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141【真実⑤】
しおりを挟む「……大丈夫。ここは病院だ。もう、大丈夫だから」
耳元に落とされる穏やかな声に、ただ小さく、コクリとうなずき返す。背中を撫ぜていた大きな手のひらが肩に回り、一度だけキュッと力がこめられる。
――このまま、時が止まればいいのに。
その時私が考えていたのは、そんな不謹慎極まりないこと。こんな状況なのに、いまだに恐怖の影は消えることなく尾を引いているのに。こうして彼の腕の中にいることに、この上もなく幸せを感じている。
――ああ。
私は、やっぱりこの人が好きだ。
届かなくても。許されなくても。やっぱり、大好きだ。
恋心ってやつは、なんて救いがたいんだろう。
でも、どんなに願っても、時が止まってくれるはずはなく。
「ごめん……」
ぽつりと、謝罪の言葉が耳元に落とされる。
「こんな形で身内のことに巻き込んでしまって、すまなかった」
心底申し訳なさそうな彼の言葉に、私は、彼の胸に顔を伏せたままギュッと目をつぶる。
『身内のこと』
そのフレーズが、私の、甘い感傷を打ち砕く。
彼には、私には立ち入れない彼の領域がある。培ってきた、守るべきモノがある。
彼は元カレで、今はただの上司。どんなに好きでも。どんなに恋しくても。彼は、私のモノじゃない。
意図せず発せられた何気ない言葉のひとつに、思い知らされる、現実。薬を盛られて襲われかけるなんて、あまりに非日常な体験をしたから、うっかり忘れていた。
――そうだ。現実に帰れ、梓。
ふっと緩い抱擁から身を離し、私はいつもの自分に立ち返る。
谷田部課長の一部下である高橋梓に戻る。
「――私の方こそ、軽はずみなことをして、迷惑をかけてしまって、すみませんでした」
変に、目頭に熱がこもる。鼻の奥が、ツンと痛い。
――うう、泣くな、バカ。
子供じゃないんだから、泣くんじゃない。
決壊しそうな涙をどうにか瀬戸際で食い止めて、ぺこりと、私はベットの上で頭を垂れた。
課長が手渡してくれた一緒に窮地を切り抜けた長年の友、黒縁メガネちゃんを装着し、視界がクリアになり、ホッと一安心。――と思ったところで、少し不機嫌そうな硬質な声が飛んできた。
「軽はずみなことをした――とは、思っているんだ?」
「……え? あ、はいっ」
ギョッとして慌てて顔を上げれば、さっきまでの甘さも柔らかい雰囲気もどこへやら。ベットサイドのパイプ椅子に腰を下ろして、両腕を組んだ姿勢の課長の姿。
心なしか、全身から黒々とした怒りのオーラが立ち上っている気がする。ひどく真剣な眼差しに射抜かれて、いたたまれなくなる。
――うっ、怖い。
怒られて当然だけど、怖いものは怖い。
もともと目元が鋭い作りだから、素で睨まれるとかなり迫力がある。
そういえば、第一印象、『この人、絶対怖い人』だったものなぁ。
「す、すみませんっ」
「あーあ。そんなに苛めたらダメでしょうが。君のために一生懸命頑張ってくれたのに、もう少し、愛想の良い顔ができないんですか、東悟くん?」
「……は?」
突き刺さる強い視線から逃れるように再び頭を下げたところに、あらぬ方から笑いを含んだ声が飛んできて、私は眉根を寄せた。
……はい?
聞き覚えのある声と独特な話し方。それは、つい先刻窮地を救ってくれた恩人のものだ。
「風間さん!?」
病室の中に第三者が居るとは思わなかった私は、思わず、素っ頓狂な声を上げてしまう。驚いて視線を彷徨わせれば、出入り口のドア近くの壁に背を預けて佇む、細身の男性の姿があった。
「はい、風間太郎です」
微塵も気配を感じさせずにいた麒麟探偵は、軽く右手を上げると、ニッコリと満面の笑顔を浮かべた。
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