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03【再会③】
しおりを挟む「どうぞ、よろしく――」
動じるふうもなく、男は右手を差し出して、少し鋭さを感じさせる目元を微かに綻ばせた。その姿も声も、私が知っている元恋人『榊東悟』その人に違いはないのに。ないはずなのに。
内心、混乱の極地で動揺しまくっている私に対する男の表情は至って冷静で、まるで平常心。そこに、『私を知っているそぶり』は、微塵もみられない。
私はますます混乱して、頭一つ分高い位置にあるその男、工務課の新課長・谷田部東悟の顔を呆然と見上げた。
――東悟じゃ、ないの?
本当に、他人の空似なの?
黒い男の瞳には、驚きも、戸惑いも、なんの感情の動きも見られない。
「センパイ? 梓センパイってば、どうしたんですか?」
「あ! いいえ、ごめんなさいっ、なんでもないの。高橋梓です。よろしくお願いします!」
傍らに立つ美加ちゃんの訝しげな声に、ハッと現実に引き戻された私は、一礼してから慌てて差し出されままの男の右手に自分の右手を伸ばした。そして指先が男の大きな手に触れた瞬間、ドキリと心の奥に震えが走った。
手のひらから伝わってきた、サラサラとした温かい感触。
――手が、覚えている。繋いだ手の感触を、私の手が覚えている。
その私の驚きを感じ取ったのか否か。長いようで恐らく実際は数秒間くらいだろう握手の最後。一瞬だけ、男は右手にグッと力を込めた後、すうっと私の手を放した。
「じゃあ、まずは工務課に案内して貰えますか、高橋さん?」
ニコリと、男が笑う。
「あ、はい! こちらです、どうぞ」
これが、私のただの思いこみなのか。それともこの男は間違いなく私が知っている東悟で、私だと気付いていて『すっとぼけている』のか。もしくは、私のことなど忘れ去っているか。色々な可能性が頭の中をグルグル駆け回り、もう、何が何だか分からない――。
東悟。榊東悟との出会いは、十年前。私が十八の年、大学に入学して間もなくだった。
地方から都心の大学に入学したばかりの私は、田舎とは違う都会のスピード感に付いていけずにいた。もともと人見知り傾向で、人になじむのに時間がかかる性分も相まって、時間に追われる生活に疲れ、早くもホームシックになっていたのかもしれない。
そんな中、彼に、榊東悟に出会った。
六月。早い夏を感じさせる、雨上がりの爽やかな朝。講義の時間に遅れそうになって慌てていた私は、大学の構内に入ってすぐ、ぬかるみに足を取られて派手にすっころんでしまった。
「っ……た~い!」
目の前に広がるのは、水たまりの中に見事にぶちまけた鞄の中身。助け船を出してくれる友人も、知り合いさえもまだ誰も居ず。人波は、冷ややかな視線を向けるだけで、私を避けて通り過ぎていく。
「あ、ああっ! レポート、びしょびしょだぁっ!」
思わず、方言丸出しな尻上がりのイントーネションの言葉が、口から飛び出す。辞書やテキスト、それに、昨日明け方まで掛かって仕上げた今日提出期限のレポートまでまんべんなく、泥の洗礼を受けていた。
どうしよう! どうしよう!
みんな泥だらけ! レポートも泥だらけ!
講義の時間も間に合わない!
どうしよう!
半泣きで泥に浸ったレポートを拾い上げ、パタパタと振ったら更に泥まみれになって被害拡大。おまけに、跳ね飛んだ水しぶきが、白いブラウスにひょうきんな水玉模様を描いている。たぶん、顔にも跳ね飛んでいるはずだ。
鼻の奥に、熱いモノがツンと込み上げ、メガネのレンズに張り付いた茶色いしぶきが、ぶわっと歪んで滲んだ。
ああ、私って……。
「どんくさいヤツ!」
まるで、私の心を読んだかのようなセリフが頭上から振ってきて、私はレポートを掴んだまま『ぴきっ』と固まった。
低音の、甘い声音。
知らない、男の声だ。
「その一。まずは、立ち上がる!」
「え、ええっ!?」
またも、頭上から振ってきた命令口調の大きな声に驚いて、私は『シャキーン!』と立ち上がった。
「その二。落ちたモノを拾う!」
「は、はいっ!」
私の背後に立っているだろう声の主の姿を確認する暇もなく、更にかかった命令に、私は落ちた荷物必死で拾いあつめた。そして、最後のノートに手を伸ばした時。視界に入ってきたのは、ノートを拾い上げる長い指先を持った大きな手。その手は、デニム地のシャツに包まれた長い腕へと続き。その先には、同い年くらいに見える端正な顔立ちをした青年の、少し鋭い感じのする真っ直ぐな瞳があった。
「はいよ」
「あ、す、すみませんっ」
妥協を許さないような、真っ直ぐな強い瞳。触れたらスパッと切れそうなその雰囲気が、正直、怖かった。
私はしどろもどろになりながら、怖々と彼の差し出すノートを受け取った。
「その三。すみませんじゃなくて、ありがとう」
「は……?」
「あ・り・が・と・う」
言葉の意味が分からず間抜けな声を上げる私に、彼は、口をハッキリ開けて発音してみせる。
どうやら、彼は『すみません』ではなく『ありがとう』と言って欲しいらしい。そう、半ばパニック状態で理解した私は『ぴきん』と固まったまま、まるでコメツキバッタのように、深々とお辞儀をした。
「あ、ありがとうございますっ!」
その私の様子に笑いのツボを刺激されたのか、彼はクスクスと声を上げて笑い出した。
「面白いヤツ」
おずおずと視線を上げると、ちょっと怖いと感じた黒い瞳が、柔和そうに細められている。とたんに、さっきまで纏っていた鋭い雰囲気が払拭されてしまう。
うわぁ、笑うとメチャクチャ優しそう。このギャップは、反則だぁ……。
頬の熱さと、恥ずかしくなるくらいに高鳴る鼓動。
――たぶん、それが始まり。
『一目惚れなんてあるはずがない』
そう思ってきた十八歳の奥手な田舎娘は、始めての恋で、それを身をもって経験したのだ。
そして。
恋が愛に変わるのに、そんなに時間はかからなかった――。
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