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160【真実㉔】

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 なんとなく、課長が私をからかって遊ぶ気持ちが分かった気がする。

 束の間の、たわいないおしゃべりに花を咲かせた楽しい時間はあっという間に過ぎて、ダッシュボードのデジタル時計が午前1時を示す頃、車は私の住むアパートの駐車場へと到着した。

 気持ち的には、『着いてしまった』と言った方が近い。もっともっと、この楽しい時間を共有したかった。名残り惜しいけど、ここまで来たら後は部屋に帰るしか選択肢は残されていない。

 エンジンを止めた課長は、助手席に回ってドアを開けてくれる。

――そんなに気を使ってくれなくても、もう大丈夫なのに。

「今日は、本当に、ありがとうございました」

『すみませんでした』と謝ったら、きっと叱られる。そんな気がして、お礼の言葉を口にして心を込めて頭を下げれば、『部屋まで送るよ』と柔らかい笑みが向けられた。

 いつもの、穏やかで優しい笑顔。
 なのに、なぜか『とくん』と一つ、鼓動が跳ねる。

 部屋の前まで行けば、そこでおしまい。さよならを言って、日常に戻る。上司と部下と言うただそれだけの関係に戻ってしまう。たぶんきっと、二人でこんなふうに語らう時間は二度とはこないだろう。

――それで、いいの?
 本当に、それで、いいの?

 自問の声に、胸の奥で『ためらい』と言う名の小さなさざ波が生まれる。生まれたその小さな波は、徐々に大きくなりながら心の奥深い所に、ざわざわと幾重もの波紋を描いていく。

 心が、揺れる。
 ゆらゆらゆらゆら、心が揺れる。

 私は――

「うん?」

 黙りこんでしまった私に向けられるのは、気遣わしげな瞳。

「あ……あの、課長」

 開きかけたままの口から、想いが言葉になってあふれ出そうとしていた。

『好きです』

 伝えたいのは、たった、それだけのこと。

 言えるよね?

 課長の答えがイエスでもノーでも、私は今、この気持ちを伝えたい。

――うん。

 行け、梓!

 勇気を振り絞り、真っ直ぐ視線を合わせて想いを言葉に変えるために、口をひらく。

「課長、私は――!?」

 でも、ようやく紡いだ言葉は、突然照らし出された眩い光に遮られてしまった。それは、駐車場に入ってきた車のヘッドライト。車は、私たちの所からさほど離れていない場所に滑り込んだ。

 慌ただしく運転席のドアを開けて出てきたのは、なんとなく見覚えのある、サラリーマン風の中年男性。たぶん、同じ階の住人だ。真夜中の帰宅者は、私だけではなかったらしい。通り過ぎざまに、チラリと好奇の視線を投げられ、あたふたと頭を下げ会釈をする。

 それにしても、この笑えるくらいの間の悪さは、いったいなんなの?

 そんなの、分かってる。これは、意地悪な神様のせいでも悪戯好きの悪魔のせいでも、なんでもない。時と場所柄を読めない私が悪い。

――ああ、私ってほんとに。

 がっくりと肩の力が抜け落ちる。

「どうした? 気分でも悪いのか?」

――いいえ。悪いのは、私の要領です。

「……大丈夫です」

 心配げに問う課長に小さく頭を振って、私は、とぼとぼと歩き出した。エントランスを抜けてエレベーターホールの前まで来ると先客の姿は既になく、ほっと胸をなで下ろす。

 ブラウスの胸元は血もどきの赤ワインで汚れまくっているし、真夜中だし。狭いエレベーターの中で、ご近所さんと顔を突き合わせるのは、さすがに心臓に悪い。

「課長、ここで大丈夫ですから」

 上がっていたエレベーターが戻ってくるのをぼんやりと目で追いながら、私は、告白とは程遠い言葉を口にする。

 今日は、色々ありすぎた。
 危機一髪の救出劇から、病院搬送。それに、課長の実のお母さんとの対面。

 さっきのヘッドライトの洗礼で、積年の想いを告げるだけのエネルギーが切れてしまった、というのが正直なところ。

 付き合わされた課長だって疲れているはず。これ以上、迷惑はかけたくない。明日も仕事があるんだから、少しでも早く休んでほしかった。でも課長は、やんわりと笑顔で私の言葉を退ける。

「部屋まで送るよ」
「でも、もうこんな時間ですし」
「部屋まで送る」
「でも……」
「それくらいは、させてくれてもいいだろう? ちゃんと部屋まで送り届けないと、心配で帰れない」

 そんなふうに言われたら、心配の種をまいて巨木に育ててしまった私には、返す言葉が見つからない。


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