上 下
28 / 52
第九話 【帰宅】帰るべき場所へ。

28

しおりを挟む

 その夜。
 私は、疲れ切った重い体を引きずるようにして、アパートへの帰路についた。

 明日は月曜日。しがないOLの身では、落ち込んでいるからと言って、月曜から会社を休むわけにはいかない。

 バスと電車を乗り継ぎ、アパートの最寄りの駅に着いたのは、夜の十一時を回っていた。

 体にまとわりつく湿気を含んだ生ぬるい夜風が、昼間の海での出来事を思い出させる。

 陰りのない、真っ直ぐな黒い瞳。
 少年の様な、屈託のない笑顔。
 頬に伝う涙を拭う、優しい指先。
 ヒンヤリと、心地よい体温。
 甘い香りと、そして――。
  
 アパートにほど近い路地裏で、唇に触れた柔らかい感触が蘇ってきてしまい、私はその場に立ち止まった。

 抱えていた荷物を足下に放り出すように落として、震える両手で、自分の唇をそっと覆い隠す。

 分かっている。
 あれは、特別な意味のある行為じゃない。

 ただの人命救助。

 私じゃなくったって、赤の他人だって、伊藤君は同じ行動をとっただろう。

 彼は、そういう人間ひとだ。

 恋人を、友人を平気で裏切れる、私みたいに最低な人間じゃない。

 私に、浩二をとやかく言う資格なんてありはしない。

 別に浩二に強制されたからじゃなく、私は、自分の意志で伊藤君と出かけたのだから。

 諦めも要領も悪くて、強欲。

 そいう意味では、私と浩二はよく似ている。ツンと、鼻の奥がきな臭くなる。

「さすが、いとこどうし!」

 胸に熱いモノが込み上げてきてしまった私は、気を紛らわすように軽口を叩いて空を振り仰いだ。

 夜空に浮かぶのは、ちょっとスリムな月と、綺麗な星屑。

 せっかく奇麗なのに、なんだか歪んで滲んだ。

――ああ、直也の声が聞きたいなぁ。あのほっとできるような優しい声が聞きたい。

 明日になったら、一番で直也に電話をかけよう。

 そう、思った。

「生まれて初めて救急車に乗っちゃったー!」

 そう言って、驚かせてあげよう。きっと目を丸めて驚いてくれるだろう。

「亜弓か?」

「え……?」

 直也の声が聞こえた気がして、私は慌てて周りを見渡した。

「ああ、やっぱり、亜弓か。どうしたんだ、そんな所に突っ立って?」

 聞き慣れた穏やかなトーンの優しい声音が、夜のとばりに包まれた路地裏に静かに染み渡る。

「直……也?」

 信じられない思い出視線を巡らせれば、コンビニの買い物袋を下げた、メガネの男性がいた。アパートの入り口から、ゆっくりとした足どりで歩み寄ってくる懐かしい人影を認めて、心の中に広がったのは、泣きたくなるような安堵感。

 私は荷物を路上に置いたまま、そのまま引き寄せられるように、ふらふらと歩き出した。


しおりを挟む
★浩二視点の物語も同時連載中です。
よかったら、ご賞味くださいませ。^^
『ひまわり~この夏、君がくれたもの~』

【オリジナル小説検索サイト・恋愛遊牧民R+】
感想 0

あなたにおすすめの小説

お飾りの侯爵夫人

悠木矢彩
恋愛
今宵もあの方は帰ってきてくださらない… フリーアイコン あままつ様のを使用させて頂いています。

彼女にも愛する人がいた

まるまる⭐️
恋愛
既に冷たくなった王妃を見つけたのは、彼女に食事を運んで来た侍女だった。 「宮廷医の見立てでは、王妃様の死因は餓死。然も彼が言うには、王妃様は亡くなってから既に2、3日は経過しているだろうとの事でした」 そう宰相から報告を受けた俺は、自分の耳を疑った。 餓死だと? この王宮で?  彼女は俺の従兄妹で隣国ジルハイムの王女だ。 俺の背中を嫌な汗が流れた。 では、亡くなってから今日まで、彼女がいない事に誰も気付きもしなかったと言うのか…? そんな馬鹿な…。信じられなかった。 だがそんな俺を他所に宰相は更に告げる。 「亡くなった王妃様は陛下の子を懐妊されておりました」と…。 彼女がこの国へ嫁いで来て2年。漸く子が出来た事をこんな形で知るなんて…。 俺はその報告に愕然とした。

挙式後すぐに離婚届を手渡された私は、この結婚は予め捨てられることが確定していた事実を知らされました

結城芙由奈@12/27電子書籍配信中
恋愛
【結婚した日に、「君にこれを預けておく」と離婚届を手渡されました】 今日、私は子供の頃からずっと大好きだった人と結婚した。しかし、式の後に絶望的な事を彼に言われた。 「ごめん、本当は君とは結婚したくなかったんだ。これを預けておくから、その気になったら提出してくれ」 そう言って手渡されたのは何と離婚届けだった。 そしてどこまでも冷たい態度の夫の行動に傷つけられていく私。 けれどその裏には私の知らない、ある深い事情が隠されていた。 その真意を知った時、私は―。 ※暫く鬱展開が続きます ※他サイトでも投稿中

"わたし"が死んで、"私"が生まれた日。

青花美来
ライト文芸
目が覚めたら、病院のベッドの上だった。 大怪我を負っていた私は、その時全ての記憶を失っていた。 私はどうしてこんな怪我をしているのだろう。 私は一体、どんな人生を歩んできたのだろう。 忘れたままなんて、怖いから。 それがどんなに辛い記憶だったとしても、全てを思い出したい。 第5回ライト文芸大賞にて奨励賞を受賞しました。ありがとうございました。

【完結】彼を幸せにする十の方法

玉響なつめ
恋愛
貴族令嬢のフィリアには婚約者がいる。 フィリアが望んで結ばれた婚約、その相手であるキリアンはいつだって冷静だ。 婚約者としての義務は果たしてくれるし常に彼女を尊重してくれる。 しかし、フィリアが望まなければキリアンは動かない。 婚約したのだからいつかは心を開いてくれて、距離も縮まる――そう信じていたフィリアの心は、とある夜会での事件でぽっきり折れてしまった。 婚約を解消することは難しいが、少なくともこれ以上迷惑をかけずに夫婦としてどうあるべきか……フィリアは悩みながらも、キリアンが一番幸せになれる方法を探すために行動を起こすのだった。 ※小説家になろう・カクヨムにも掲載しています。

思い出さなければ良かったのに

田沢みん
恋愛
「お前の29歳の誕生日には絶対に帰って来るから」そう言い残して3年後、彼は私の誕生日に帰って来た。 大事なことを忘れたまま。 *本編完結済。不定期で番外編を更新中です。

皇太子夫妻の歪んだ結婚 

夕鈴
恋愛
皇太子妃リーンは夫の秘密に気付いてしまった。 その秘密はリーンにとって許せないものだった。結婚1日目にして離縁を決意したリーンの夫婦生活の始まりだった。 本編完結してます。 番外編を更新中です。

片想い婚〜今日、姉の婚約者と結婚します〜

橘しづき
恋愛
 姉には幼い頃から婚約者がいた。両家が決めた相手だった。お互いの家の繁栄のための結婚だという。    私はその彼に、幼い頃からずっと恋心を抱いていた。叶わぬ恋に辟易し、秘めた想いは誰に言わず、二人の結婚式にのぞんだ。    だが当日、姉は結婚式に来なかった。  パニックに陥る両親たち、悲しげな愛しい人。そこで自分の口から声が出た。 「私が……蒼一さんと結婚します」    姉の身代わりに結婚した咲良。好きな人と夫婦になれるも、心も体も通じ合えない片想い。

処理中です...