上 下
142 / 211

141【真実⑤】

しおりを挟む

「……大丈夫。ここは病院だ。もう、大丈夫だから」

 耳元に落とされる穏やかな声に、ただ小さく、コクリとうなずき返す。背中を撫ぜていた大きな手のひらが肩に回り、一度だけキュッと力がこめられる。

――このまま、時が止まればいいのに。

 その時私が考えていたのは、そんな不謹慎極まりないこと。こんな状況なのに、いまだに恐怖の影は消えることなく尾を引いているのに。こうして彼の腕の中にいることに、この上もなく幸せを感じている。

――ああ。
 私は、やっぱりこの人が好きだ。

 届かなくても。許されなくても。やっぱり、大好きだ。

 恋心ってやつは、なんて救いがたいんだろう。
 でも、どんなに願っても、時が止まってくれるはずはなく。

「ごめん……」

 ぽつりと、謝罪の言葉が耳元に落とされる。

「こんな形で身内のことに巻き込んでしまって、すまなかった」

 心底申し訳なさそうな彼の言葉に、私は、彼の胸に顔を伏せたままギュッと目をつぶる。

『身内のこと』
 そのフレーズが、私の、甘い感傷を打ち砕く。

 彼には、私には立ち入れない彼の領域がある。培ってきた、守るべきモノがある。
 彼は元カレで、今はただの上司。どんなに好きでも。どんなに恋しくても。彼は、私のモノじゃない。

 意図せず発せられた何気ない言葉のひとつに、思い知らされる、現実。薬を盛られて襲われかけるなんて、あまりに非日常な体験をしたから、うっかり忘れていた。

――そうだ。現実に帰れ、梓。

 ふっと緩い抱擁から身を離し、私はいつもの自分に立ち返る。
 谷田部課長の一部下である高橋梓に戻る。

「――私の方こそ、軽はずみなことをして、迷惑をかけてしまって、すみませんでした」

 変に、目頭に熱がこもる。鼻の奥が、ツンと痛い。

――うう、泣くな、バカ。
 子供じゃないんだから、泣くんじゃない。

 決壊しそうな涙をどうにか瀬戸際で食い止めて、ぺこりと、私はベットの上で頭を垂れた。

 課長が手渡してくれた一緒に窮地を切り抜けた長年の友、黒縁メガネちゃんを装着し、視界がクリアになり、ホッと一安心。――と思ったところで、少し不機嫌そうな硬質な声が飛んできた。

「軽はずみなことをした――とは、思っているんだ?」
「……え? あ、はいっ」

 ギョッとして慌てて顔を上げれば、さっきまでの甘さも柔らかい雰囲気もどこへやら。ベットサイドのパイプ椅子に腰を下ろして、両腕を組んだ姿勢の課長の姿。

 心なしか、全身から黒々とした怒りのオーラが立ち上っている気がする。ひどく真剣な眼差しに射抜かれて、いたたまれなくなる。

――うっ、怖い。
 怒られて当然だけど、怖いものは怖い。
 もともと目元が鋭い作りだから、素で睨まれるとかなり迫力がある。
 そういえば、第一印象、『この人、絶対怖い人』だったものなぁ。

「す、すみませんっ」

「あーあ。そんなに苛めたらダメでしょうが。君のために一生懸命頑張ってくれたのに、もう少し、愛想の良い顔ができないんですか、東悟くん?」
「……は?」

 突き刺さる強い視線から逃れるように再び頭を下げたところに、あらぬ方から笑いを含んだ声が飛んできて、私は眉根を寄せた。

……はい?

 聞き覚えのある声と独特な話し方。それは、つい先刻窮地を救ってくれた恩人のものだ。

「風間さん!?」

 病室の中に第三者が居るとは思わなかった私は、思わず、素っ頓狂な声を上げてしまう。驚いて視線を彷徨わせれば、出入り口のドア近くの壁に背を預けて佇む、細身の男性の姿があった。

「はい、風間太郎です」

 微塵も気配を感じさせずにいた麒麟探偵は、軽く右手を上げると、ニッコリと満面の笑顔を浮かべた。



しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

それは、あくまで不埒な蜜戯にて

奏多
恋愛
設楽一楓は、高校生の頃、同級生で生徒会長だった瀬名伊吹に弱みを握られて一度だけ体の関係を持った。 その場限りの約束のはずが、なぜか彼が作った会社に働くことになって!?   一度だけのあやまちをなかったことにして、カリスマ的パワハラ悪魔に仕えていた一楓に、突然悪魔が囁いた――。   「なかったことに出来ると思う? 思い出させてあげるよ、あの日のこと」     ブラック企業での叩き上げプログラマー兼社長秘書 設楽一楓 (しだら いちか)  × 元同級生兼カリスマIT社長 瀬名伊吹 (せな いぶき) ☆現在番外編執筆中☆

副社長氏の一途な恋~執心が結んだ授かり婚~

真木
恋愛
相原麻衣子は、冷たく見えて情に厚い。彼女がいつも衝突ばかりしている、同期の「副社長氏」反田晃を想っているのは秘密だ。麻衣子はある日、晃と一夜を過ごした後、姿をくらます。数年後、晃はミス・アイハラという女性が小さな男の子の手を引いて暮らしているのを知って……。

腹黒御曹司の独占欲から逃げられません 極上の一夜は溺愛のはじまり

春宮ともみ
恋愛
旧題:極甘シンドローム〜敏腕社長は初恋を最後の恋にしたい〜 大手ゼネコン会社社長の一人娘だった明日香は、小学校入学と同時に不慮の事故で両親を亡くし、首都圏から離れた遠縁の親戚宅に預けられ慎ましやかに暮らすことに。質素な生活ながらも愛情をたっぷり受けて充実した学生時代を過ごしたのち、英文系の女子大を卒業後、上京してひとり暮らしをはじめ中堅の人材派遣会社で総務部の事務職として働きだす。そして、ひょんなことから幼いころに面識があったある女性の結婚式に出席したことで、運命の歯車が大きく動きだしてしまい――?  *** ドSで策士な腹黒御曹司×元令嬢OLが紡ぐ、甘酸っぱい初恋ロマンス  *** ◎作中に出てくる企業名、施設・地域名、登場人物が持つ知識等は創作上のフィクションです ◆アルファポリス様のみの掲載(今後も他サイトへの転載は予定していません) ※著者既作「(エタニティブックス)俺様エリートは独占欲全開で愛と快楽に溺れさせる」のサブキャラクター、「【R18】音のない夜に」のヒーローがそれぞれ名前だけ登場しますが、もちろんこちら単体のみでもお楽しみいただけます。彼らをご存知の方はくすっとしていただけたら嬉しいです ※著者が読みたいだけの性癖を詰め込んだ三人称一元視点習作です

冷徹秘書は生贄の恋人を溺愛する

砂原雑音
恋愛
旧題:正しい媚薬の使用法 ……先輩。 なんて人に、なんてものを盛ってくれたんですか……! グラスに盛られた「天使の媚薬」 それを綺麗に飲み干したのは、わが社で「悪魔」と呼ばれる超エリートの社長秘書。 果たして悪魔に媚薬は効果があるのか。 確かめる前に逃げ出そうとしたら、がっつり捕まり。気づいたら、悪魔の微笑が私を見下ろしていたのでした。 ※多少無理やり表現あります※多少……?

【R18】星屑オートマタ

春宮ともみ
恋愛
付き合う男にはことごとく裏切られて振られる。 30代、未婚、彼氏無し。崖っぷちのアラフォーライターの私の前に現れたのは、年下の男の子。誰かに振られるたびに心も身体も慰めて貰うようになり、いつの間にかセフレとなってしまった。 一念発起し、そのセフレとの関係を断ち切り新たな一歩を踏み出した。けれども実はその男の子がとある企業の御曹司だったことが発覚し、思わぬ邂逅から激しく執着されて――!? 「僕はずっと、あなたを探してた」 「もう逃がさない」 歪な過去を否定したくて淡い恋心を見ないふりをしてきたやよい。そして、ついに。 『やよい。俺じゃ、だめか?』  --- 過去の経験から拗らせて恋に臆病になってしまったふたりが紡ぐ、切なめオフィスラブ。  --- *印=R18 ◎全38話+番外編SS1話 ◎初出:ムーンライトノベルズ。こちらは細かい部分を加筆修正した改稿版です。 ◎作中に出てくる企業名、情報、登場人物が持つ知識等は創作上のフィクションです ◎本作は作者の他作品「愛と快楽に溺れて(『俺様エリートは独占欲全開で愛と快楽に溺れさせる/エタニティブックス』)」と同じ世界観の物語です。前述作品の完結より5年の月日が経っている設定ですが、若干名の登場人物の被りがあるだけで本作単体のみでもお楽しみいただけます。 ️ただし『外伝』完結後のネタバレが含まれております。ご興味のある方は元になった作品も覗いていただけたら幸いです。 ※表紙はpixabay様よりお借りし、SS表紙メーカー様にて加工しております

桃色溺愛婚 〜強面御曹司は強情妻を溺愛し過ぎて止まらない〜

花室 芽苳
恋愛
【本編完結/番外編追加します】  幼い頃から匡介に苦手意識を持つ杏凛。しかし親同士の付き合いで、顔を合わす事も少なくなかった。  彼女が彼を苦手な事はみんなが知っている事だったが、そんな時……尊敬する祖父の会社が経営難に!?いったいどうすればと悩む杏里。 「杏凛、俺と契約結婚をしなさい。そうすれば君を助けてやる事も出来る」  いきなり現れた匡介から契約結婚を持ち掛けられる。驚く杏凛に匡介は…… 「3年間だけでいい、その間に君の祖父の会社を立て直してみせるから」 「そんな言葉で私がすんなりあなたに嫁ぐとでも?」  しかしこのままでは祖父も会社も救う事が出来ない、ついに杏凛は決意する。 「私に必要以上に構わなくていいのです。こんな強情な契約妻は放っておいて匡介さんは好きな事をしてください」 「夫が妻に構う事の何が悪い?俺は杏凛を放っておいてまでしたい事なんて無い」  杏凛は自分をどんどん甘やかし過保護になっていく匡介に戸惑う。 (昔の彼は私に冷たい眼差しを向けるだけだったのに。今の彼にどういう態度をとればいいのか分からない――――)  妻への過保護な愛情と嫉妬心に振り回される夫、匡介 190㎝ 35歳  夫への苦手意識から冷たい態度しかとれない妻、杏凛 169㎝ 29歳

俺様エリートは独占欲全開で愛と快楽に溺れさせる

春宮ともみ
恋愛
旧題:愛と快楽に溺れて ◆第14回恋愛小説大賞【奨励賞】受賞いたしました  応援頂き本当にありがとうございました*_ _) --- 私たちの始まりは傷の舐めあいだった。 結婚直前の彼女にフラれた男と、プロポーズ直前の彼氏に裏切られた女。 どちらからとなく惹かれあい、傷を舐めあうように時間を共にした。 …………はずだったのに、いつの間にか搦めとられて身動きが出来なくなっていた。 肉食ワイルド系ドS男子に身も心も溶かされてじりじりと溺愛されていく、濃厚な執着愛のお話。 --- 元婚約者に全てを砕かれた男と 元彼氏に"不感症"と言われ捨てられた女が紡ぐ、 トラウマ持ちふたりの時々シリアスじれじれ溺愛ストーリー。 --- *印=R18 ※印=流血表現含む暴力的・残酷描写があります。苦手な方はご注意ください。 ◎タイトル番号の横にサブタイトルがあるものは他キャラ目線のお話です。 ◎恋愛や人間関係に傷ついた登場人物ばかりでシリアスで重たいシーン多め。腹黒や悪役もいますが全ての登場人物が物語を経て成長していきます。 ◎(微量)ざまぁ&スカッと・(一部のみ)下品な表現・(一部のみ)無理矢理の描写あり。稀に予告無く入ります。苦手な方は気をつけて読み進めて頂けたら幸いです。 ◎作中に出てくる企業、情報、登場人物が持つ知識等は創作上のフィクションです。 ◆20/5/15〜(基本)毎日更新にて連載、20/12/26本編完結しました。  処女作でしたが長い間お付き合い頂きありがとうございました。 ▼ 作中に登場するとあるキャラクターが紡ぐ恋物語の顛末  →12/27完結済 https://www.alphapolis.co.jp/novel/641789619/770393183 (本編中盤の『挿話 Our if story.』まで読まれてから、こちらを読み進めていただけると理解が深まるかと思います)

【R18】エリートビジネスマンの裏の顔

白波瀬 綾音
恋愛
御社のエース、危険人物すぎます​─​──​。 私、高瀬緋莉(27)は、思いを寄せていた業界最大手の同業他社勤務のエリート営業マン檜垣瑤太(30)に執着され、軟禁されてしまう。 同じチームの後輩、石橋蓮(25)が異変に気付くが…… この生活に果たして救いはあるのか。 ※完結済み、手直ししながら随時upしていきます ※サムネにAI生成画像を使用しています

処理中です...