン、コンコン。
忙しなく連打される、ドアのノック音に、ハッと動きを止める。
――あ、いけない。
いったい、どのくらいトイレに、こもっていたんだろう?
「……すぐれます。ごめんなはい!」
我に返った私は、鼻をかんだ大量のトイレットペーパーを水で流して、慌ててトイレのドアを開けた。
ドアの前に立っていたのは、黒いワンピース姿のとても綺麗な、見知らぬ女性だった。緩やかなウェーブの掛かった色素の薄い髪が、フワフワと揺れる。白い耳朶に光るのは、紅いピアス。
――あれ? この人。
脳裏を過ぎる既視感に、一瞬、私は動きが止まる。
「あなた、大丈夫?」
「え……?」
心配そうな眼差しで顔を覗き込まれて、思わずどぎまぎしてしまう。長時間トイレにこもって唸っていたから、具合が悪いのかと心配してくれたんだろうか?
「あ、はい。大丈夫です。占領しちゃってすみません……。どうぞ」
ペコリと頭を下げて、彼女の脇をすり抜けて行こうとしたその時。すうぅっと、首筋の辺りから血が引いた。クラりと視界が揺れ、世界が突然闇に包まれる。
――あ、やばっ……。
貧血だ、これ。
「ちょっ、ちょっとあなた!?」
クラクラクラクラ回る世界に、三半規管が悲鳴を上げている。ストンと膝から力が抜けて、身体が傾いだ。床に倒れ込む寸前、誰かに抱きとめられたような気がする。フローラルの甘い香りが、ふんわりと漂った。
――ああ、なんだか、とってもいい匂い。
何の花の匂いだろう。
バラかな?
「ちょっと、しっかりして! 祐一郎、祐一郎、ちょっときて!」
――ユウイチロ? ダレ、ソレ?
あ、もうだめ。
何も、考えられない……。
身体が、闇の底に落ちていく。
そんな感覚に包まれながら、私の意識は、そこでぷっつり途切れた。
ゆらゆら、ゆらゆら。
ふわふわ、ふわふわ。
心地よい感覚に、私は包まれていた。
――なんて、暖かいんだろう……。
いつだったか、そう。子供の頃、こんな感覚を味わったことがある。
お父さんの黒いダンプカーは、まるで鯨さんのように大きい。
黒と灰色の、ツートンカラー。ダンプカーの中には、運転席と助手席。それと。その後ろには、車なのに横になって眠れる寝台席。そこに『ごろりん』と寝ころんで、枕代わりのクッションを抱えて眠るのが大好きだった。
微かなタバコの臭いと、カーラジオから流れる音楽。
運転手のお父さんは、楽しそうに鼻歌を歌う。
助手席には、笑顔のお母さん。
幼い私は、お父さんの鼻歌を子守歌に鯨さんに乗って空を飛ぶ夢を見る。
ゆらゆら、ゆらゆら。
ふわふわ、ふわふわ。
また、乗りたいなぁ。お父さんのダンプカー。
鯨さんの寝台席で眠りたい。
お母さんの手作りのお弁当を持って。
お父さんと、お母さんと、私。
三人で、『お仕事』に、行きたい――。
『茉莉――ん』
――う……ん?
お母さん?
『茉莉さん』
私、まだ眠いの。
もう少し、寝かせて――。
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